第17話
日もすっかり暮れた頃、もぞもぞと布団の動く気配がした。
部屋の電気をつけると今度こそ意識を保った栞と目が合う。
「おはよ」
想像しうる限り最高のフレンドリーな笑顔をつくる。確かめようなんてないんだけど、あくまで自然さを心掛けて。
何が起きているのか分からない様子の彼女はハトのように首をあちこち動かし、ここが自分の家であることを確認した。
そして寝起きにも関わらず、今まで見たこともないほど素早く目を丸め、驚きを露わにする。
「空、ここ、なんで」
布団から半身を出して口をパクパクさせる様は、まるで尾ひれを隠す人魚みたいだった。
「とりあえず、お茶でも」
「うん。うん?」
冷蔵庫からお茶を出して渡すと、促されるまま彼女はそれを飲み干した。
これではどっちの家だか分からない。
「迎えに行くって言ったじゃん」
「そうだっけ」
ゆっくり布団から出てくる彼女の生足が視界の端で輝いた。
鼓動の高まりを悟られないよう、錆びた水道を捻るように声を出す。
「怪我のこととか話す、みたいな」
「そうだった」
よろよろと立ち上がる姿に目が釘付けになる。
もこもこ素材の寝間着と滑らかな肌とのコントラストは神秘性すら感じてしまう。
「空」
「なに?」
「着替えるから、むこう向いててほしい」
はい、ひゃい、へいが混じった不気味な返事とともに、すぐさま背中を向ける。
それとほぼ同時に生地の擦れる音がした。振り返るのが少しでも遅れていたら目に入ったのかな、とか。
私が固まっている間に栞は着替えを済ませ、放置されていた食事の残りをキッチンに持っていった。
その後、脱いだ服と布団を一緒くたにして押し入れに追いやり、座卓を部屋の真ん中に寄せる。
雑なところもあるんだなと感心していると、彼女は私と向かい合う位置にぺたんと腰を下ろした。
紺のスカートに飾り気のないブラウスと白のカーディガン。
「なんで制服?」
「これしか持ってないから」
栞は虚ろげに目を伏せ、彫刻のように固まった。
私も前傾の正座のまま口を紡ぐ。
土曜の夜が地を這うように過ぎていく。
栞とだけは向き合うって決めたんだ。これまでのこと、これからのこと。
このままでは埒が明かない。
「「あの」」
よりにもよってタイミングが重なる。
さらに肩に力が入った私を見て、栞は小さな気泡が弾けるように失笑した。
「もっとリラックスしたら?」
「だって」
寝たきりの女の子を見て気持ちが昂っていましたとは言えるはずもなく。
「心配だったんだよ! 待ち合わせをすっぽかしたと思ったら、目を開けたまま死んだみたいになってたし。何があったの」
「待ち合わせのことはごめんなさい。寝てたのは……お母さんが急に地元に帰ることになって。そのショックで動揺したんだと思う」
「いつ戻ってくるの」
「分からない。明日かもしれないし、もう会えないかも」
「大丈夫なの!?」
「別に。私は一人でも平気」
そっぽを向いた仕草が、反抗期の幼児と重なる。
口ではそう言っても、寝たきりになるぐらいだから大丈夫なはずはない。
最低限の家具に、二人並んで寝られるのがやっとな程の狭いワンルーム。父親が同居しているとは考えにくい。
お母さんがいなくなったということは、栞は一人ぼっちになるということ。
知らない土地。それも人の集まる繁華街のすぐ近く。ビルのネオンライトが肌で感じられ、時折入る隙間風には雑踏の気配が混じっていた。
「ところで、空」
感情の籠っていないその声は、都会の冷たさをも連想させた。
栞の表情に陰りが差す。
「怪我が治ったみたいでよかった。これで私も用済み」
「いや」
「今までありがとう。私にフツーの生活をさせてくれて」
「それは違う!」
感謝をしなきゃいけないのは私の方。
用済みなんかじゃない。
むしろこれから、なんだから。
「空は、安心して空の世界に帰って」
「帰らないよ。ていうか、もう帰れないかも」
「私のことなら放っておいて。一人でも平気だから」
「放っておけるわけないじゃん! これからお母さんもいないんでしょ! また倒れたらどうするの」
「必要ないって、言ってる」
家族がいなくなって、寝込むほどショックを受けて、それでも誰もいらないなんて。
