169話 ドラゴンさん、手合わせする
結華はそのままひとしきり瑠華を堪能すると、満足したように抱き締めていた瑠華を手放した。
「うん。満足」
「もう帰るのか?」
「元々長居するつもりはなかったからね。ただ…その、もし、瑠華が良ければなんだけど…」
モジモジとした様子で歯切れの悪い言葉を重ねる結華に、瑠華が小首を傾げる。奏の場合は付き合いの長さと本人の分かりやすさも相まって実は何もしなくても内心を見透かす事が出来る瑠華だが、流石にそう易々と能力を用いて誰かの内心を覗く事は無い。なので結華が話すまでじっと待ち続ける。
そうして目を泳がせながらも自己問答を繰り返した結華が口を開いたのは、実に五分以上経ってからだった。
「…手合わせ、したいなぁって」
「手合わせとな?」
「うん…ほんとに、瑠華が嫌じゃないなら、なんだけど……」
随分と萎れて遠慮する結華に、瑠華が優しく微笑む。負い目もあるのだろうが、瑠華としてはたかがその程度という認識だ。だが妙なところで遠慮する人間は今までも数多く見てきた故に、それが仕方が無いとも理解している。
「無論構わんよ。妾としても嬉しいものじゃしのぅ」
「っ! ほんとっ!?」
瑠華としても願ってもない事だったので、断る理由などなかった。瑠華の返答にまるで少女の如くキラキラと輝く満面の笑みを浮かべた結華を見れば、その答えが適切であった事が分かる。
「構わん。先程からウズウズしておったのは分かっておるしのぅ」
「う……」
もう既に引退した身とはいえ、元々は戦う事を生業としていたのだ。紛れも無い強者である瑠華と一度戦ってみたいと思うのは、至極当然の流れと言えた。……ただまぁ、結華としてはそれ以外の理由もあったのだが。
「ハンデはいる? お母さん、結構強いわよ?」
「ふむ…いや、必要なかろう。寧ろ必要なのは妾ではないかえ?」
「それは流石に親としてのプライドがね…」
いくら自身が世間的にお世辞にも親と呼べるものでなかったとしても、その自覚だけは忘れたくなかった。
「でも瑠華ちゃん。手合わせするって言っても何処でするの?」
「ここで良かろう。幸い庭は広い事じゃしのぅ」
「えぇ…」
「何、周りに危害の及ばぬよう結界は用意するでな。問題無いのじゃ」
それを示して見せるかのように指をパチンと鳴らせば、パキンッと甲高い音が響き渡った。窓から外を覗けば、そこには透明感のある赤に染まった壁がいつの間にか聳え立っていた。
「これ水族館の時の…」
「よく覚えておるのぅ? これは妾が現状で展開出来る、最も強力な結界じゃよ。あの時は慌てておったが故についこれを展開してしもうての」
「つい、で一番強いやつが出るんだね……」
相変わらずだとは思いつつも、やはり呆れの感情が出てしまう奏である。だがそれは咄嗟に【柊】の皆を護ろうとしたが故だという事も理解している。
(……やっぱり護られるだけじゃヤダな)
奏が居たいのは瑠華の後ろでは無い。その隣りなのだから。
「私も見た事ない…これどれくらい強いの?」
「どれくらいと問われると具体的に答えるのは難しいのじゃが…まぁ一般的な攻撃ではビクともせんな」
「瑠華ちゃんの攻撃でも?」
「ある程度は防げるぞ? 流石に少し本気になれば砕けるが」
結界の強度は展開する際の魔力密度に比例する。それは言ってしまえば、展開した本人の魔力量が強度に直結するという事だ。なれば当然瑠華が展開した結界はそれに見合う強度を持ち合わせている。とはいえ所詮は魔法でしかなく、世界を丸ごと破壊する事も出来る瑠華の力を完璧に防ぐ程の強度は無い。
