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ノック

 ※ルシスの母親視点になります。


 静寂が、まるで重い布のように私を包み込んでいた。目の前には、太古より血族の運命を紡いできた契りの間の重厚な扉。その向こうで、私の愛しい娘、ルシスが、悪魔との盟約を結んでいるはずだった。もう一時間をゆうに超える刻が過ぎ去っている。下の息子たちは、三十分ほどで契約を終え、幼い顔に高揚と疲労を滲ませて部屋を出てきたというのに。

 悪魔との契約は、通常であれば一〇分から二〇分で済むものが常だ。魔族の血をその身に宿し、呪われた力を己が魂に刻み込むには、果てなき研鑽と血の滲むような試行錯誤が不可欠である。悪魔の能力(スキル)を魔法や新たな才覚へと昇華させ、あるいは身体能力を高めるかは、個々の鍛錬と試練の賜物なのだから。すなわち、悪魔との契約とは、無限とも言える可能性の扉を開くものであり、すぐに強大な魔法や能力を振るえるようになるわけではない。偉大な悪魔と契約を結んだとしても、それを使いこなす知識と鍛錬がなければ、それは宝の持ち腐れとなる。逆に言えば、低級悪魔との契約であっても、その使い方次第では上級悪魔の能力(スキル)をも凌駕し得るのである。

 しかし、一時間を超える沈黙。ルシスは一体、どのような悪魔と、そして幾柱もの悪魔と契約を交わしているのだろうか? 胸を締め付ける不安が渦巻く一方で、私の中に宿る底知れぬ期待が、不安を飲み込むように膨らんでいくのもまた事実だった。ルシスが、どれほどの強大な能力を授かっているのか、それを想像するたびに私の心は波立つ。


「お母様、お姉ちゃん、どうしちゃったのかな。なんだか、ずいぶん長い気がするよ」


 今にも涙を零しそうな顔で、幼いリプロが私の衣の裾を引いた。その震える声に、私自身の不安が再び募る。


「リプロ兄ちゃん、心配いらないよ!お姉ちゃんはね、たくさんの悪魔様が契約を結びたくて、順番待ちしてるだけだよ!」


 リプロとは対照的に、まだ幼いカァラァは、姉の心配をするどころか、燃えるような憧憬の眼差しで契りの間の扉をじっと見つめていた。私は精一杯の平静を装い、二人の頭を撫でた。


 「リプロ、カァラァの言う通りよ。ルシスは今、たくさんの悪魔の中から、どの悪魔と契約すべきか、深く悩んでいるはずだわ。あの子は魔力だけじゃなく、知力も非常に高いからね。どんな悪魔の能力(スキル)が、いかに有効的に使えるのか、熟考しているに違いないのよ」


 私の言葉に、リプロの顔にわずかな光が戻った。


 「さすが僕の大好きなお姉ちゃん!魔力だけじゃなく、頭が良いところも大好きな理由の一つだよ!」

 

 と、嬉しそうに呟く。


「早く契約した悪魔様の能力(スキル)を最大限に活かして、お姉ちゃんの力になれるように頑張らないと!」


 カァラァは、扉に吸い寄せられるように視線を向けたまま、決意を口にする。

 三人が扉の前で待ち続けること、実に一時間半。その時、ついに扉の向こうから、かすかな音が響いた。


 『トントン、トントン』


 なぜか扉は開かれず、まるで指先で叩くような、小さなノック音が鳴ったのだ。奇妙な、あまりに弱々しい音。胸に冷たい予感が走り、私は反射的に扉に手をかけた。



 ※ルシス視点に戻ります。


 悩んでいても仕方ない。今はこの状況を、ありのままに伝えるしかないのだから……。


 体から魔力が、そして生命の躍動までもが引き抜かれたかのように、私は床に崩れ落ちた。指一本動かすことも叶わず、ただ冷たい床に身を投げ出すしかなかった。助けを呼ぼうにも、喉から声は出ず、身じろぎもできない。合図を送ることすら叶わないまま、私は途方もない時間を床の上で、身体能力が回復するのを待つしかなかった。およそ三十分が経過した頃、ようやく床を這いずる程度の力が戻ってきた。私は渾身の力を振り絞り、這うようにして、やっとの思いで契りの間の扉へと辿り着いたのだ。

 しかし、扉を開けるには、その取っ手に手をかけなければならない。床に這いつくばったままでは、それすら叶わない。私は、辛うじて細枝を握るほどの握力で、扉の突起部分を掴んだ。赤子のように震える手足で、扉に両手をついて、かろうじて立ち上がることに成功した。扉の取っ手は、ちょうど私の目線の少し上、手を伸ばせば届くはずの位置にある。私は、力を振り絞って両手を上げ、その取っ手へ手をかけた。


 「この扉は、こんなにも重い扉だったの?入る時は、あんなに簡単に開いたはずなのに……」


 心の中で呟く。扉が開けられないという事実が、私の筋力が底をついている何よりの証拠だった。魔石が浄化されたことで、私は魔力を失った。魔石は魔力を供給するエネルギー源であると同時に、筋力の増強や運動能力の向上にも密接に関わっているのだ。一方、思考力や知力、記憶力といった、脳から伝達されるエネルギーに関わる能力は、幸いにも正常に機能している。だが、この体は、まるで抜け殻のように重く、動かない。


 「ダメなのです。扉が開かないのです」


 魔力を失ったことへの後悔は、微塵もない。三年間を耐え忍べば、魔力を取り戻すどころか、想像を絶するチートな力を手に入れることができるのだから。だが、扉すら開けられない今の自分は、まさに絶望的な苦境に立たされているのもまた事実だった。しかも、お母様にこの状況を理解してもらえなければ、私の運命はどうなってしまうのだろう。そして、今の私を見たら、まだ幼い弟たちはどう思うだろうか。そう考えると、不安の波が胸を押し潰しそうになる。しかし、もう後戻りはできない。今の私にできることをするしかないのだ。扉を開けることを諦め、私はノックをして開けてもらうことにした。


 『トントン、トントン』


 私は、今出せる全力の力で扉をノックした。私のイメージでは、「ドンドン、ドンドン」と激しい音が鳴り響くはずだった。だが、実際に響いたのは、微かな、聞き漏らしてしまいそうな「トントン、トントン」という木霊だけだった。こんな小さな音では、お母様が気づくはずもない、そう思った次の瞬間、驚くほど素早く扉は開かれた。

 扉の向こうに、大好きな母の姿があった。その姿を見た途端、私を襲っていた全ての不安と苦痛が、安堵の大波となって押し寄せ、私はその場に、力なく崩れ落ちたのだった。


 私の運命は、いかに……。


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