天使降臨
前世の記憶が蘇ったのは、私がこの魔界で魔王の子供として生を受けた、ごく幼い頃だった。かつて日本の片隅で、可愛いキャラクターや愛くるしいぬいぐるみを愛でる、ごく普通の17歳の女子高生だった「私」。その乙女心が、今、眼前に広がる禍々しい光景に凍り付く。
魔王城に暮らす魔族たちは、漆黒の二本のツノと、出し入れ自由の漆黒の翼を持つ以外は、人間とさほど変わらない姿をしている。前世では異世界のアニメや小説に夢中だった私にとって、この異世界での暮らしは、むしろ憧れだったはずだ。ずば抜けた身体能力、魔界最高の魔力量、そしていくらでも吸収する知識力。このチート級のポテンシャルを持つ体で、私はやがて来るべき時を待ち望んでいた。しかし、その日呼び出した悪魔たちの姿は、私の想像を遥かに超えていた。形容しがたい異形、ぞっとするような強面。それは前世で畏怖の象徴とされていた、悪魔そのものの具現だった。腰が砕け落ちそうになり、今にも意識が遠のきそうなほどの恐怖。私は、彼らとの契約を丁重に拒絶した。自分の前世が普通の人間だったのだから、奇怪な悪魔を前にして驚き、怯えてしまうのは当然だと、心の中で何度も自分に言い聞かせる。
「どうした良いの……」
厳しいけれど優しい母様や、私を慕って甘えてくる二人の弟。前世の記憶が蘇ってからも、温かい家族の存在が時期魔王としての自覚を芽生えさせ、いつしか立派な魔王になるという気持ちに満ち溢れていたというのに。まさかこれほどまでに悪魔の姿が恐ろしいとは思いもしなかったのだ。途方に暮れた私は、契りの間で頭を抱え、座り込んでしまった。
その時、硬質な冷たい床に座り込む私の目の前で、突如として空間が金色に輝き出した。眩い光が渦を巻き、やがてその中心から、純白の衣を纏った「天使」が静かに姿を現した。そのあまりにも美しい姿と、どこまでも澄んだ声は、悪魔の残滓に震える私の心に、一筋の清らかな風を吹き込んだ。
「悪魔との契約のやりとり、全て聞かせてもらいました」
天使は優しい笑みを浮かべ、私を見つめる。
「悪魔との契約を拒む魔王の子なんて、とても面白いお嬢さんですね」
その声は、私の心の奥底に問いかける。
「お嬢さんはどうして悪魔との契約を拒んだのでしょうか。もしよろしければ、私に教えて頂けないでしょうか?」
私は、己の素性を包み隠さず語った。異世界からの転生者であること、そして、前世では人間だったこと。
「前世の世界では悪魔は畏怖の象徴だったので、潜在的に悪魔を見ると怖く感じるのだと思うのです。でも一番の理由は……悪魔の姿が怖かったのです」
涙を浮かべながら告げた真実に、天使は静かに頷いた。
「面白い理由ですね」
天使は微笑み、信じられない提案を口にした。
「それならば私の能力をお嬢さんに与えてあげましょう!」
驚きに目を見開く私に、天使は、魔族が天使の能力を得ることの大きな問題点を語り始めた。
「何事も代償無しでは得ることはできないのだろう」
私の直感が囁いた通り、それは容易な道ではなかった。この世界の住人の体内に存在する、魔力の源たる魔石。魔族の魔石は通常、黒か紫色に輝くが、天使の力でそれを白色に浄化するというのだ。しかし、その代償はあまりにも大きかった。魔力量はゼロとなり、身体能力は著しく低下する。漆黒だったツノと翼は、清らかな白へとその色を変えるだろう。私は、まるでレベル0の無能力者と化すのだと。
しかし、これは私にとって、唯一の光だった。魔力の影響を受けない知力だけは今の状態に保たれるという条件と、3年という期限付きの希望が提示された。浄化された白い魔石は、3年後には天使の能力を吸収し、再び元の魔力と身体能力を取り戻す金色の魔石へと変貌するという。
「3年……」
それは途方もなく長い時間に思えたが、私にはもう選択の余地などなかった。どんな苦難が待ち受けようと、このチャンスを逃すわけにはいかないのだ。
「わかったなのです。浄化をお願いするのです」
私の決意に、天使は穏やかな笑みを返した。私は天使の前に跪き、深く頭を下げた。天使は静かに何かを呟きながら、私の頭にそっと手を添えた。その瞬間、体の奥底から力が抜けていくのがわかった。魂が抜け出すかのように地面に吸い込まれるように体が沈み込み、座っていることすら困難になる。声を出そうとしても、喉の奥から微かな息が漏れるだけだった。
「これで儀式は終了です」
天使の声が、遠く響く。
「魔石が金色になるには3年の歳月を必要とします。それまでは、かなり不自由な生活になりますが頑張ってください」
私の意識が朦朧とする中、天使は私に能力を与え終え、去ろうとしていた。その時、静寂を切り裂くように、契りの間に大きな声が響き渡った。
「ちょっと待ったぁ~」
また、誰かが来た。私の新たな、そして過酷?な物語は、まさに今、始まったばかりだった。