プロローグ
Here I am trying to live, or rather, I am trying to teach the death within me how to live.
(私は今、生きようと努めている。というよりも、どのように生きるかを、私の中の死に教えようとしている。)
――Jean Cocteau1889 - 1963
父の生涯は苦悩や葛藤とは無縁の平凡なものでした。二十四歳の時、共通の知人を介して知り合った母、本川葉子と二年の交際期間を経て結婚し、二年後に私が生まれ、そのまた二年後には次男の啓志が生まれました。末娘の里恵が生まれた年には、木造戸建ての分譲住宅を三十年ローンで購入し、表札には家族全員の名前を入れました。夕食の時間には遅れずに帰宅し、夜十時には必ず就寝しました。タバコはハイライトを吸い、自他ともに認める下戸で――
父、道延が淡々と早口で読み上げる弔辞を、菊島雄介は親族席の最前列の下座で、じっと正面を見つめながら聞いていた。日中の最高気温が二十九度を超えた七月上旬。誰かクーラーの温度をあと二、三度下げて、風速を最速にし、風向きを最下部に設定してくれないものかと周囲を見渡しながら、菊島は静かに姿勢を正し、ワイシャツに汗が滲まぬよう背を反らしながらため息をついた。思いのほか息を強く吐いてしまったためか、向かいに座っている親族数名がこちらへ視線を向けたが、すぐに逸らした。彼らを含め、今日ここに来ている人とこれから来る人のうち、祖父の死を心の底から悲しみ、嘆いている人は一体何人いるのだろうか。ふとそんなことを考えながら、菊島は額に滲む汗を手の甲で拭った。
「おじいちゃん死んじゃったから帰ってきて。私たちはもう帰ってるから。折り返し電話ください」
三日前、姉の藍子から留守電が入っていた。電話をくれた時刻から半日経ってからようやくそのことに気付き、仕事を終えたその足で菊島は実家へ向かった。
ミシミシと趣きのある音を立てる廊下を進んで居間へ入ると、姉夫婦がテレビに映る女優の顎が整形であることを前提に、その中身は何かについて意見をぶつけ合っていた。
「いや絶対シリコンでしょ。形がそうじゃん」
「だからどう見たってプロテーゼなんだって。俺分かんだって。そういうの」
シリコンもプロテーゼもシリコンプロテーゼという名の同じ物だということを教えてやるべきかそっとしておくべきかと、思いあぐねていた菊島の肩をトンッと小さな手が叩いた。
「何突っ立ってんの。お帰り」
母、真穂が茹でたトウモロコシをこれでもかと積み上げた皿を片手に、居間へ入っていった。真穂の声に振り返った姉夫婦もようやく菊島に気付き、揃えるように微笑んだ。
「お帰り。早かったねあんた」
「ご無沙汰だよな。いつ以来?」
「半年くらいですかね」
義兄の吉川が自分の隣に座るよう促したが、菊島は「先に」と祖父の部屋を指差して居間を後にした。
祖父、泰一の部屋は一階の一番奥、物置部屋の向かいの和室だった。七年前、妻の葉子が他界し一人取り残された泰一の身を案じた真穂が、同居を頑なに渋る道延を何とか説得し、三人で暮らし始めた。生前葉子が使っていた部屋を、泰一は自分の部屋にしたいと申し出た。「好きにすればいい」とろくに歯牙にもかけない道延に、泰一は「ありがとう。世話になる」と頭を下げた。これが二人が交わした最後の会話になった。
部屋に一つだけある小さな窓から仄かに射し込む光が、泰一の鼻先を舞う埃にいたずらに生気を与えているように見えた。
畳の上に整然と敷かれた布団の上に泰一は眠っていた。傍らに座り込んだ菊島は、初めてまじまじと見る祖父の眉や睫、唇や耳を一つ一つ網膜にこれでもかと焼き付けた。やがて何故かそのそれぞれにそこはかとない狂気を感じ、恐怖を覚えた。それは目の前に眠る生きていない人間に対する違和感や不安といった情動から来るものではなく、もっと双方にとって原始的なもの、たとえば血眼になって集めた骨董にもとより宿っている魂のような、精神で呼びかけて初めて呼応する、半ばオカルトのような奇怪なものであるように思えた。
「まあ、もう八十五歳だしねえ」
振り返った菊島の視線を交わすように後ろを通って、真穂は泰一の枕元にしゃがみ込んだ。
「でも八十五には見えないよね。全然もっと若く見えるでしょ?」
祖父の頬に指先で触れながらふっと顔を上げこちらを見た母の憔悴した表情に、菊島は一瞬身を竦めた。
「……親父は?」
「二階にいる。そのうち下りてくるでしょ。ほっときな」
真穂のその投げやりな物言いの理由も、菊島には大体見当がついた。
菊島が高校に進学した辺りから、道延は泰一に対して問答無用で怒りを露にするようなった。家族四人で楽しく食卓を囲んでいても、一度誰かが泰一の名前を口にしようものなら一瞬にして顔を曇らせ、眉間に皺を寄せ、叩きつけるように箸をテーブルに置いて席を立った。理由を聞いても道延は一切答えようとはしなかった。そんな道延と泰一との板挟みになりながら、葉子亡き後どうにか二人の間を取り持とうと気を煩わせ続けた真穂の心労は計り知れなかった。何を言っても取り付く島もない道延に愛想を尽かすのは当然のことだった。
