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作者: 萌袖りな

萌袖りな


 どうにも形容しがたい悪魔が、私を襲うのです。

 女はそう言うので、「それは心の悪魔か、それとも妄言か、どちらだ」と訊いた。女は悲しい顔をして、夜空に走っていった。私はその背中を覆うミジンコほどの気迫を、ただ美しいものだと称するだけだった。


 ミジンコと言えば、中学時代に顕微鏡で微生物を観察する授業をしているとき、理科教師がどうにも気持ちの悪い言葉を発していたのを覚えている。

――私はですね、この二つの豊満な輪郭をしたレンズから蠢く微生物を観察する瞬間が一番興奮するのです。ちょうど女子高生の着替えを覗いているような感覚であるわけです。私にはその良さがわかりませんがね、皆がそうだと言うのなら、きっとそうなのです。

 皆、聞かなかったフリをした。フリをし続けて二年半という頃、その理解教師は私の同級生に手を出して書類送検され、謹慎処分を受けた。私たちは夕方のニュースでそれを初めて知った。学校側は隠蔽したがっていたのではないかという憶測が飛び交ったが、熱り覚めてから全校集会が行われ、説明を受けた。説明を聞きたかった人間は少なくとも体育館にはいなかったように思う。責めや罵詈雑言が、少なくとも当事者でない校長であるとか理事長に飛ばされていた。私がその映像を呆然と見ていたか、そもそも見ようとしなかったかは、覚えていない。

 理科教師に手を出された女は今、私の隣にいる。気だるそうに弁当を食べている。時々、ウインナーを私の口に入れようと乾いた唇に当ててくる。

「ウインナーって、空腹時は無限に食える気がするけれど、満腹に近いときは何一つ食べたい気が起こらないんだよね。だから、はい」

 私は窓の外を見た。曇天と薄汚い校舎しか視界に入らない。殺風景で物悲しい閉鎖的な景色ではあるが、手持ち無沙汰の目バージョン――目線無沙汰とでも例えようか――に陥りがちな私にはありがたい世界に映った。この景色から、いらない世界なんてないということを知った。

「ウインナー、いらないの? お腹鳴ってるでしょう」

 私は女の顔を見ず首肯した。変な匂いのするウインナーは、いらない。私は、映画っぽいフィルターの世界を彩る微笑をお送りした。

 理科教師は元気にしているだろうか。そのことを食べ物で遊び始めた躾のなっていない目の前の彼女に問うか迷ったが、やめておいた。件の事件から一年が経ったものの、自分らしさを持たないことで苦しみをひた隠しにしているようにしか見えない彼女は、若者らしいと言えよう。では、罪を犯した理科教師は中年らしいか? そうすると非難囂囂を浴びかねない。若者らしいとカテゴライズするだけでも危険であるのに、私にそれ以上の領域へ土足で踏み入る勇気はない。ただその危険信号を知らせてくれるセンサーに感謝すべきという、ただそれだけのことだ。

「ねぇ、本当に何も食べなくて大丈夫? 午後の体育、倒れちゃうんじゃないの」

 私はあの変人理科教師が好きでたまらなかった。微生物って味はするのですか、と西陽差す放課後の理科室で訊いた日は今でも覚えている。面白い観点だ、と私の疑問に付き合ってくれた。近年ではミドリムシなんかがしばしば食べられるようになってきていて、あくせくと研究を進められている分野であるということ、視野を広げれば発酵食品も微生物を利用した食べ物であるということ。学ぶ度に私は理科に魅せられた。魅せられる度に、私は学ぶには値しない存在だと思い知らされた。そこに底無しの愛、言うなれば変人さが無ければ、真実に到達する労力が断然違ってくるように浅知恵ながら感じたのだ。気になったら速攻で側溝に顔を突っ込んで採取して即刻実験を開始するぐらいの勢い、興奮がなければ難しいのではないか。あの変人にそれについて相談してさえいれば、彼は犯罪者にならなくて済んだのかもしれない。私に教えを求められている彼は、普通に最も近似値を寄せていた瞬間であった。

 チャイムが鳴ったので、私は水筒の水を飲み、掃除場所に向かった。埃は私の周りを渦巻いて舞い、特殊能力に目覚めたような気がした。夢から目覚める日は遠い。


 体育の授業で倒れてしまった私は、保健室の眠らせる気のない硬いベッドの上で考える時間を与えられた。平生から私が精神的に衰弱しがちであることを知っている女養護教諭は私の顔を撫でた。長く細い典型的な美しさを誇る指から熱が伝達した。震えていると、女養護教諭は世界でも掌握したかのような顔をした。悪の女幹部に憧れているのだろうか。それなら滅多矢鱈におめかしする理由はわかる。

「私ね、人が何を考えているかはもちろんわからないのだけれど、どれぐらい暗いことを考えているかはわかるの。これって、凄いことだと思わないかしら」

 この女養護教諭はよくこの話をする。厳密には七回目だ。この調子でいけば、卒業までにあと三十五回聞く計算になる。反吐が出る。

「……あなたは、そうね。暗すぎてよくわからないわ。何を食べていたらそんなに黒くなるのかしら」

「何も食べてません」

 私は体温計を三本抜いて、口に、両脇に入れた。なるだけ高温になるように熱を集中させようと意識するのは私だけではないはずだ。効果があるのかはわからない、科学的証明が急がれる。誰も急いではくれないのだろうが。

