女の買い物は長いもの
◇ ◇ ◇
いつもどおり、この季節くらいだと、丁度日の出くらいに目が覚める。
小学校のときには危ないからとやらせてもらえはしなかった、中学に上がったときから始めているルーティン。
「ああ、そうか。そういや、昨日はリビングで寝たんだったか」
昨日からうちに居候することになっている神岡光莉が、今は俺の部屋で寝ているはずだ。
他の家族を起こさないように静かに階段を上る。
俺は生まれたときから住んでいるけど、特別古い家というわけでもない。俺が上り下りしたくらいでは変な音が鳴ったりすることもねえ。
春先とはいえ、まだ夜中は冷えがちだ。俺のベッドで布団に包まる光莉を起こさないよう気をつけながら、俺は自分の部屋に侵入する。
いや、侵入するってなんだ。
自分の部屋なんだから堂々と入ればいいものだろうけど、俺は音を立てないよう、もちろん、ベッドの上の膨らみにも気を払い、慎重に進む。
勝手知ったる自分の部屋だ。カーテンを開けたり、電気をつけたりする必要はねえ。
さすがに道場では道着を着るが、日常生活から道着で生活しているわけでもなく、小さくなってきている中学のときに使っていたジャージを準備してから。
「これはもうやめとくか」
高校のジャージでも問題はない。
しかし、まだ入学前に学校名の入ったジャージを着る気にはならず、結局、中学のジャージを持って、まさかそのまま部屋で着替えるわけにもゆかず、一階に降りてから着替えを済ませる。
大きめに作ったものとはいえ、中学入学時からは、それなりに身長も伸びた。俺は急激に身長が伸びるタイプではないようで、毎年、六センチとか、七センチくらいを多分、高校でも繰り返すことになるだろう。
中一の、入学のときには余裕のあったジャージは、今では逆に短くも感じられるくらいだが、ランニングのための機能としてはそれほど問題があるわけでもねえ。
コースはいつもどおり。といっても、これは中学のときに両親を説得させるための簡単な道、つまり、うちから道場までの往復だけれど、距離的には真面目に走って片道十分くらいのもので、早朝のランニングには丁度いい距離だと、個人的には感じている。もう少し長くても良いかもしれねえ。
ちなみに、普段、道場に通うのは放課後、つまり夕方だ。こんなに朝早くから師匠は……起きてるかもしれねえけど、学校に行く前に稽古だと、俺が授業中に寝ることにもなりかねねえから。
柔軟を室内で済ませ、外に出て屈伸やら伸脚やらを終えたところで。
「詩信くん……?」
この時間帯にうちの家族が起きてくることは、まずない。
いや、もしかしたら、母さんは起きてくるかもしれねえけど、それだって、大抵は俺が帰ってきて汗を流している最中にようやく朝食やらの準備を始めるという程度だ。
「悪いな。起こしたか?」
だから、俺は昨日からうちの居候になった光莉に振り向く。
慣れない家で、朝っぱらからバタバタやられていたら、目も覚めるものかもしれねえ。
「おはようございます。こんなに朝早くからお出かけですか……ふぁ」
欠伸を漏らし、若干照れたように頬を染める光莉に。
「ああ。朝のランニングが日課なんだよ。ここしか時間ねえからな」
昼間は学校、夕方は道場。ならば、走るのは朝しかねえ。夜は、まあ、これを始めたのが小学生だったということもあって、危ないからと許可してもらえなかったからな。
とはいえ、年々、その距離を増やしてはいるけど。
「毎朝なんですね。頑張り屋さんなんですね」
「頑張り屋って……そんなんじゃねえよ。自分のためにやってんだから。じゃあ、どうせ、まだしばらく母さんたちも起きてこねえから、お――光莉もまだ寝てていいぞ」
起こしちまった俺に言えたことかは微妙だが。
「ふふっ。行ってらっしゃい、詩信くん」