意地を張って駄々をこねる子どもじゃん、こんなの。
寂しいなら寂しいって言え……ないのが栞なんだ。
「もしかして、私の世話をしたり一緒にいるのは嫌だった?」
「そんなことない!」
テーブルを叩く音と栞の悲鳴が同時に響く。
私より大きな声も出せたんだ。
耳に針を刺されるような叫喚は続く。
「空の方こそ怖かったでしょ、痛かったでしょ! 私のせいで怪我が長引いて、私のせいで空は誰とも話さなくなった。私から離れれば、もうその必要はなくなる!」
「そうだね」
怪我で自暴自棄になって、人付き合いや陸上部から逃げ出した。からっぽになった心は、いつの間にか二学期にやってきた転校生で満ちていた。
彼女のせいで私は元の生活に戻る気力を失った。いいのか悪いのか分からない。だけど、怖いくらい甘くて涼やかな彼女ともっと付き合っていたい。
「もう私に近づかないで」
さっきの勢いとは真逆の、千切れそうなぐらい細い声。
自分で肩を抱いて、追いやられた野良猫のように怯えて。
私にだけじゃない、自分にすら素直になれない。
決めた。しがみついていた当たり前から一歩だけ離れよう。
その先に、きみがいるのなら。
「……友達になろうよ」
「嫌だ。私は空を傷つけるから」
そう言って、栞は両手で耳を塞ぐ。すべてを嫌って一人の世界に沈んでいく。
身を乗り出して細い手首をこじ開けると、栞の目には涙が浮かんでいた。
願うように諭すように、言葉を届ける。
「傷ついたっていいよ。何かあったら私が責任とる。だから」
この幼い意地っ張りに、暗黙は通用しないと思った。
お世話係とか、治療だからとか、ラベルを貼って確認しようとする。普通はしないことだけど、栞が望むのならこの関係に名前をつけよう。
「友達として、そばにいてもいいかな」
両腕は掴んだまま、彼女を逃がさないように目の前で告げる。
涙が一滴落ちるのと同時に、うんと、地に落ちる雪の花よりも儚く、栞は首を縦に振った。
「私たちは友達、友達、友達。はい復唱して」
「え、あ」
「早く」
「ともだち」
嗚咽を漏らしながら、腕の力が抜けていく。
「ともだ、ちっ」
いくら涙が零れても、三回言い終えるまで放してやらない。
拭うことができず流れたままの涙が、栞のありのままを映している。
「とも、だ、ち。ぐすっ、うぅ……ぁぁ」
「うん。うん」
手を放し、すぐそばで向かい合ったまま感傷に浸る。
どうして栞は人と関わるのを嫌がるのか。
彼女のみっともないくらい泣き腫らした顔を目にした途端、その疑問は心の底に引っ込んだ。
「友達ってどうすればいいか分からないけど、頑張る、ます」
「頑張るますって、なに。ふふっ」
先の見えない、きっと普通じゃない道。
二人でいられるのなら怖くない。
「しばらく一人暮らしになるんだよね」
栞は部屋に転がっていた便箋と、カバーケースのついてないスマートフォンを手に取って見せた。
お母さんが置いていったものらしい。
手っ取り早く、番号を交換する。
「何かあったらすぐに連絡すること。いい? 私からも連絡するから。……友達なんだし」
赤く腫れた目が白い肌に映える。まるでウサギみたいだ。
こくこくと頷く彼女を見て満足した私は、部屋を後にすることにした。
「空、ありがとう」
「こちらこそ。これからもよろしくね」
去り際、右の手のひらを栞にかざし、ハイタッチを求める。
照れくさくて声は出ず口の形だけ。
首を傾げている彼女の肌に触れて、その存在を感じたい。これぐらい、いいよね。
重なった手が離れると、栞もまた目を細めていた。
初めて会った日以来、私が一番見たかった自然な笑み。
気だるげで、人が近づくと逃げていく。そんな彼女の綻ぶ顔。
この瞬間を切り取れば何億円でも売れるだろうけど、私以外の誰にも譲りたくない。
「バイバイ」
「うん、さよなら」
街灯が煌々と輝き、夜の道を照らしていた。
早速、家に帰ったら電話をかけてみよう。
歩くたびにまだ膝は痛むけれど、この痛みが私と彼女を繋いでくれたんだ。
友達、友達、友達。
心の中で反芻した。
その言葉に何か洗剤を舐めたようなほろ苦さを覚えながら、光る家路をゆっくりと進む。