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三 それはまた、来世の話

最終話です

 その日、小鳥遊さんは学校を休んだ。


 小鳥遊さんが授業を欠席したのは、僕が知る限りではそれが初めてだったかもしれない。彼女はなんだかんだ根は真面目だったし、皆勤賞を狙えるくらいには毎日しっかりと授業に出ていた気がする。彼女のいない教室というのは、僕にとってそれはそれで異質な感じがした。


 はじめ僕は、風邪でも引いたのだろうと思っていた。

 彼女も優等生とはいえ一人の人間だ。体調を崩せばさすがの彼女でも学校に行くのを躊躇うだろうし、いくらあの母親でも休ませるだろう。そう考えるのが一番自然だ。


 だが僕は、どこか妙な胸騒ぎを覚えていた。

 引っかかったのだ。二日前に交わした、あのやりとりが。

 

 

『正直また一から貯金し直すのは面倒ですが、もうちょっとだけ足掻いてみることにします。それになにより、あのクズ男に一言くらい文句言ってやらないと気が済みません』


 

 小鳥遊さんの母親の彼氏は、金遣いの荒い人だと聞いていた。加えて彼に金を盗まれた小鳥遊さんが一時的にでも死を望んだことを鑑みれば、彼はそれ相応に人相の悪い人物と推測できる。小鳥遊さんのような芯の強い女の子でも、一度は反駁するのを諦めてしまうような。

 

 そんな男に小鳥遊さんは二日前「文句を言ってやる」と決意し、僕もそれを後押しした。彼女がまた前を向いて生きるにはそれが最善だと思ったからだ。


 しかし今になって思えば、あの選択は本当に正しかったのだろうか?

 

 金遣いも気性も荒いとみられる男に、女の子一人で立ち向かわせるというのはいささか無鉄砲だったのではないか。彼女の身の安全を考えれば、もっと穏便かつ法的な手段を取るように勧めた方が良かったのではないか——。そんな疑問と後悔が、僕の胸で渦を巻き始めた。


 午前の授業の後ろ半分は、もはや手につかなかった。

 根拠のない不安に駆られているという自覚はあったが、それはもう自分一人ではどうにもできないという漠然とした予感も伴っていた。そうして僕はいてもたってもいられなくなった結果、昼休みが始まると同時に荷物を持って教室を出た。誰かに僕が早退すると伝えてもらおうかと思ったが、そんな時間すら惜しいように思えた。


 職員室や同級生の多そうな場所を避けて、僕は昇降口へ走った。

 幸いというべきか、僕を呼び止める人は一人としていなかった。

 

 


 まずはじめに向かったのは、小鳥遊さんの家だった。

 彼女の家には一度、彼女の忘れ物を届けるために訪れたことがあった。今思えば、僕を家まで呼ばなくとも他の場所で受け渡しすることもできたはずだが、あれは彼女なりに心を開いてくれていたということだったのだろうか。

 

 記憶だけを頼りに歩き続け、古いアパートに着いた。二限目の前に送ったLINEには未だ既読がついていない。言いようのない嫌な予感を覚えつつも、僕は玄関のインターホンを鳴らした。小鳥遊さん本人が出る可能性は低いかと思ったが、母親やその彼氏が出ても彼女の安否の確認くらいはできるだろうと考えていた。


 インターホンが鳴ってから、二十秒近くが経った。

 部屋からは物音ひとつせず、誰かがドアを開けに来るような気配もない。連続で鳴らすのは失礼に当たるかと思いつつもう一度鳴らしたが、結果は同じだった。母親たちは仕事で出掛けていて、小鳥遊さんは風邪で寝込んでいるため出られない——という想像はしたものの、やはり気休めにしかならなかった。


 一旦アパートを離れ、駅前やその付近の商店街、公園などを捜索した。小鳥遊さんともあろう人が学校をサボってまで遊び歩くとは考えにくかったが、家にも学校にもいない以上他の場所をあたるしかない。彼女がいそうな場所、好みそうな景色の周囲を、手当たり次第に捜し回った。ただそれでも、彼女の姿は一向に見つからなかった。


 街を駆け回っている最中、どうして自分は今こんなにも必死になっているのかと考えていた。親族でも友達でも恋人でもない女の子がたった一日学校を休んだくらいで、何をこんなに焦っているのか。母親の彼氏——小山田さんとやらが何かをしでかしたという確証もないのに、どうしてここまで彼女の身を案じているのか。


 らしくない、と他人事のように思った。

 