 女養護教諭は体温計がピピピという音がするなり三つともを取り上げ、何度何分であるかを確認させてくれなかった。そして、拭きもせず私と同じように口と両脇に挟んで測り始めた。とんでもない人間だ。この世には案外、常識はずれで型にはまらない人間がいる。必ずしも安直に肯定して良い事実ではないはずだが、苦言を呈せば表現の自由だの何だのを提示されて黙らされる。彼女は時間でも止めて好き勝手やっているような表情を浮かべていた。彼女の一挙手一投足が、私の奥深い内臓に悩みの種を孕ませる。

 私は保健室を出た。俗世間では六限目の時刻であり、静かな校舎がどこか申し訳なさや焦りを心に誕生させた。会釈もせず心の中を乱舞する! 私は破裂しそうになって、その場に倒れ込んだ。身悶えしていると、床の冷たさが心地よく、しばらくして次第に落ち着いてきた。心拍数は上がったままであったが、階段を登った。この学校の階段は、一段がやたらと大きい。バリアフルだ。バリアそのものだ。バリアは崩すためにある、私は階段を殴った。一向に凹まない強硬さに私は凹んだ。保健室に戻って右手をアイシングと包帯の処置だけしてもらってから、教室に戻った。物理基礎の暗号が連なった式が頭に入るほどのスペースは存在しなかった。


 放課後、被害者が話しかけてきた。

 私たちが関わるのは良いことではないとかねてより伝えているのに、この女は容赦なく介入してくる。カリギュラ効果を実証してそれを誇示してくるかのようで、私にはどうにも不快だったが、悪意の無さだけは目を見張るものがあって、完全には拒絶できないでいた。

「これ、のど飴」

「痛み入る」

 私が支障をきたしているのは精神と体調と右手の小指側の端の出っ張りだけであって、喉の調子は一切悪くない。そう、まさにこういうことだ。好意は本物なのだが、どこか間違っていて、対処に困る。困るから、私は無駄な思考をさせられる。頭が、おかしくなる。

「物理基礎のプリント、写させてもらえるか」

 被害者はなぜか四つ折りにしてあるプリントを差し出してきた。穴埋めはどれもこれも間違っていて、思わずさっきの時間何をしていたのかと聞いた。

「聞こえたから、埋めたの」

 言葉を失った。頭を抱えた。絶望した。この被害者については煩わしいと思うだけで精神状態などは考えてこなかった(というか、そんな余裕がなかった)のだが、こいつもかなりやられているようだった。彼女自身掴みどころのない性格をしていて、流動的、不安定、そういう類の言葉が似合う。拍車がかかったのだろう。

 ある種、同族嫌悪なのかもしれない。私だって人間だ、人によって態度は変えるし、得手不得手はあるし、自分の知らない自分がいる。そういう普遍的なところと比較してしまって同種だと認識してしまっているだけで、本当は比較対象にならないはずだ。もっと遠くにいる存在のはずなのだ、彼女は。

「さっきのウインナー、まだあるんだけど食べる?」

 腐っているだろうから、私は遠慮した。きっと増殖した微生物がこびりついているはずだ。時間が経っているのもあるが、私の唇に一度付けられたのだから、顔ダニだって住んでいてもおかしくない。潔癖症でなくても食べることはできない。

 この前、変な匂いがするからと卵焼きを拒絶したら、彼女が帰り道、土に埋めているのを見かけた。私はすぐに掘り起こさせたが、始終悲しそうな顔をしていたため、もしかしたら自分で作ってきているのかもしれないと考えた。だから、次は食べるからと説得した。しかし今日のは卵焼きではなくウインナーだったから、食べなかった。今日もまた埋めに行くかもしれない。食べ物にそんな死骸みたいな扱いはしないでくれと頼み込もうかと考えたが、彼女に話しかけるのが億劫でたまらなくて、やめておいた。もし食品の不法投棄として彼女が捕まったなら、犯罪の幇助をしたとして私も同等の処罰を受けるのかもしれないが、一向に構わない。置かれた場所で、咲くだけなのだ。皮肉だ。


 物理基礎の教師は非常勤講師で、職員室にいることはまずなかった。だから、プリントに何を埋めればいいかは知る由がなかった。職員室の前で立ち往生していると、現代文教師が話しかけてきた。随分と早口で声が小さく、何を言っているのかわからなかったので現場から逃走した。保健室に寄って、保冷剤を返すと、安易には帰宅させてはくれそうになかった。

 私は女養護教諭の膝の上に座らされて、腕を弄ばれた。少しでも楽になるようにとのことらしかったが、私にはその時間の価値が見出せなかった。

「びゅーん、びゅん。ぷしゅう」

 私の腕は右から左へ、左から右へと動いた。そしてぶつかり、破裂した。蛇行しながら散り続け、しまいには視界から消えた。彼女は僕の腹に腕を回した。二人分の体重になんとか耐えている革っぽい椅子(私はジェネリック革椅子と心の中で呼んでいる、それほど安っぽいのだ)が、少し悲鳴をあげている。

