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どうしてわかったのでしょうか。
私はそれが不思議でなりませんでした。
頬を触れる熱い手の持ち主が口を開きます。
「……覚えなくていいって言われてたけど、念のために覚えておいたんだ。お前の名前」
朱墨で、彼は床に『リン』と書きました。―――先ほど、モノの指定で書いた文字です。
「そういうこと、なんだろ?リン。……黙って、帰るつもりだったんだろ?」
私は黙って頷きました。
……どうやら、私はあの人のように上手くはできなかったようです。
カケルさんは、あの頃の私よりも賢いお方でした。
黙ったままの私に、カケルさんは溜息をつきました。
「……そう、だよな。帰る方法、見つかったんだもんな。そりゃあ、帰るよな」
私は、真っ直ぐ彼を見ることができませんでした。
「こっち、見てくれよ。リン」
見たら駄目だと、誰かが囁きました。
見たら後悔すると、誰かが囁きました。
……私は、頬を触れる熱い手に自分の手を重ねて、彼を真っ直ぐに見ました。
『 ……泣けよ。全部出したら、楽になるから 』
あの時の言葉が響く。―――楽になるわけがないってどうして気付かなかったんだろう。
カケルさんは、私を心配してくれた。
召喚師のリン・バルデュスではなく、私自身を。ただのリン・バルデュスを。
あの時、私は甘えたら駄目だったんだ。
―――大丈夫だと、平気だと、私は言う必要があったんだ。
そうしたら。
そうしたら。
「……帰りたくないっ……」
そんな馬鹿なことを、考える必要がなかったのに。
◇ ◇ ◇
どうして私なんだろう。どうして私が召喚師にならなければならないんだろう。何度も何度も、私は思った。
この力のせいで、私は苦しい思いをした。9歳になるまで、毎日がずっと地獄だった。
毎日が高熱や痙攣の繰り返し。
明日死ぬかもしれないって、母上はいつも泣いていた。
9歳の誕生日、家族みんなが。村の人たちが。とても喜んでくれたのを覚えている。
そのころから、私は諦めることを覚えた。
―――本当は、友だちとたくさん遊びたかったの。
―――本当は、村の人とおしゃべりしたかったの。
―――本当は、勉強なんてしたくなかったの。
―――本当は、村を出ていきたくなかったの。
―――本当は、王宮なんて行きたくなかったの。
―――本当は、普通の女の子のように生活がしてみたかったの。
でも、そんなことできるわけがない。
だって、私は唯一の見習い召喚師。国の要である召喚術を覚えなきゃいけない。
そうしないと、お師匠様の死後、誰がこの国を守るっていうの?
自分に、何度も何度も言い聞かせた。
でも、それでも。
それでも、私は普通の生活に憧れていた。
◇ ◇ ◇
楽しかった。すごく楽しかった。
食事を準備するのも、掃除をするのも、洗濯するのも、お買いものに行くのも。
すごく楽しくて……だからこそ、とても虚しかった。
終わってほしくないって思う自分を見つけては、何度も何度も否定した。
そして、何よりも。
「リン」
私を呼ぶこの声の主に、ずっと甘えていたかった。
―――だけど。
「……サヨナラ、カケルさん」
私はあの国を捨てられない。
ポトポトと零れる涙を袖で拭うと、私は頬に触れていたカケルさんの手の甲に口づけをしました。
「私に、普通の生活を与えてくれて、ありがとう」
私はそっと彼から離れます。
そして、カケルさんは黙ったまま、魔法陣の上に手を乗せました。
「……悠斗には、俺から言っておくから」
「……うん」
私が頷いて微笑むと、カケルさんは口を開きました。
「 一宮翔が命ずる 発動せよ 」