なにが面白いのか、笑顔だった光莉に送り出されるように、俺は早朝の町へと駆けだす。
新聞配達のバイクや犬の散歩に出ている老夫婦、他のランニングしている女性、出勤途中らしいスーツ姿の男性などとすれ違いつつ、俺はペースを上げる。
光莉はいまごろ二度寝……するようなタイプには見えなかったな。
まあ、なんとなくふわふわとしてたから、寝ててもおかしくねえけど、眠るんなら、玄関じゃなく、ちゃんとベッドに戻っていてもらいたいもんだ。べつに、俺のベッドに寝ていてほしいってことじゃ……寝ててもらって全然かまわねえんだけど。
昨日の雨の影響もあってか、空気が澄んでいて気持ちがいい。まあ、ちょっと寒い気はするが、走って温まってきた身体には丁度いい。
引っ越しなんかもしたことはなく、生まれたときから慣れ親しんでいるこの町だ。顔見知りも、知り合いも、たくさん住んではいるものの、こんな時間帯に遭遇することは滅多にねえ。
駅前のパン屋から漂う焼きたての香ばしい匂いに、若干食欲をそそられつつ、いつもどおりにそこで折り返す。今日はとくに、朝食のためのパンを頼まれたりしてはいねえ。
いつも通う道場はもうすこし、線路を越えて、神社も超えた先だけど、さすがにそれだとちと遠い。
そうはいっても、所詮は数百メートル。構わないといえば構わないが、どうせ、そっちは後でも行くからな。
駅前の時計で時間を確認すれば、だいたい、いつもどおりの時間。俺は一旦、インターバルをおく。
「さて、行くかよ」
さっきのペースで疲れはほとんどない。
ならば、もうすこしペースは上げられるということだろう。
普段のカウントを気持ち早く、俺は足と手を動かす。
うちから駅までの距離は、約二キロ、往復で四キロちょっとといったところだ。もちろん、地図上での話だが。
そんなものでも、全力で走れば、疲労はする。というより、疲れないんじゃあ、体力づくりにならねえからな。
だから、帰ってきた俺は玄関に準備してあったタオル――準備してあったタオル?
「お帰りなさい、詩信くん」
出迎えてくれたのは、すでに着替えを済ませた光莉だった。
長袖のシャツに膝下丈のスカート。
そして、なぜかエプロンまで。
「……ただいま」
家に帰ってきたときに同級生、しかも女子がいるというのは、なんとも珍しいというか、驚きを禁じ得ねえ状況だが、これも慣れなきゃならねえってことだろう。
いや、慣れて良いのか、これ。
べつに、なにか疚しい気持ちがあるわけでもねえんだ。そういうものと思い込むしかねえ。どうせ、今後これが普通になるんだし――。
「どうかしましたか? なにか考え込んでいるみたいですけど」
「いや、なんでもねえ。シャワー浴びてくる」
俺は階段を上り、自分の部屋――。
「入って大丈夫だよな?」
光莉は今、下にいた。
つまり、この部屋で鉢合わせる可能性はねえわけだが……いやいや、自分の部屋に入るのに、なにを躊躇ってんだ、俺は。
もちろん、ベッドの布団やシーツ、枕に変化はなく、なんなら、普段よりきちんと整頓されている。そこにぽつんと置かれている鞄だけが、普段との違いをあからさまにしていたが、もちろん、それは努めて視界から外す。
なんとなく急いで着替えを手に取り、さっさと汗を流して戻れば。
「おはよう、詩信くん。朝食の準備手伝ってくれる?」
母さんに声をかけられ顔を出せば、キッチンでは母さんと並んで、光莉が味噌汁の味見をしていた。
「どう、光莉ちゃん。もうすこし濃いほうが好みだとかあるかしら?」
「いいえ、沙織さん。おいしいです」
母さんとは大分打ち解けた様子っつうか、俺が手伝えるようなことあるか?
「詩信くん。ご飯つけてもらえる?」
光莉の分の食器はあったらしい。
母さんが光に姉貴と父さんを呼びに行かせている間に、俺は朝食を机に並べた。