「大丈夫?」

「椅子のことですか」

「あなたのことに決まってるじゃない」

 薄ピンクのカーテンがすべての窓を隠している部屋の中、私は首肯した。

「大丈夫って聞かれると、大丈夫って言っちゃうわよね、そりゃ。じゃあ、今ピンチ?」

 私は首肯したら負けになる気がして、動かなかった。動けなかった。お腹が変に暖かくなって、少し気持ち悪くなってきた。

「うーん、黒いなあ。この制服の黒より遥かに黒い。暗いっていう次元じゃない。もしかしたら、無、なのかもね」と彼女は私のベストを撫でながら言う。

 納得している自分がいた。言語化されていない領域が少し明瞭になった気分でいた。何一つ気分は晴れなかった。寧ろ黒が侵食されている部分を見てしまって恐怖していた。

「言葉にされるの、辛い?」

 私は悔しくて、歯を食いしばり、手で顔を押さえた。

 女養護教諭は私の脇から腕を通してしっかりと抱きしめてきた。なまじ腹を押さえられていたことから解放されたことと、胸に拡がる暖かさが、カタルシスという単語を彷彿とさせた。

「どうしても駄目だっていうのなら、私の薬あげるからさ。楽ぅになって落ち着くけど、ちょっと眠たくなるやつ。どうせ精神科なんて行きたくないでしょう? だから、駆け込み寺としてここにいつでも来てちょうだい。お願いだから、ね」

 私はもう、屈辱で五臓六腑が口から出そうだった。なぜここまで自分は弱いのだ。なぜ理解できていても苦しくて苦しくて仕方がないのだ。なぜ支えられて生きていかなくてはならないのだ。

 それから二時間はずっと抱かれていた。暑くて仕方がなくて、汗で蒸れて二人とも少し臭った。学校は十八時には完全下校で、少しオーバーしていたため女養護教諭は車で家まで送ってくれた。赤くて高そうな車だった。車内はいい匂いがした。その晩、別れ際に渡された薬の入った薄ピンクの小さなパッケージをずっと弄んでいた。いけないことも、考えていた。


 眩しくて目も開けられない、でもやっぱり開けたい。そんな熱い青春を味わいたい願望がやってきた! 朝冷えが顔の産毛を意識させる早朝、私は衝動のまま街外れを走り出した。

 汚れた野良猫を見つけた! 怪我はなさそうだったので、いつも見かけるところに置かれている小皿に水を追加しておいた。お元気で、と囁くと、背(デカ尻)を向けて歩き出した。上機嫌に揺れる尻尾が、己を野良だと感じさせない上品さを醸し出していた。

 銀杏の落ち始めた頃の公園でタバコを吸うハゲた中年のサラリーマンがいた! 私にはその構図の理解ができなかった。銀杏は臭いものとしか認識していないし、タバコも体に悪いし臭い。臭さを見に纏うことがルーティンなのか、体臭を激臭で紛らわしているのか。

 あることを思い出して、私の青春は幻滅した。タバコの先みたいに、ジリジリと微弱な音を立てながら萎縮して真っ黒に朽ちていった。

 あれはちょうど、一年半前のことだ。


「先生、なぜ街には銀杏を植えられているのですか。臭くてたまらないのです」

「多くは景観のために植えられていると認識されているね、銀杏は。でも理由はそれだけではないのだ。ヒントは、水分だ」

「水分……。避暑地、いや冷たさというより、火への……? 火事の対策ですか」

「ほう、よくわかったね。正解だ。木造建築が多かった時代に植えられたから、そういう視点が生まれたのだ。ちなみに、落ちている果実は素手では触らないことだ、かぶれる可能性がある」

理科教師は専門分野ではないことであっても理科の範囲であればなんでも知っている気さえした。時折り、解答の難しい意地悪な質問を投げかけもしたが、無限の知識は言語化をも容易とさせていて、歯が立たなかった。

 被虐でも受けたような気分でいた。自分がマゾヒスティックであればどれだけ良かったろうと考えた。ネガキャンみたいで気持ち悪かったのですぐやめた。

 あいつには敵わない。あいつにだけは、絶対に。私は学校の裏山の竹藪の中で叫んだ。落ち葉は叩いても叩いたというような音がしないので、ただただ拾っては握り潰した。握りすぎてどこかしらの骨が皮膚を突き破って出てくるのではないかというぐらいには。喉が潰れるまで叫び続けた。感情は完成されていた。

竹藪の奥に幻影が見えた。それが幻影だと辛うじてわかるぐらいの微かな意識と自我を頼りに、その方へ近づいた。黒いワンピースを着た、黒い顔の、黒い髪の――。わからない、黒いとは例えたが、黒かと言われるとそうでないような気もする。だが今動かせる脳の棚から引き出せる単語はそれしかない。

 幻影は林の奥へと歩いていくので、私は寂しくなった。ミジンコみたいな暗黒の微粒子が、幻影から放たれていた。もぞもぞとした物質が体をすり抜けていく。寒気、吐き気に気を取られ、身体が意識外になった。すると、幻影は上昇し始めるのが見えた。木陰から出ていくのと同時に、暗黒の微粒子は拡散して消えた。

 私は理科教師のことを考えていた。あの暗黒の微粒子を、変人理科教師は発見したことがあろうか。あるはずがない、体をすり抜けて身体に悪影響を及ぼす存在がいるとなれば、学会に衝撃が走るに違いない。暗黒の微粒子は一匹たりとも逃さず捕らえられ、人体への影響を及ぼす過程や生殖活動の術について人体やマウスで臨床実験、そして分析され、自由を奪われる。私はそうなる対象をかわいそうだと思うし、割と人間の心も持ち合わせている理科教師なら同じことを言うのだろう。彼はそういうやつだ。

