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二 僕は海を游ぐ

「どうして、僕を海なんかに誘ったんだ?」


 浜辺に着いて第一声、僕は小鳥遊さんに訊ねた。

 人気のない砂浜を歩いていた小鳥遊さんは振り返ると、平然とした顔のまま淡々と答える。


「私、基本的に家にいても憂鬱なんです。母は私を無視するか怒鳴りつけるかのどちらかですし、恋人まで連れ込んできた日には私の居場所なんてあそこにはありません。今日は生憎後者になりそうなので、暇そうな内海くんでも誘って現実逃避しようかと思ったんです。もしかして、迷惑でしたか?」


「いや。ちょうど暇だったから、なんとなく着いてきただけだよ」


「なら良かったです。内海くんが暇人で助かりました」


 変な理由づけをして小鳥遊さんは微笑んだ。

 それは休日にもかかわらず一緒に遊びに行く友達もいない僕に対する皮肉——というよりは、僕への真っ直ぐな感謝であるように聞こえた。


 小鳥遊さんからのLINEが来たのは、つい二時間前のことだ。

 海に行きませんか、という必要最低限の文章での誘いは、実に彼女らしい淡白さを感じさせるものだった。断るだけの気力も理由もなかった僕はそれを二つ返事で了承し、スマホと財布だけを持って出かけた。その行動はある意味で僕自身の選択だったかもしれないが、いつも通りただ断りきれずに他者に流されただけともいえる。


 バスで最寄りの駅まで行き、電車に一時間ほど揺られた。その間に交わした会話の内容はあまり覚えていない。小鳥遊さんが何か思いついたように呟き、僕がそれに相槌を打つ。その繰り返しだったように思う。一緒に休日に出掛けたのは初めてではないが、この絶妙な距離感だけは不思議と変わらない。これはきっと、互いを友達とも恋人とも思っていないからこそ生まれる距離感なのだ。


「ここ、この時期は人が少なくて気に入ってるんです。いい場所でしょう?」


 水平線を見つめたまま言った小鳥遊さんに、僕は首肯した。

 電車を降りたのは僕も名前くらいは知っている路線図の端の方の駅だったが、その近くにまさかここまで広々とした砂浜があるとは思わなかった。周囲には観光客なども見当たらず、寂れた海辺の町の時間だけがゆったりと流れている。


 ついてきて良かった、と漠然と思った。

 元々、海はかなり好きな方だ。小さい頃に家族で海水浴に行ってからというもの、僕は果てしなく続く青の景色のその先を、ずっと心のどこかで夢見ている。その果てに待つものを知りたくて、父に泳ぎ方を習ったこともあったほどだ。


 六月上旬の初夏の空気が、潮風に流されて肌を撫でる。

 気づいた時には僕は靴と靴下を脱ぎ捨てて、素足を海に浸けていた。


「そういえば内海くんは、来世はクラゲになりたいんでしたっけ。海に対する憧れみたいなものはあったりするんですか?」


 海に足を踏み入れた僕を、小鳥遊さんは静観する。

 思えばこの状況と立ち位置は、あの日とまるっきり反対だった。鳥になって飛び回りたい、そう言って青い空への憧憬を抱いていた小鳥遊さんの姿を、ぼんやりと脳裏に想起する。


「ねぇ、小鳥遊さん」

 

 そして僕は、冗談半分でこう言った。


「もし僕が、今からここで溺れ死ぬって言ったらどうする?」


 小鳥遊さんが少し驚いたように目を見開く。

 しかしすぐに僕の意図を理解したのか、呆れたように目を閉じて小さく微笑んだ。


「お好きにどうぞ」


 傍から見たら全く笑いどころのない悪趣味な冗談だが、そんな歪なやりとりを通してようやく、僕と彼女は通じ合えたような気さえしていた。結局のところ、僕と彼女はそういう部分では似たもの同士だったのだろう。


 足首の上あたりまで海に浸した僕を、小鳥遊さんは浜辺に座ったまま眺めている。僕はもちろん入水自殺なんてするつもりも勇気もないまま、海水の冷たさと湿気の入り混じった潮風を一身に受けていた。なんだか僕のほうが楽しんでしまっているな、と思っていた矢先、小鳥遊さんが口を開く。


「……あれから少し、来世について考えてたんですけど」


 細波の音に混じって、小鳥遊さんの澄んだ声が聴こえた。


 

