出会い 2
神岡光莉。やっぱ、聞いたことねえな。
「そうか。それで? 俺は本当なら誰にそれを聞かされる予定だったんだ? いや、やっぱいい。今話すようなことじゃねえからな」
俺は神岡光莉に背を向けて歩き出す。今度は傘があるから走る必要はねえ。
「とりあえず、うち、来んだろ?」
雨の中、濡れたやつら二人で立ち話して、入学式に風邪ひきました、なんて笑えねえからな。
理由も経緯も知らねえが、まあ、多分、母さんか父さんが知ってるってことだろう。
「えっと、その、はい……」
わざわざこの雨の中に寄こすとは。
いや、もともと今日落ち合う予定だったんなら、天気なんて合わせようもねえか。まあ、だったら、最初から話しておいてほしいってもんだが。
それとも、もっと早い時間帯で?
いまさら考えても仕方ねえか。もうこうして、家に着くまでになっちまったわけだからな。
「ただいま」
靴を見たところ、まだ父さんは帰ってきてはいないらしい。いつも帰ってくるのは、深夜回ってからだしな。とくに会社員で春休みということもねえ。
だから、この神岡のことを聞くんなら、母さんにしかねえわけだけど。
「あら、お帰りなさい、詩信くん。お風呂なら――」
声は届いたんだろう、キッチンのほうから現れた母さんは、俺と、それから神岡を見て。
「詩信くん。光莉ちゃんのこと、連れてきてくれたのね」
は? ちょっと待て。
「なに言ってんだ、母さん。つうか、母さんはこいつのこと知ってんのか?」
まさか、隠し子とか? 十五年間も? ありえねえだろ。
「こいつじゃなくて、光莉ちゃんよ。今日から一緒に暮らすんだから。言ってなかったかしら?」
「聞いてねえよ。姉貴は知ってんのか?」
俺は二階へ続く階段を見る。
姉貴のほうは、やっぱり大学は春休み中のはずで、今日外出なんかしてはいねえはずだ。
「彩希ちゃんには話してあるわよ。なんで、詩信くんは知らなかったのかしら?」
母さんはのほほんとした様子で。
そんなん、俺が聞きたいわ。
「とにかく、光莉ちゃん。そんな格好のままでいると風邪ひいちゃうから、早くお風呂入っちゃってね。ああ、でも、ゆっくり温まっていいのよ。詩信くんは、光莉ちゃんの着替えとか持ってきてあげて」
「は? 俺が? こいつの着替えを?」
そんなの、それこそ姉貴にやらせればいいだろ。
つうか、着替えって、俺のでいいのか? そんなわけはねえだろ。
持ってきて、って言ったからには、今から買いに行けってニュアンスじゃあなさそうだが。
「そうよ。私は夕飯の準備があるし。光莉ちゃんの荷物なんかは、今は一応、お父さんとお母さんの寝室に置いてあるけれど、詩信くんの部屋か彩希ちゃんの部屋を半分、光莉ちゃんのスペースにするからね。それから、一緒に暮らすんだから、こいつじゃなくて、光莉ちゃんってちゃんと呼びなさい、いいわね」
それだけ言い残して、母さんは神岡――光莉を浴室へ連れて行く。
いや、女子の着替えとか、男に準備させるんじゃねえよ。最悪、光莉は一刻も早く風呂に入れなきゃならねえとしても――どうせ、俺は風邪とか引かねえし――姉貴がいるだろうが。
まあ、いいか。女子の着替えなんて、姉貴の洗濯物で見慣れている……ってほどでもねえけど、特段、気にするようなもんでもねえだろう。
「ええっと、これか」
一階の、父さんと母さんの寝室には、見慣れないキャリーケースがぽつんと置いてあり、ワレモノ注意だとか、この面を上に、だとかのシールが貼られている。
いつの間にこんなものが届いてたんだ? 全然、知らなかった。いや、知ってたらどうこうなんてことじゃねえけど。
倒して大丈夫なのか、母さんに確認を取り。
「どれがいいのか、全然、わからねえ」
いや、こんなもの、時間かけてると物色してるみたいで気持ち悪いな。