 彼を、尊敬している。やはりこう表現するとすぐさま訂正したくなるほどには悔しいし、言ってしまえば劣等感で押し潰されそうになる。なぜだ? 良心をもって教えてくれているだけであるし、私も学んで成長できている。いつか何かに役立てる気など毛頭無いが、知ることの喜びはいつだって生きる糧になるのだ。それを知ることができただけで大きな学びのはずなのだ。

 私は帰路についてもあの光景が頭から離れないでいた。ここにも暗黒の微粒子の影響が出ているのならまだ良い、それのせいにできる。問題はそうでなかったときだ。ただただ私の心の弱さ故の苦しみであるということに気圧されていくだけだ。元より一朝一夕で解消されるようなストレスではないとは考えていたが、ここまで私を蝕むものだとはわかっていなかった。一度も泣いたことのない私が今、暗黒の微粒子を浴びて薄らと目に水分を感じている。あれは涙の成分なのだろうか、それとも何にでも変容できる能力を持った全てを司る物質なのか、ただの幻影に過ぎないのか。爪を齧りながら歩いて考えていたら、玄関のドアに頭をぶつけた。私はところ構わずマンションの壁を殴りつけた。近所の人間に見られてからは、大人しく部屋に入った。


 女被害者は私を外界に駆り立てた。煙雨の中を歩かされたのだが、部屋の空気よりかは幾分清々しく、傘は持ってこなかった。雨が強くなってきてそのことに後悔していたら、彼女は自分の折りたたみ傘に私を入れようとした。私はそれを退けて、両肩が濡れるのを楽しんでいた。本来濡れるべきは僕なのだ。

 連れてこられたのは、私が夏になるとしばしば訪れる、河川敷の木陰。最高の避暑地だ。彼女はそこに風呂敷を広げ、その上にそこらに落ちている何本かの太い木を置いた。そして、「これは杭だよ」と言った。

私はすぐさまその木を一本拾って地面に叩きつけた。べきっ、という激しい音と共に木片が飛び散り、真ん中の辺りでふたつに割れた。

「こんなことのために私をここに連れてきたというのか」

 女被害者は木を一本取り、ぬかるんだ土に突き刺した。河原の方へ行って大きめの石を取ってきて、その上に打ちつけ始めた。

「やめろ」

 私の静止など聞くはずもなく、この女は愚行を続けた。

「私たちは」

「やめろ」

「いつの日か」

「やめろ」

「こうなる」

 私は頭を抱え、膝から崩れ落ちた。発狂すると、川の流れの音は消えた。そのまま萎縮して川の流れが止まってインフラがすべて成立しなくなってガタガタと世界が崩壊していけばいいのにと思った。思ったことはすべて形を変えて自らの心に跳ね返ってくるのだった。

「出る杭は打たれる、出たままの悔いは討たれる」

「そんなはずない、世界はもっと美しいはずだ。優良で、善良で、心の正邪を問わず生きる権利を与えられるんだ」

「生きてもいいけど、笑顔ではいられないよ」

 変な匂いのするウインナーを思い出した。その前に食べさせられそうになった変な匂いのする卵焼きも。出てしまっている目の前の杭にもその匂いがする気がしたので嗅いでみようと近づくと、彼女がそれを止めた。

「悔いには近づいてはいけない。杭から離れるの。いいえ、あれは私ではありません、とシラを切るの」

「お前が、お前が悪いのだろう! お前にだけは決定されたくない」


一年前。


 調理実習は楽しみにしていた授業だ。今回で中学校生活最後の実習らしく、寂しくもあったが、先生に聞いたところ高校でもやるところはあるらしく、素直に喜んだ。

 今日作るのは青椒肉絲で、私は普段から中華料理を作って食べるのでその違いも楽しみにしていた。ピーマンの切り方はこう、たけのこの切り方はこう、水溶き片栗粉はこのタイミングで入れる、肉はもう適当でいい、本格的にいきたい人はお好みで山椒をかけること。色々教わって、みんなで分担して取り掛かる。

 私は肉とピーマンを切る係と最後の洗い物の係を任されていて、それが終わってからは皆が焼いたり盛りつけたりするのを見ているだけだった。そうやって、順当に終わるはずだった。

 女は、白濁した水溶き片栗粉に白い粉を入れていた。

 それが何なのかを問いただす前に私は強制的に女を廊下に連れ出した。よくないことをしようとしているのなら私は君を止めなければならない気がして止まらないのだ、と吐露すると、彼女は乾いた笑いを見せた。私は無性に苛ついた。生死をなんだと思っているのかと憤慨すると、彼女は自分の顔を殴り始めた。私はそれを見ていられず、腕を掴んで止めようとすると、バタッと倒れた。まな板の上でざっくばらんに刻まれる肉を思い出した。今あの肉は青椒肉絲となって生徒たちの一部になろうとしている。私はこの女を許せなかった、なぜか食べるしかないという気になった。

 なぜだ、なぜだと連呼しながら女の制服を鷲掴んで床に押し付けた。肩が痛い、苦しいと言われても続けた。弱々しい体を守る硬い制服は邪魔でしかなく、私はそれを脱がした。

 すると、女は叫んだ。スピーカーでも潜ませているのかと疑うほどどこから出しているのかわからない甲高い声だった。私は冷や汗で溺れそうな感覚でいた。筋肉が硬直し、金縛り状態でいる私を、誰かが突き飛ばしてきた。