「来世ってきっと、カーテンコールみたいなものなんですよ」



 その言葉を噛み締めるように間を置いてから、僕は振り返る。


「カーテンコールって……演劇が終わった後とかに、観客の拍手に応えて役者たちが舞台に戻ってくるあれのこと?」


「はい。私たちの人生が舞台上で行われる劇だとしたら、来世はカーテンコールにあたるんじゃないかと思ったんです。長い人生という劇を演じ終えた私は、誰かから拍手をもらうことでもう一度、カーテンコールという形で世界という舞台に立つことができる。もちろんその時は、私は『私』という役を捨てることになりますね」


「なるほど。もとの役目を終えて、もう一度世界に生まれるという意味での『来世』か」

 

「そうなりますね。もっとも、その場合私たちは人生に拍手をもらわないと転生できないことになりますが」


 私の人生に拍手をくれる人なんているんですかね、と小鳥遊さんは自嘲気味に笑ってみせた。僕はそれにつられて笑うと同時に、もしも彼女が死んだら僕は間違いなく拍手を送るんだろうな、と確信めいたものを覚えていた。僕は多分それだけ、小鳥遊さんのことを憐んでいたのだと思う。


 だがそれはそうとして、死んだ後に拍手がもらえるか心配すべきなのは僕の方であることは、言うまでもない。


「あ、そういえば、内海くん」


 砂浜に座り込んだまま、小鳥遊さんが僕を呼ぶ。

 そして彼女は、薄い笑みを浮かべて言った。



「今朝通帳を見返したんですが……この間言ってたバイト代、全部抜かれてました。30万円、ごっそりと」



 彼女の笑みに、僕は言葉が出なかった。

 小鳥遊さんは笑っているが、笑ってはいない。あの表情はたぶん彼女なりの強がりだ。少なくともそこに、笑顔というものは一ミリもなかった。彼女は僕に悲しみを悟られまいと、必死で笑顔を取り繕っている。


「……30万」


 かける言葉を探している間に、僕の口は無意識にその数字を復唱していた。

 

 30万円。

 僕たち高校生が抱えるには、十分に大金と言える額。小鳥遊さんがその額を稼ぐまでに費やした努力の程は、僕には到底想像することもできなかった。想像することすら、烏滸(おこ)がましく思えた。


「小山田さん……母の彼氏は、金遣いの荒い人なんです。大方私がどこかに放置していた通帳を使って抜き取ったんでしょう。母も母でいい歳なのに、体売ってまであんな男と付き合ってるなんて、ほんと愚かにも程があります。本当にどうしてあの人はいつも……」


 (せき)を切ったように小鳥遊さんの口から溢れ出た愚痴を、僕はただ聞いていた。彼女はきっと、僕に返事や同意を求めていたわけではなかったのだと思う。僕という聞き手がそこにいるという事実だけで、彼女の愚痴は愚痴の体裁をなしていたのだから。


 ひとしきり話し終えた後で、小鳥遊さんは少し俯いて言った。


「ごめんなさい。こんな綺麗な景色を前に、生々しい話ばかりしてしまって。さすがの内海くんでも嫌でしたよね」


「いや、気にしなくて大丈夫だよ。ただ……」


 その先に続く言葉を言おうとして、僕はしばらく口を開いていた。けれどどんな言葉も、彼女の抱える絶望の前では気休めにしかならない気がして、喉から出る前に顔を引っ込めていった。結局のところ、空っぽな僕の言葉では彼女を救うことはできないのだ。——いや、そもそもの話、僕は心から彼女を救いたいと思っていたのだろうか?


 そんな逡巡から僕が言葉を紡げないでいると、小鳥遊さんは何を思ったのか砂浜から立ち上がり、靴を履いたまま海に足を踏み入れた。


「なんか、もう色々疲れちゃいました」


 浅瀬の中を小鳥遊さんが進む。彼女の靴が濡れる。

 それから小鳥遊さんはくたびれたような笑顔を見せて、白いワンピースから伸びる細い腕を僕に差し出した。青痣の目立つその腕は、まるで死人のそれのように真っ白で、透き通って見えた。


「内海くん、どうせなら私も連れて行ってください。溺死は一番苦しい死に方だって聞きますけど、内海くんと一緒ならそれはそれで悪くない気がします。この舞台が終わって鳥に生まれ変わる前に、せっかくならこの海を泳いでおきたいです」