 他人に流されてばかりだった意思薄弱な僕がここまで他人のために奔走するなんて、小鳥遊さんに知られたらまたからかわれるだろう。どうやら僕は本当に、彼女の言う通りの「一貫性のない人間」だったらしい。


 二日前のあの海へ行こうと駅に戻ったあたりで、日が暮れてしまった。「学校から連絡があった」との旨のメールが十数件母から来ていたが、通知を切っていたせいで気づかなかった。伝言もなしに学校から失踪したせいで、僕の方まで心配をかけているようだ。収穫はなかったが一度家に帰っておいた方がいいだろう。


 自分の家に戻る道中で、小鳥遊さんの家の近くにあった公園に立ち寄った。夕暮れ時の公園はどこか寂しげで閑散としていたが、僕はまた別の妙な感覚をそこに抱いていた。具体的に何かと訊かれたら返事に窮するが、とにかく形容のしがたい違和感だった。潜在的にその違和に気付いた僕の頭が、体をその場所へ差し向けようとしている。そんな気がした。


 公園の奥の雑木林へ、僕の足は導かれるように向かっていた。

 僕はそこで初めて周囲に漂う異臭の存在に気付いた。漠然と、しかし猛烈に、僕は一際嫌な予感を覚えていた。意識がそこへ向かうのを拒絶していたが、どうしようもない焦燥感と不安と好奇心に僕の足は無理やり突き動かされた。


 すぐ近くでカラスが鳴いた。

 先へ進むにつれて臭いは濃くなっていく。

 心拍が速まり、本能がいち早く危険を察知する。


 その先で、僕は見た。



「……小鳥遊さ」


 

 彼女はそこにいた。変わり果てた姿で。

 僕はふと、小さい頃に作ったてるてる坊主を思い出した。

 


 

          ・・・




 それから僕は一度、自分の家に戻った。

 勝手に学校を抜け出したことについて母親から散々問い詰められたが、適当な返事をすることしかできなかった。親や教師に心配をかけたことなんて心底どうでもよかった。最低限の準備を終えた後、僕は母の追及を逃れるように家を飛び出した。


 やるべきことはもう、決まりきっていた。

 それ以外のことは本当にどうでもよかった。


 小鳥遊さんの住んでいたアパートに戻り、呼び鈴を押した。

 一度目の呼び鈴が鳴り、しばし静寂が訪れる。それでも今度は遠慮することなく、立て続けに呼び鈴を押し続けた。二回、三回、四回。それ以降は数えるのもやめて、無心で鳴らし続けた。小窓から明かりが漏れているのが見える。中にいる誰かが居留守を使っていることは確かだった。


 ややあって、床を踏みつけるような大きな足音が近づいてきた。

 ドアを乱暴に開いたのは大柄な男だった。


「うるせぇな。なんだってんだよ、こんな時間に」

 

 怒鳴りつけるような大声で、その男は言った。

 スポーツ経験があるのかやたらガタイが良く、Tシャツの上からでもその過剰なほどの筋肉のつき方は確認できた。その一方で薄毛気味な短髪はくすんだ金色に染められており、年齢不相応で若作りな感じがする。関わりたくない大人、というのが第一印象だった。


 彼が小鳥遊さんの言っていた「小山田」であると、一目見た瞬間に僕は確信した。

 

「なんだよお前。ピンポン何回も鳴らしやがって」


 彼が僕に苛立っていることは確かめずともわかった。しかしわかりやすく怒気のこもった口調や威圧の仕方からして、普段からこういう気質のある人物であることは容易に想像できた。単に高圧的いうよりは、人を脅し慣れているとでも言った方が適切だろう。下手をすればそのまま殴られて締め出されかねなかったが、恐怖心の麻痺していた僕は彼の言葉を遮るように口を開いた。


小鳥遊(たかなし)さんは、多分僕の憧れでした」


 うまく聞き取れなかったらしい小山田が喧嘩腰で訊き返してきたが、僕は無視して続けた。


「あなたたちの作った最悪な家庭環境に身を置きながら、彼女は独り立ちするために地道にお金を貯めていたんです。誰にも頼ることなく、自分一人の力で地獄から抜け出そうとしていたんですよ。そんな彼女の姿に、僕は少なからず尊敬の念を抱いていたんだと思います。死ぬには惜しい人でした。本当に」


「な、なんだよ……お前、想空(そら)の彼氏か?」

 

 そこまで言い終えたところで、小山田は後ろめたさから僕を気味悪がったのかドアを閉めようとした。しかし僕はそこで足を出してドアを押さえ、上着のポケットに入っていたそれを抜き去った。