 そこには変人理科教師がいた。私を笑顔で一瞥すると、険しい顔をして白い粉の女の方を向いた。調理室から家庭科教師や野次馬生徒が大勢出てきて、その凄惨な現場を目撃された。私は恐ろしいものを見る顔で変人理科教師を見ていることしかできなかった。それはまるで、ある男がある女を襲っている現場を見てしまったようだった。

 ニュースにはあることないことを書かれていた。数回しか見たことがない校長が禿げた頭を見せながら謝罪しフラッシュを浴びている写真はもう五百回は見た。それを見るたびに吐き気がした。罪悪の感。私は悪である罪を犯して「しまった」のだと思うようになった。変人理科教師が受けた処分は目も当てられないほど情状酌量の余地が見受けられない重罪のそれで、出来うることなら私が代わりに受けたかった。受けるべきだった。

 変人理科教師の行動に疑問を持った。なぜ私などというどうでもいい存在を庇うのか、なぜ自分に対して劣りに劣った生徒なんかに情を抱いてしまうのか。私は自分が優れているなどという可能性は考えなかった。あいつと私は上と下の関係にあって、導く側と導かれる側として隔たりがある上で接していたのだ。もしやこれで導いたつもりなら勘違い甚だしい。なまじ救われても心が救われるはずがない。いつしか変人理科教師を悪だということにして合点をいかせないと腹の虫が治らないことに気がついた。

 女の様子はというと、よくわからない。申し訳なさとかそういうので悩んでいるのかと思えば、掃除の時間を上機嫌に過ごしているのも見かけた。

 私はある日、気になって仕方がなかったので「良心の呵責というのはないのか」と訊いた。するとたちまち顔色を変えて、「私、死にたいの」と小声で言った。

 これは彼女を頭ごなしに否定することはできないなと思った。責め立てることができなくなってしまった。白い粉について聞くことは一切しなかった。被害者ではあるのだけれど彼女からしてみれば自分が自身を殺そうとする加害者であるという認識ではいるだろうし、ややこしいことになって困惑しているところもあるのだろう。授業中も上の空なことが多いのを見るとそれは明らかだった。

 がんじがらめの状況に私は追い詰められ、自我を保つことができなくなった。解決のプロフェッショナルだという時間様に期待して数ヶ月待った。ダメだった。

 どれだけ苦しくても誰にも言わなかった。家族には無駄な心配をかけたくないため、成績で学年一を安定して取ることに努めた。一つでも安心できる要素があれば途端に相手を信用して疑いの目を持つことがなくなる性質をもった人間が周りには多いことぐらいわかっていた。固唾を飲んで生きていくことでしか自分は成長できないのだと言い聞かせ、ただ学生の本文をまっとうした。それが私にできた最大限の逃避の術だった。不器用なのだから、愚かなのだからしょうがなかった。


「少し咀嚼の時間をくれ」

「いいえ、それはできない。なぜならあなたも私と同じで何度だって試みたはずで、そして一度だって飲み込めたことはない」

 女は木を一本取り、ぬかるんだ地面を探し、そこに突き刺して埋め始めた。半身ほどが入ったところで石に当たったようで、また抜いた。

「お前の、せいなどでは、ない」

 私は重力にすら逆らえない愚かな涙を落とした。風呂敷の上の木々に染みていくのを辛うじて確認することができた。朽ちていくのを加速させてしまって申し訳ない気持ちが湧き起こった。願わくは麗しい翼を生やして雨雲を突き抜け飛んでいってほしい。私の最大の願望を押し付けるようでこれまた申し訳ないのだが、どうか意思を継ぐという綺麗な言葉で納得させてほしい。私が代わりに杭になるから、許してほしい。

「私は、わけがわからなかった。自分の行動がおかしいと言われ罵倒されたけれど、たった一つの小さな行動ぐらいどうだっていいじゃないかって。私からすれば、朝のパンに塗るジャムをいちごからぶどうに変えたぐらいのことなのよ? なのになんで、私は虐げられなきゃいけないの。誰だって熱い薬缶に手が当たったら叫ぶじゃない、人並みに死にたくなることだってあるじゃない、ねぇ」

 脱力感が汗ばんだ身体を襲った。自己憐憫でさえ起きないほどの高いプライドがそれを逃がそうとした。心の中で勝手に戦争をされるのは心地よいものではなかった。その残滓は私にとっては排出できない排泄物であり、同時に足枷でもあった。

「今のお前は、お前、なんだな」

「ええ、私よ。自分を殺せなかった私。休日の、それも悪天候の中あなたを連れて行くのなんて、私、ぐらいでしょう。雨天決行が座右の銘なのよ」

「現実は怖くないのか。ぶっ壊れて、逃避してどこかにいってしまったのではないのか」

「怖くて怖くて仕方ないわよ。でも、魔法っていつも時間制限があるものなの。いつかはバフ魔法が解けて、現実と向き合う時間が訪れるの。灰をかぶったって朝にはただの少女に戻るでしょう。きっと、死んでもそういう時間って訪れるんじゃないかしら」

 私は女が怖くなってきた。今なら形容できる、これは紛れもない劣等感だ。変人理科教師とあまり変わらない。先を越された、自分よりも酷いものだと思っていた、なぜか説教された。私は萎縮した。めきめきと音を立てながら肩が、背骨が曲がった。一年前と比べて体重が半分ほどになってしまっているためか、あちこちが痛かった。

