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すれ違い

 ※ルシスの母親視点になります。


 契りの間の扉が開くと、生気を失ったかのように顔色を蒼白に変えたルシスが、脆くも床へと崩れ落ちた。私は焦燥に駆られ、すぐに愛娘の華奢な体を背に担ぎ上げ、寝室の天蓋付きのベッドへと急いだ。


「お姉ちゃん、大丈夫なのですか?倒れてからずっと目を覚ましません。お母様、契りの間で一体何が起こったのですか?」


 幼きカァラァとリプロが、縋るような瞳で私を見上げる。彼らの不安げな声に、私は平静を装って答えた。


「心配はいらないわ。ルシスは悪魔との契約にその身と魂を酷く疲れさせて、深く眠っているだけよ。あなたたちも、偉大な悪魔様との契約を終え、疲労困憊しているでしょう。さあ、それぞれの部屋に戻り、ゆっくりと休むがよいわ」


 純真な二人は私の言葉を信じ、素直に自室へと戻っていった。扉が閉ざされ、広大な部屋に静寂が訪れると、私の心に重く冷たい現実が押し寄せた。


「これは、尋常ならざる事態だわ……」


 ルシスの体からは、もはや微塵も魔力を感じ取ることができなかった。魔族にとって、魔力とは肉体を動かす生命の奔流であり、魂の輝きそのもの。それが完全に枯れ果てるということは、死に等しいも同然なのだ。魔力の消失という、この恐るべき異変の原因を探るには、魔族の魂の核である魔石の状態を確認するのが、古くからの習わしであった。私は、ライオンの頭と五本の山羊の脚を持つ悪魔、ブエルと契約を交わしている。ブエルの能力(スキル)は、生命の輝きを見通し、癒しをもたらす治癒の力。その能力を究めるため、私は人体の構造を、そして魔族の生命の神秘の奥底までをも調べ尽くしてきた。この魔界において、生命の機微に通じる者は私を置いて他にないという自負があった。

 魔族の魔石は、その種族や血統によって異なる色を宿す。我々魔族のそれは、深遠なる紫の輝きを放ち、上位魔族に至っては、闇そのもののような漆黒となる。魔石の色と、その輝きの濃度によって、宿す魔力の総量が測られる。言うまでもなく、魔王の血を引く三人の子供たちは皆、最上級の、濃密な黒色の魔石を宿していた。中でも、ルシスの魔石は別格であった。それは、黒の中の黒、あらゆる光さえも飲み込み、宇宙の深淵を思わせる伝説のベンタブラック。この至高の魔石を宿すルシスこそ、歴代最高の、そして最強の魔王となるだろうと、私は微塵も疑わなかったのだ。

 それなのに、ブエルの瞳の力を借りてルシスの魔石を視た時、私の目に映ったのは、信じがたい光景であった。漆黒の深淵は消え失せ、そこに宿っていたのは、ただ純粋な白。白き魔石は、魔力を持たぬ人間男性、もしくは魔石が完全に死滅したことを意味する。しかし、ルシスはかすかに呼吸を続けている。死んではいないのだ。一体、あの契りの間で何が起きたというのか?ルシスが意識を取り戻した時、その口から真実を語らせなければならない。だが、今はその時を待つ余裕などなかった。魔石の色は、通常では外から窺い知ることはできない。しかし、ルシスの頭部に生える魔族の角までもが、その先から徐々に白く染まっていた。なぜ角までが変色したのか、その原因は不明だが、この恐るべき事実が他の魔族の知るところとなれば、取り返しのつかない事態となる。


「このまま、いっそ、逝ってしまってくれたら……それが、一番良かったのかもしれない……」


 私の唇から、心の奥底で蠢いていた非道な願いが、ぽろりと零れ落ちた。


 周囲には誰もいなかった。ただ、永遠の眠りについたかのように、目を覚まさないルシスだけがそこにいた。彼女がこのまま息を引き取れば、この魔界の未来のためには、それが最善の道なのかもしれない。