「——あなたが、小鳥遊さんを殺したんでしょう」


 慣れない怒りで声が震える。

 それでも僕は、持ってきた包丁を小山田の腹に突き刺していた。



「死んじまえクソ野郎」



 思いの外深く、彼の腹に刃が入り込む。

 しばらくして溢れ出した鮮血が包丁の刃と彼の服を濡らしていったが、そこでようやく小山田は状況を理解したのか、大声で喚き散らし暴れ始めた。


「てめぇえええっ! 何すんだこの野郎!!」


 小山田はまず、包丁を握る僕の手に強く爪を立てた。だがそれだけでは僕に凶器を手放させることはできないと察したのか、二回僕の背を叩いてから顔面を殴りつけた。僕はその衝撃で包丁から手を放し、玄関先の欄干に背中から激突した。小山田は腹から引き抜いた血まみれの包丁を手に、こちらに近づいてくる。


 命の危機を前に、僕の体は動かなかった。


「ふざけんじゃねぇええええええっ!!」


 僕の左胸に、小山田は包丁を刺した。

 一回、二回、三回。衝動のままに僕の胸を引き裂いた彼は、その手からゆっくりと包丁を滑り落とした。血の噴き出す腹を押さえながら、小山田は覚束ない足取りで部屋の中へと戻っていく。


「ふざけんな……くそ……」


 悪態を吐きながら這うように歩いていった彼は、キッチンの辺りで壁にもたれかかった。凶器である包丁を引き抜いた上にあの出血で暴れ回ったのだ、今から救急隊を呼んでも助からないだろう。——まあそれは、かくいう僕も同じだが。


 焼かれるような強い胸の痛みに、意識が段々と沈んでいく。

 

 自分を中心にできた血溜まりのなかで、僕は我ながら馬鹿なことをしたと思っていた。

 小山田が本当に小鳥遊さんに手を下したかどうかすら確かではないのに、半ば衝動的にこんな行為に及ぶなんて愚か極まりない。しかもそれが原因で自分の人生も棒に振っているのだから、誰がどう見てもなおのこと愚かだ。僕は最後に、自分の意思で自分の人生を台無しにしてしまった。

 

 小鳥遊さんの仇討ちをするというアイデアが最初に浮かんだとき、僕はそんなことを思いつく自分の愚かさに笑いが込み上げてきていた。それは僕の今までの人生の中で最も重大で、最も愚かな選択だった。そんな突飛なことを、僕のような臆病で人任せな人間ができる筈がないだろうとも思っていた。


 けれど僕は、不思議となんの迷いもなくそれを実行していた。

 躊躇も恐怖もなく、自分の人生をかなぐり捨てるような選択をしていた。そうすることが、小鳥遊さんの送った十六年の人生に対して僕ができる、最大限の賛辞であると思ったからだ。


『じゃあ、私は鳥になりたいです』

 

 いつかの小鳥遊さんの言葉が脳裏に蘇る。

 今ならば彼女に、「君なら絶対になれる」と確信をもって言える気がした。彼女の人生という劇を称賛する人間が——カーテンコールを求める人間が、少なからずここに一人いるのだから。彼女が来世を享受することは、もう確定したようなものだ。


 だがそこで、僕は思いとどまった。

 僕の人生にカーテンコールはあるのだろうか。意思薄弱で他者に流され続けた挙句、最後の最後に殺人という大罪を犯して死を迎えた僕の人生に、拍手を送ってくれるような物好きな人間はいるのだろうか。この先の未来がないことが怖いわけではなかったが、この人生の意味を考えると少し虚しくなった。僕の送った十六年と少しの人生は、一体なんだったのだろう。


 どうしようもない喪失感に溺れながら、僕は意識を手放していく。

 その最中で僕が見たのは、とある夢のような話だった。

 


 

 鳥に生まれ変わった小鳥遊さんは、自由に空を翔ける。

 海月に生まれ変わった僕は、ただ流されるままに海を(およ)ぐ。

 

 煩わしい人間関係も家庭環境も将来も夢も愛も金もバイトも何もかもどうでもよくなった世界で、僕たちはそれぞれ交わることなく幸福な来世を享受する。やがて前世の記憶も薄れていき、完全にこの世界の自然の一部となっていく。いつか願っていた幸せの定義がなんだったのかすらも、段々とわからなくなりながら。

 

 それもそれで幸せだ、と僕は思う。

 中身もないまま幕を閉じたこの人生に比べれば、ずっと。


 



最後までお読み頂きありがとうございました。

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