「私、もう好きに生きていいかしら。もう、疲れたの。自分で自分の体を動かさないと、いちいち失敗とか漫然に憂えて疲れちゃうの。私、生きる力を手に入れたかもしれないの。死にたいけれど、ね。だからやれるところまでやってみたい。できるのにやらないって、あんまりじゃない。他人に強要するのは好きじゃないけれど、自分に言い聞かせるぐらいなら許されるはずよ」

 好きにしろと言うと、彼女は杭を二本とも抜き取り、他全ての木を集めて川に投げ捨てた。唯一、私の目の前に甘く突き刺さった木を除いて。そしてしっかりとした足取りで土手を歩き、どこかへ去っていった。

私は夕刻までそこで呆然としていた。寝ていたかもしれないし、考え事をしていたかもしれない。とにかく、雨が強くなってきてから帰路につき始めた。


 あの女があっさり乗り越えたように見えて理解に苦しんだが、そういうものかと思うようになった。自分の苦しみと必ずしも同じものを持っていたとも限らないし、精神が壊れていても持ち直す力があったのなら当然のことだとも言える。死にたいという気持ちは誰でも持つものだという意見は賛成だったが、その気持ちは長い間ずっと意識するものではなくある程度期間を置きながら波のように襲ってくるものだという風に捉えている。なら、彼女はやっと干潮になって乾いた砂に漂流して、辛うじて生きていたから歩き始めただけに過ぎないのだと捉えられる。だからつまり、それほど羨ましいしいとかの感情は湧かなくなった。参考にならないし、苦しみのレベルだって、溺れている海だって違う。まず一緒の視点で見ようとしていた時点で間違いだったのだ。

「やっほ」

 陽の光のなかから飛び出てきたのは女養護教諭だった。私は次の土曜日にプライベートで会えないかと誘われていたのだった。とりあえず駅前にいてくれと圧をかけられた。何をしでかすかわからないこの女に付き合うと余計に疲れるだろうからもちろん乗り気ではなかったのだが、たしかにこの女に希望を抱いているところがあったのだ。淡い期待を抱くなんて、私らしくない。

 女養護教諭はいつもおろしている髪をツインテールにしていて、鎖骨をがっつり見せる大胆な服を着ていた。隣で歩く存在だと考えると、などとは考えないようにした。因みにこの養護教諭は二十代後半だ。キツいが、まあギリだ。

「私服デートをすれば元気になるでしょう大作戦、開始!」

 詭弁です、と返すと、大きな声で笑われた。

 カフェに行った。やたらと大きなパフェを二人で貪り食った。実際には九割を女養護教諭が食べた。

 手をつなぎながらショッピングモールに入った。うるさい。主に視界に飛び込んでくる有象無象の情報や彩りが。女養護教諭は勝手に私の一式コーデを組み、勝手に購入して重たい服の入った紙袋を私に持たせた。

 登場人物すべての感情が読み取れない恋愛映画を観た。始終よくわからなかったが、女養護教諭がそわそわしているのを隠しきれていなかったのと、やたらとボディタッチが増えたことから察するに、悪くない映画だったのだろう。

 途中、舌を触診された。白いと血流不足、黄色がかっていると胃や肝臓がやられているのだという。なんだか自分が醜く感じられる時間だった。元からだが。


 夕刻、わけのわからない公園で休憩した。そのタイミングで初めて、女養護教諭に私の身に起きたことを洗いざらい説明した。先日の河川敷での女被害者との出来事も話したので二十分ほどかかったが、彼女は一度も興味がない様子を見せなかった。何度も頷いていた。

「あなたは、あなた自身をどう思っているのかしら」

「わかりません。どうとも言い難いです。色々考えましたが、結局自分はどうなのかというところは結論が出ません」

「無理に出そうとしないこと。いいわね」

 珍しく、柔らかい表情と声音を険しくしていた。少し怖い。

「急いては事を仕損じるわよ。自己肯定感ゼロの状態で自己肯定感を上げようとするのは無茶なのと同じ。まったく、同じ。いい? 思考は鏡なの。自分の醜さとか、未熟さとか、そういうのを異彩なく如実に映し出して、存在感をアピールしてくるの。それにいちいち一喜一憂してたら、そりゃ疲れるに決まってる」

 女養護教諭は私を抱きしめた。

「あなた言ったわよね、時間が解決してくれるのを期待して何もしなかったって。嘘よ、それ。ずっと、ずっとずっと考えてたの。靴についたひっつき虫を手袋で取って、また手袋に付着したことに驚いて手をぶんぶん振ってまた上着とかに引っ付く、それでまた手袋で取ろうとする。あなたがやってることってつまりそういうことなの。そんな作業終わるわけないわよ、相当な運持ちで傍若無人でなければね」

 私は言葉を失った。私の愚行がみるみる例えられていく、それらはすべて正しい例え方だった。脱力し、女養護教諭の肩に顎を落とした。

「悪いことって言ってるわけじゃないのよ、そこはわかってちょうだい。必死なのよね、何かやらなきゃっていう気持ちが湧いて止まらなくて、蓋をしようにもどれが蓋かわからないから手で塞いで、ホースに指当てたみたいに水が弾けるように飛んで、乱反射して全部自分に返ってきてる」

 私は背中をさすられるたびに悔しくなった。どれだけ大人に迷惑をかければ済むのだ、という知らない誰かの言葉が脳内に反響していた。泣かずにはいられなかった。そんなこともつゆしらず、彼女は私の不可解な重りを次々と言葉にしていった。私はそれを聞くしかなかった。