 

 小鳥遊さんの手が、僕の導きを待っている。

 もし僕が彼女の手を取ってそのまま海に沈んでいっても、彼女は拒んだりはしないだろう。それどころか、臆病な僕を追い越して海のさらに奥底へと進んでいくかもしれない。イルカのように優雅に海を泳ぎ、溺れながら死を迎える小鳥遊さんの姿は、どうしてかありありと思い浮かべることができた。


 水平線の向こうで、夕陽が沈みかけている。

 淡いオレンジ色に照らされた小鳥遊さんの手を、僕はおそるおそる握ってみた。初めて握ったその小さな手は、それでも確かに強く僕の手を握り返してくる。あとはこのまま、夕陽を追いかけるようにして水平線の方へ進んでいけばいい。


 一歩、二歩と着実に後ずさる。まるでこれからダンスでも踊るみたいに手を取り合った僕たちの体は、少しづつ海へと浸かっていく。捲り上げたズボンの裾が水に濡れほんの少し不快だったが、いずれ全身を海に沈めるのだから気にする必要はない。気づいた時には、もう膝の上あたりまで水に浸かっていた。もう後戻りはできない、と覚悟を決めて正面を向く。しかしそのとき、ふと目についたそれを見て僕の足は止まった。


「……内海くん?」


 小鳥遊さんは平然と首を傾げている。

 しかしそれは、何度見ても僕の見間違いではなかった。



 彼女は、泣いていた。



 小鳥遊さんの左目から一筋流れたそれは、決して飛び跳ねて付いた海水などではなく、確かに彼女の流した涙だった。だが彼女自身の反応を見る限り、それは彼女が意図して流したものではないことがわかる。その涙はあるいは、言葉にされない彼女の悲しみが死の間際になって言外に発露されたものだったのかもしれない。


 まるで機械のバグのように流れたその涙は、どうしようもなく美しくて、残酷だった。


「帰ろう」

 

 僕の口ははっきりと、その一言を弾き出した。

 それは紛れもなく僕の意思だった。


「え? どうしたんですか、急に……」

 

「小鳥遊さんは多分、こんなところで死ぬべきじゃないんだよ。だからもう、こんなお巫山戯(ふざけ)は終わりにしよう」

 

「もしかして内海くん……あんな冗談まで言っておいて、死ぬのが怖くなったんですか?」


「そうかもしれない。僕は小鳥遊さんの言う通り、『一貫性のない人間』だから」

 

 小鳥遊さんの手を引いて、そのまま僕は砂浜へと連れ戻した。我ながら臆病で情けない選択だと思ったが、僕はそれをどうしようもなく正しいと感じてしまっていた。


「僕も小鳥遊さんも、カーテンコールを迎えるにはまだ早すぎる。だからもう少しだけ生きてみようよ。誰かから確実に、拍手をもらえるような人生にするために」


 僕らしくない台詞だと、言いながら思った。

 けれど僕の中に芽生えた明確な意思は、絶望の底に沈んだ小鳥遊さんを何がなんでも助けようとしていた。それは単なる同情や憐れみからくるものではなく、おそらくはきっと——


「これは、一本取られましたね。確かに内海くんの言う通りです。来世に期待するなら、その期待がもてるような人生にするべきかもしれません」


 僕の手を解いた小鳥遊さんは、また砂浜を歩き出した。

 後から思い返しても、僕のこの選択が本当に正しいものだったのかなんてわからない。僕だってもしかしたら、ここで小鳥遊さんと一緒に死んでおくのが最善だったのかもしれない。だが僕は結局、最後の最後までこの時した選択を悔やむことはなかった。


 一時的にでも、小鳥遊さんに笑顔が戻ったのだから。


「正直また一から貯金し直すのは面倒ですが、もうちょっとだけ足掻いてみることにします。それになにより、あのクズ男に一言くらい文句言ってやらないと気が済みません」


「うん、まあ……それがいいよ。それでこそ小鳥遊さんらしいと思う」


 気力を取り戻したのか軽やかに砂浜を駆けていく小鳥遊さんの後に続いて、僕も砂浜を後にした。落陽の後ろから迫りくる夜から逃げるように、僕たちは港町の細い道を戻っていく。


 僕が泳ごうとした海は、まだ淡い茜色に染まっていた。



 

 その二日後、小鳥遊さんは死んだ。


 


 

 

次回、最終回です

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