(まぁ神力を用いた〖絶界〗ならば多少は持ち堪えるがのぅ)
時折妹達を叱る時などに使っていた事のあるそれは、瑠華以外には破壊不可能な程の強度を持つ代物だ。ただし存在量が瑠華―――レギノルカと同等という化け物じみたものであり、世界の中では欠片を展開する事すら叶わない。
「一応中での怪我は無かった事になるでな。遠慮無く手合わせが出来るぞ」
「なにそれ欲しい」
「もう引退した身じゃろう?」
「それはそうなんだけど…実際の所私がそう言っているだけで、実際にはまだ在籍している事になっているの。だから場合によっては訓練を手伝って欲しいとかって呼び出される事もあって…」
結華は結婚を機に探索者を引退している。だが貴重なAランクをみすみす手放す事が出来る程、ダンジョン協会に余裕は無かった。それ故に未だ結華の名はダンジョン協会にあり、必要に迫られた場合にのみ要請が届くという状態になってしまっている。
「それはまた難儀な…」
「無理に潜らせられたりは無いから、私もそれを受け入れたのよ。新人を育てる事は寧ろ私にとっても望む事だし」
「…じゃあ結華さんの講習がダンジョン協会で偶にあるって事ですか?」
「本当に偶にね。事前の連絡も無いし、そもそも講習自体人気が無いからあまり知られていないけど」
「何で連絡が無いんですか? 結華さんの知名度があれば人は集まると思うんですけど…」
「あるが故って事ね。あまりにも人が集まり過ぎたら、それはそれで意味が無い物になってしまいかねないから」
幾らAランクの探索者とはいえ、数十人纏めての面倒を見ることは不可能だ。つまり人が多過ぎれば、結華がわざわざ講師を担当する意味が無くなってしまう。
「あっ、なら折角の機会だし連絡先交換しない? そうしたら私が担当する時に連絡出来るし」
「っ! 是非っ!」
強くなりたいと常々思っている奏からすれば、その提案は渡りに船だ。断る理由などなかった。
手早く連絡先を交換すると、早速奏のスマホに着信が届く。
「? ……ッ!?」
それに送付されていた“写真”を開き、その驚愕の中身に思わず奏が目を見開いて驚きを露わにする。それを送った当人は奏の反応に楽しげで有りながら少しの暗さを滲ませる笑みを浮かべ、瑠華の手を取って玄関へと歩き始める。
「一回だけでもいいからずっと娘と遊んでみたかったのよねぇ」
「これは遊びか…?」
「細かい事は気にしない気にしない」
結界は本来内外からの干渉を受け付けない。だがそれでは中に入れない為、瑠華が入口となる場所に穴を開ける事で中へと足を踏み入れた。
「真剣か?」
「私は模擬剣を使うけど、瑠華は好きにしていいわよ」
「……流石にそれは無しじゃろ」
実際の所そう容易く勝てるなどとは毛頭思っていない。それ程に瑠華は結華を高く評価していた。だがそれはそれとして、流石に模擬剣相手に真剣を使うのは瑠華のプライドが許さない。幸いにして訓練用の薙刀はスポンサーから提供された物がある為、今回はそれを使う事に。
「じゃあ審判は紫乃ちゃんに任せるわ。危険だと思ったら止めてね」
「は、はいっ」
審判が必要かは甚だ疑問ではあるものの、互いに熱中して止め時が分からなくなってしまっては大事になる。勝敗に関わらず、ストッパーというのは重要な役割だ。
「先攻は譲るわね」
「ならば遠慮無くいかせてもらう」
トントンと軽く二回跳ねるようにして結華へと走り出し、そこから一気に加速して距離を詰める。そのまままずは小手調べとばかりに薙刀を振るうが、それはひらりと躱された。
「よっと」
「む…」