 夜になって、誰もいない公園にようやく街灯がついた。

「ごめんなさいね。あなたを悲しませるつもりはないのよ。ただ乗り越えてほしいの

 私は首肯した。

「リグレットは愛で包み込むのが一番だって、私思うの。愛が人を救わなくてどうするのよ。これまでドラマを生んできた存在が今になって仕事しなくなるなんて、そんなのないわよ。だから、私は愛を知らない人に教えてあげたいの。本当は触れたいのに、触れたいと吐露すると悲しい顔をされて逃げられた経験が邪魔をして、触れられない。そんな悲しい物語、好きで享受したいと思える人はそんなにいないわよ。信じて、信じられて、触れて、触れられる。それは良いことじゃない」

 私は流涕を抑えられなかった。悔し涙であったのだが、私が思うに、左右どちらかはそれで、もう一方は感動の涙だっただろう。心は浄化されて澄んでいて、溜まった垢が剥がれ生まれ変わる瞬間を、笑顔でしか見ていられなかった。

 女養護教諭は抱きしめるのをやめて、しばらく私の目を笑顔で見つめてから、もう一度抱きしめた。何も言わないのがまた私の感情を揺さぶった。露わになっている鎖骨が私の頬に当たる。私が噦る度に彼女の体も動いて、大きく触れた。あたたかさがこちらに伝わってきて、膨張しながらも冷え切っている劣等感や罪悪感が溶け、どこかへと流れていった。

「忘れない方が、いいのでしょうか」

「んー? そうだなあ、うーん。もう、いいんじゃないかしら。誰も責めないわよ、フレンチトーストを作るとき、パンの耳を廃棄するようなものよ」

「それは、怒られると思います」

「私も怒るわね」

 数京年ぶりに笑った気がした。こういう解答を求めていたのだから、また面白い。上等にカタルシスなどと言うと誰かから怒られそうだが、今まさにその言葉がまた浮かぶ感情でいた。

 女養護教諭が私の顔の真近くで目を閉じるので、私はそれをするにはまだ早いと慌てて静止した。

「じゃあ、卒業したら付き合ってね」

「先生は私のことを好いてくださるのですか」

 女養護教諭は珍しく赤面させて慎重に頷いた。どうにも私にはそれが可愛らしく見えた。

「あなたほど守りたいと思う人、きっと後にも先にもいないわ。こんなにも純情で、優しくて、頭が良くて、礼儀がなっていて、脆弱な心を持った放って置けない子は、ね。だから、ずっと側にいさせてほしいの」

 私はまんざらでもないという顔をしていたような気がする。硬い表情筋に、破壊されて一瞬で超回復されているような感覚があった。笑顔のやり方を思い出した。

 今度の抱擁はやたら強いものだった。彼女もそれなりに悩んだり、重圧に感じているものがあったりするのだろうか。そういうものを引き出させて向き合って解決する仕事をしている以上、自分が自らのトラブルを解決できなければならないのだろうけれど、彼女はどうだろう。

 ただ、一つだけ未熟な私にもわかっていることがある。出る杭は打たれるが、出たばかりの杭は自分ですぐ打ってしまえば誰にもバレずに過ごすことができる。そういうのを嘘だと認識して、それができないというのであれば、無視してしまえばいい。そういうのに関しては恐らく時間様が解決してくれる。きっと自発的に打てる杭は気付かぬうちに打っているはずだ。

 結局私の杭の場合、頼みの綱だと認識していた時間様ばかりに期待して、本質(時間様が解決できないタイプの杭だったということ)を見失っていた。自分でやらなければならないことから逃げて、怯えて、良くない思考を重ねてその杭の周りを荊で覆い尽くしていた。

 杭は杭だ。座標というものははいかにもわかりやすい。だからこそ容易に誘発して自分を苦しめる。それと対峙したときどういう対応をすればいいのかは否が応でも考えることになる。その時間が幸せな時間になるなど到底あり得ることではないため、颯と終わらせられるならそうするべきなのだろう。でないと私みたく長期的に苦しみ、簡単に死を想像する。絶対、そうならないようすべきだ。

「普通って、案外近くにあるのよ」

 彼女の耳元での囁きは、私を恐ろしく安堵させた。


 再会は意外なタイミングだった。高校三年生になり、母校である中学校に顔を出す用事があった。そのときばったり出くわしたのだ。変人理科教師に。

「なぜ私を匿ったのですか」

「悪役みたいなことを言うがね、私は君のことが嫌いだったのだよ。ずっと嫌いだったわけではない。最初は内申点狙いが見え透いていて嫌い、徐々に内申点狙いではなくそこにあったのは純粋な好奇心だけだったのだと知り嫌いではなくなる、しかし最後には好奇心が薄れてきているのを察して、所詮その程度だったかと落胆し嫌いに。だからね、君には失敗体験を散々味わってほしかったのだ。私の教えが徒労に終わったことには、詫びよりその苦しさが見合う。普通に生きるだけで苦しいことは無数に襲ってくるのだから、放っておくだけで十分なのだ。しかしどうだろう、罪を犯すとなると罪や失敗に対してアレルギーを起こしてしまい、逃避してしまう。失敗体験の絶対数が減ってしまうではないか。そんなのは御免だ」