「いや、違う!」


 私はすぐにその考えを打ち消した。いくら魔力を失ったとはいえ、我が子が死んだほうが良いなどと考えるのは、母親として失格だ。おそらく、カァラァとリプロも、ルシスから魔力が消え失せていることに薄々気づいているはずだ。それでも、彼らのルシスへの深い愛情は変わらない。幼い彼らは、きっと、姉がすぐに魔力を取り戻すだろうと、甘い幻想を抱いているに違いない。しかし、魔王補佐官たる私が、そのような夢物語に浸るわけにはいかなかった。三人の子供たちが十五の歳を迎える時、魔界大総会が開催され、次なる魔王が選定されるのだ。魔界大総会まで、まだ十年の歳月がある。その間、私は魔王不在のこの魔界の秩序と平和を、魔王補佐官として守り抜かねばならない。小さな希望に縋るよりも、確かな力を持つカァラァとリプロを、次代の魔王に相応しい存在へと育て上げなければならないのだ。

 ルシスには心底申し訳ないが、魔力を失った彼女を中心に据えて動くわけにはいかない。私は母親である前に、十五年もの長きにわたり魔王が不在であったこの魔界の平和と秩序を守る、重責を担う魔王補佐官なのだ。

 私は苦渋の決断を下した。ルシスを、魔王城の地下深くに広がる魔王書庫へと幽閉することにしたのだ。公には、ルシスが不治の難病を発症し、その治療のため地下の秘密施設で療養することになったと発表するつもりである。魔石が白く変じて魔力を失ったルシスは、もはや魔族とは呼べぬ存在。この真実が世に知れ渡れば、ルシスは魔族としての存在を否定され、処刑される可能性さえあったのだ。


 魔力がなくとも、魔石がどんな色であろうとも、ルシスは私の大切な子供である。彼女は三歳の頃から書物が大好きで、いつもこの魔王書庫に籠もり、古の知識や物語を読み耽っていた。せめて、あの子の愛する書物に囲まれた場所で、安らぎの時を過ごさせてあげたいと、私は願った。

 こぼれ落ちそうになる熱い涙を必死に堪え、私はこの非情で、しかし我が子を守るための決断を下した。



 ※ここからルシス視点となります。


 私の体は、まるで私のものではなくなったかのように、全く動かすことができなかった。瞼さえ開くことができず、ただ深い暗闇の中に閉じ込められている。しかし、母上と弟たちの声だけは、確かにこの耳に届いていた。

 これが、あの七大天使と契約を交わした代償なのだろうか?私はこのまま、永劫にも感じられる三年間を、生ける屍のような状態で過ごさねばならないというのか?これが、あのミカエルが告げた頑張れという意味だというのなら、あまりにも残酷ではないか?涙も声も出せない私は、ただただ深い悲しみに震えることしかできなかった。


「これは、一時的なものですよ」


 その時、頭の中に、柔らかな女性の声が響いた。私は声を出すことができない。故に、心の中で囁き返す。


「その声は……ガブリエル様でしょうか?」

「ええ、その通りですよ。少し心配になったので、天界からテレパシーを届けています。長く話すことはできませんから、手短に伝えますね。七人もの天使、しかも大天使と契約を結んでしまったのですから、あなたの体には相当な負担がかかっているようです。でも、ご安心ください。明日になれば、最低限の生活を送れるようになるはずですから」


 そう告げると、ガブリエルの声は、まるで霧のように消え去った。ガブリエルの説明を聞いて、私の心に僅かな安堵が広がった。明日になれば、最低限の生活ができるようになる。そうすれば、母上にこれまでの事情を全て話し、理解してもらおうと、私は固く決意した。

 その瞬間だった。母上の、冷たく、しかしはっきりと耳に届く声が聞こえた。


「このまま、いっそ、逝ってしまってくれたら……それが、一番良かったのかもしれない……」


 そんな……。母上が、そのようなことを思っていたなんて……。涙を流すことすらできない私の心は、激しく打ち砕かれた。母上にとって、魔力を失った私は、もはや必要のない存在だったのだ。確かに、私は膨大な魔力を授かり、三歳の頃から魔王となるための英才教育を受けてきた。しかし、それ以上に、私は母上からの深い愛情を感じながら育ってきたと信じていたのだ。魔王の子としてこの世に転生し、何一つ不安を感じることなく、魔族として生きてこられたのは、他ならぬ母上の愛情のおかげだと私は思っていた。


 悲しみと絶望に心が軋み、もう何も考えることさえ嫌になった私は、そのまま意識の淵へと沈んでいった。それは、あまりにも深く、あまりにも残酷な、魂を揺さぶる衝撃だった。


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