なんでも一緒だろと、とりあえず、一番手前にあった一式を手に取ると、浴室へ続く洗面所の扉をノックする。
「おい、まだあがってねえだろうな」
とりあえず、返事はねえ。
同じ学校に通う、ましてや、一緒に暮らすことが確定事項だっていうんなら、初日から覗き魔だの、痴漢だの、そんなありがたくない称号をもらいたくはねえ。
おそるおそる扉を開けば、浴室のほうからはまだお湯を流している音がしていた。
俺は洗面台の正面に備え付けの棚からバスタオルも一枚引っ張り出す。もちろん、きちんと畳んで置いてあった、濡れた着替えは極力見ないようにして。
「光莉。着替えとタオルはおいとくからな。しっかり、温まっとけよ」
「ありがとうございます」
浴室の曇りガラスの向こうから、くぐもった声が届く。
いまさらだが、こいつ、なにも思わねえのか? なにがっつうか……いや、光莉のほうが気にしねえなら俺が気にするのも……って、気にしないわけにいくか。
「洗濯機は出て左に曲がった正面だから。そん中に放り込んどけよ」
これ以上、同じ場所にはいられねえ。
俺はさっさと洗面所を出ると。
「あー……あいつの荷物も上げといたほうがいいのか?」
キャリーケースは、それほど大きいものではなかったとはいえ、女子に持って上げさせるようなもんでもないだろうし。
チャックを締め直し、それを持って階段を上がり、自分の着替えを用意する。
「ついでに、掃除も済ませておくか」
どうせ、女子ってのは風呂にしばらく時間はかかるもんだってことは、十五年も姉がいれば察することだ。
俺は一階から掃除機を持って上がり、籠に詰め込まれたままの洗濯物を片付け、普段は年末くらいにしか使わない掃除機をかける。
戻るときには、どうせ洗濯するんだしと、落とした水滴をタオルで拭いながら、後ろ向きだ。
「あっ、詩信くん。お風呂、先にいただきました」
戻ってくると、頬を上気させた光莉が、丁度、洗面所のほうから出てくるところだった。
Tシャツにホットパンツという格好で、白い太腿は眩しいが。
「……寒くねえのか?」
季節的には春とはいえ、外は雨が降っていて、そんなに惜しげもなく手や足を晒すような格好でいて。
一応、俺たちが雨の中を帰って来たってことで、暖房を入れてくれてはいるみたいだけど。
「詩信くんが用意したんじゃないですか」
光莉は、変なことを聞きますね、と首を傾げる。
それはそのとおりだが、手前にあったものを手当たり次第に引っこ抜いただけだし……俺がおかしいのか?
それに、ほかにも、気にしたりはしねえのか?
べつに、意識されたいってわけじゃねえけど、まったく意識されないってのも、それはそれで、危機管理とかどうなってんだと心配にはなる。
「それから、寒くはありません。お気遣いくださって、ありがとうございます。詩信くんも風邪をひかないようにしてくださいね」
普段、俺も同じものを使っているシャンプーのはずなのに、別物であるかのような香りを漂わせ、光莉はおそらくは母さんのところ、キッチンへ向かった。
「おっと。気にしてる場合じゃなかった」
つうか、気にしていたくはなかったというか、否応なく、気にはさせられるのは俺くらいの年齢の男子ならある程度仕方ないと思うが、それは自分で言うことじゃねえし、ともかく、俺もさっさと風呂だ。
今光莉に言われたばっかりで風邪なんてひいたら、それこそ、余計な心配をかけるからな。
「そもそも……まあ、そのへんの話は、この後で話してくれるってことなんだろうな」
さっきのコンビニでの話、それから、帰ってきたときの母さんの口ぶりから、光莉が今日、この榛名家に来る手筈になっていたことは確実。より正確には、今日から、ってことみたいだが。
それならやっば、母さんか、今はまだ仕事に出かけている父さんが、詳しい事情を知ってるってことだろう。