「先生。十分私は苦しんだつもりです。少なくとも、精神はぶっ壊してきました。劣等感や、罪悪感によってです。でも乗り越えて、普通に生き始めました。私にはどうやら、普通の方が合っているようですよ」

 変人理科教師は私から視線を逸らした。

「君のことは、尊敬してもいたんだ。この時代、学習意欲をまともに持った人間があまりにも少ないように思うのだ。受動的になら生徒は存外いるのだがね。本当に、冗談を抜きに十五年ぶりほどに、疑問を持つための才能を有した生徒だったのだ、君は。私は興奮した。その昂りも十五年ぶりだろうね。だから、どうであれ見守ってやるべきなのだろうとは私も考えたのさ。あの行動は、君を苦しめるものにしかならなかったのだろうか」

「私にはよくわかりません。そうだったとしても先生のことを否定したくはありませんし、そうでなかったとしても結局どんな形であれ私は苦しんでいたのだと思います。上の存在は、上の存在らしくどっしり構えて下の存在を導いてください。それが先生という存在なのだと、私は考えます」

 彼は私に握手を求めた。数多の実験、調査で使用されてきた歴戦の手は、硬かった。

「私は遠い故郷の小さな学校でまた一から教育者としてやり直す。君も様々困難はあるだろうが、がんばってくれ。応援させてもらう」

「私も、陰ながら応援しています。良い報告ができるよう努めていきます」

 理科教師の手の硬さを忘れることはないだろう。熱をもって学び、成長していき、あの硬さになる頃には私も誰かに尊敬される、そんな人生を送りたい。漠然としているが、これほど美しいビジョンはない。先導者の素晴らしさを見ることができたのは紛れもなく彼のお陰だ。感謝を胸に、私は歩む。道ゆく場所で逐一あらぬ方向に飛び出る杭と向き合いながら。


 変人理科教師と会った帰り道、クラスが同じにならずずっと会話していなかった女被害者に会った。例の河川敷で、だ。

 私たちは驚くほどごく自然に、これまであった楽しかった出来事について語り始めた。彼女とは一度もこのような話をしたことはなかったが、初めてという感覚はまったくなかった。

 一番驚いたのは、彼女に彼氏ができたことだろうか。いつも一人で昼食を食べていた男の子に話しかけたところ、意気投合したらしい。性格もお互い掴みどころがなく、毎日違う体験のできる日々を過ごしているらしい。その話をしている女被害者の顔は、三オクターブほど見違えた。

 一通り明るい話をし終えたとき、彼女はあることを話し始めた。

「あの日のこと、覚えてる?」


 私が黒い粒子に出会った日。真夜中になり、そろそろ寝付こうとしていたころ、女被害者は私のマンションに駆けつけてきた。

 彼女はインターホンを鳴らし、母が出た。

「どうにも形容しがたい悪魔が、私を襲うのです」

 必死に女被害者は母に訴えていた。私の知り合いだと説明し、マンションから叩き出した。

「それは心の悪魔か、それとも妄言か、どちらだ」と訊いた。

 彼女は悲しい顔をして、夜空に走っていった。私はその背中を覆うミジンコほどの気迫を、ただ美しいものだと称するだけだった。

 その一見意味不明な彼女の行動を見ているだけではいられなかった。私と同じものを見たのだとすれば、彼女があれだけ困惑していたのも納得できる。私は必死に彼女の背を追いかけた。しかしどれだけ走っても追いつけなかった。そのとき初めて、彼女のことを顕微鏡で覗いた微生物だと思った。どれだけ拡大倍率を上げても触れられない、永遠に届かない存在。


「覚えてるよ。結局私は家に帰ったんだったな。君はあのとき、どうしていたんだ」

「黒いつぶつぶがずっと視界に貼り付いていて、振り払っても取れないから、ずっと走ってたの。そしたら幾分マシになるから。だから夜中は走ってた。いつの間にか疲れ果てて、道端で寝てた」

「それから?」

「黒いつぶつぶは無くなってて、じゃあ、もういいやってなって。それから、普通に家に帰って、学校に行った」

「そんなものなのかもしれなな。私も黒いつぶつぶを見た。あれは、死への恐怖を認識させる死神のオーラなんだと解釈している。結局人間は焦らないと何もやらないから」

「その解釈好きだなあ。死神さんかあ。再会するのはもうちょっと後になりそうね」

 私は神妙な面持ちで軽く首肯した。

「ねえ」と彼女は小さな声で言った。「私たち、どうかしてたね。周りに迷惑かけてばっかだ」

「普通は案外いつでも近くにある、ということだろうな。だからこそ安心して冒険できるというものだ。周りの人にはその姿勢で感謝を伝えよう。まあ、言っても、君ほど私はどうかしていなかったが」

「ブラックジョークすぎるよ」

「いやいや、君の弁当は異臭がしたんだよ」

「作った本人である私も思ってた」

 私たちは柄にもなく大声で笑った。死神よ、その通りだ。私たちは死について考える時期を作ることでしか生の喜びを知り得ない。そんな生き物だ。何度だって二の舞を踏むし、愚かな失敗を積んでいく。

 それでも笑えるようになれるのだから、人間は面白いと思わないだろうか。果たしてこれも、押しつけがましいか。あなたがそう思うなら、今は、それでいいかもしれない。往々にして生まれる「死にたい」という感情を、もう少しでいいから見守っていてくれないだろうか。






おわり

誤字等ございましたら申し訳ありません。

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