その去り際に瑠華の方へと投げ飛ばされたナイフを薙刀で弾くと、その隙に結華が瑠華の側面へと回る。だがその動きは瑠華にも見えていた。
「身軽じゃのぅ」
「それが取り柄だもの」
手にするナイフで瑠華に近接を仕掛けるも、それは流石に対応される。その瞬間分が悪いと判断して瑠華の方へとナイフを押し込み、その反動で離脱。それなりの歳を重ねているはずだというのに、その動きは軽やかで淀みない。
「〖黒蝶〗!」
「ほぅ…」
高らかな声と共にふわりと結華の手元から二匹の黒い蝶が羽ばたく。結華の通り名である“黒蝶”は、結華が持つその固有スキルに由来しているのだ。
「遠隔…ではなく自律か? 純粋に手数が増えるという事かのぅ」
「さぁどうかしら?」
例え娘相手でも手の内は晒さない。黒蝶はただその場に留まらずふわりふわりと浮かぶだけ。単純な囮の可能性も考えつつ、薙刀を構えて結華へと肉迫しようと駆け出す。
――――プツンッ
「ッ!?」
すると少し進んだ所で何かを“切った”感触が伝わり、慌ててその場から飛び跳ねる。そして次の瞬間には、瑠華が立っていた場所に二つの黒い斬撃が通り抜けた。
「えぇ…それ躱すのぉ…?」
結華としては気付かれたとしても完璧に躱すのは不可能だと思っていたが、難無く躱されてしまい思わず弱々しい声が出た。
「罠の起点…いや、それはあくまで副産物か? あれは魔法…なれば本来は決まった魔法を繰り返す駒という訳か」
「もうバレたし…」
そう、結華が扱う〖黒蝶〗とはある特定の魔法を込めた駒を創り出すスキルだ。基本二匹一組で運用され、二匹の間に渡された魔力線が切れると起動の合図となる。だがそれ以外にも結華の意思で好きな時に発動する事が可能だ。
「種が分かれば単純じゃが、だからこそ厄介じゃな」
「あ気付いた? これはここからが本番なんだから」
そう言うや否やブワッと十数匹に及ぶ黒蝶が結華の背後から現れ、それぞれバラバラの方向へと飛び去った。
「さて。何処に糸があるかしら?」
黒蝶は二匹一組。だがそれ以上に出来ないとは言っていない。複雑に絡み合った糸が張り巡らされた空間は、四方八方に地雷が埋まっているようなものだ。
「瑠華相手に近接は絶対無理だしね」
「搦手は苦手なのじゃ……」
不可視の魔力線を把握する事は瑠華にとって容易い。だが切断が起動の条件だとすれば、その対処法は限られる。
「ふふふ…降参してもいいのよ?」
「……そうじゃな、これは流石に展開された時点で詰みじゃ」
実際には瑠華だけならば脱出する事自体に問題は無い。だがもしこれを奏と共に居る時に受けたと考えれば、今回は自分の負けを認めざるを得ない。
「瑠華ちゃんが負けた…」
「瑠華は結構力押しな面が強いし、こういうのには慣れていないんでしょう?」
「図星じゃよ…そちらの方が結果として楽じゃからのぅ…」
工夫し手を尽くし対策を練る事の大切さを否定はしない。だがやはり結局のところ力押しの方が早く終わってしまうせいで、その方面に縁がないだけなのだ。
「ちなみに力押しだとそこからどう抜けるの?」
「自身に結界を付与して突破するか、全ての蝶を撃ち抜くかの二択かのぅ」
魔法の起動は魔力線の切断であるのなら、その起点たる蝶そのものを破壊すればいい。だがそれで実際に魔法が起動しないという根拠は無かった為、今回はその手段を取らなかった。
「それに自身に結界を纏うのは防具を着るのと同義じゃからの。今回の手合わせには不適切じゃろう? 故に降参じゃ」
「………」
それを聞いて、勝ったのに勝った気がしなくなった結華だった。