「呼んでくるよ」
菊島は立ち上がりながら真穂の肩を軽く叩いた。
「いいよほっといて。気が向いたら下りてくるから」
「気が向いたらって……」
道延が泰一を邪険に扱おうが忌み嫌おうが、そんなことは菊島にとってはどうでもよかった。というより、その理由がわからないからにはどうすることも出来ない。ただ単純に一人の純然たる人間として、実の父親の人生の幕引きすらも、うやむやにし、蔑ろにしようとする道延の態度を放っておくわけにはいかなかった。
二階へ上がってそのまま真っ直ぐ、突き当たりの左側にある部屋が道延の書斎兼寝室だった。菊島がトントンッと小気味よく数回ドアをノックすると、「んー」と間が抜けた声が返ってきた。開き戸を開けて部屋の中を覗くと、道延は机に向かって本を読んでいた。
「何してんの?」
「読んでる」
「何を?」
「大江健三郎」
「ああそう」と菊島が生返事をしてしばらく黙っていると、道延はようやく本を閉じて、体を菊島の方へ向けた。
「しばらくいられるのか?」
「うん。忌引き休暇もらったから。今週末まで」
「そうか。よろしく頼むな」
「うん。細かい作業は俺と姉ちゃんでやるから。吉川さんもいるし」
「明日は坊さんの予定が合わなくて、明後日は友引だから明々後日からになる」
「分かった……下くれば?」
菊島が苦笑を漏らしながら言うと、道延は頷きはしたものの机に向き直り再び本を読み始めた。菊島は道延の横顔をぼんやりと見つめながら言うべきことをいくつか頭に思い浮かべたが、そのどれを選び口に出してみたところで、恐らく道延には響くことはおろか届きすらしないだろうと思い、静かにそっとドアを閉めた。
外の喫煙所で一服していると、吉川が隣にやってきてタバコに火をつけた。
「雨降ってないよね?」
「降るって言ってましたけどね予報では。どうなんでしょうね」
菊島は二本目のタバコに火をつけ、空へ向けて煙を真っ直ぐ煙を吐き出した。
「何本くらい吸うの?一日」
「うーん……まあ日によりますけど休みの日は怖いですね。やることないととりあえず吸っちゃう感じなんで」
「あーそうそう。俺もそう」
「でもかといって吸えないなら吸えないで別段どうってこともないんですよね。イライラしたりもしないですし。仕事してるのが一番ですよやっぱり」
「いや、でも俺はちょっとイライラしちゃう。結構イライラしちゃう」
「ああ……まあ個人差はありますよね」
「そうかね?そんなに差はないと思うけどね。絶対イライラしてるよ雄介君も」
「うん、まあ……かもしれないですね」
「絶対そう。断言するよ俺は」
そう言って引き笑いをしながらタバコを吸う吉川の隣で菊島は、この男にとって会話とはあくまで表現や伝達の手段に過ぎないのだろうが、それがあまりにも素直というか質実というか、もっと豊かなやりとりをしようとは思わないのだろうかと心から疑問に思った。
右の頬に一滴、続けて鼻先に一滴と雨粒が落ちてきた。
「何だよ。結局降んのかよ」
そう呟くと吉川は「傘持ってきてねえんだよな」と舌打ちをしてタバコの火を灰皿で消し、葬儀場の中へと入って行った。
吉川の後を追うように喪服の男が一人、菊島の横を通り過ぎて行った。知らぬうちに突然現れたその男に菊島は一瞬びくりと肩を強張らせながら、とぼとぼと入り口へ向かっていく男の背中をじっと見つめた。
「菊島雄介さんですよね?」
菊島の視線に応えるかのように、男は立ち止まってくるりと振り返り、おもむろに菊島と目を合わせた。
「はい。あの……」
「このたびは誠にご愁傷様でございます。生前お祖父様には大変お世話になりました」
道延と同年代と思しい男は深々と頭を下げながら消え入るような声で言った。
「ごめんなさい、失礼でなければお名前をうかがってもよろしいですか?」
「あっ申し訳ありません。申し遅れました、私……」
「何やってんだよお前」
菊島が声のした方を見ると、道延が入り口の前に立ってこちらを見ていた。男は道延に背を向けたまま、じっと菊島を見つめていた。
「息子に何の用だよ」
「木崎充彦と申します」
「話しかけるな息子に。何しに来たんだよ」
木崎充彦と名乗る男は、垂れ下がった八の字眉に押しつぶされそうな腫れぼったい二重瞼をぱちくりさせながら、ゆっくりと道延の方を振り返った。道延は周囲に集まり始めた親族たちには目もくれず、仁王立ちしたまま木崎を睨み続けていた。
「お焼香だけでもさせていただけないものかと」
「ふざけんな。帰れ」
「あの……じゃあせめて、こちら……」
木崎が喪服の内ポケットから差し出した香典袋を、道延は駆け足で階段を下りてきて奪い取り地面に放り投げた。
「帰れって言ってんだ」
「ご迷惑なのは重々承知しております。ただ、泰一さんには……」
木崎が道延の元へ歩み寄ろうと階段に足をかけた瞬間、道延の後ろから現れた人影が木崎を思い切り地面へ突き飛ばした。倒れ込んだ木崎が顔を上げると、弟の啓志が兄道延を守るように目の前に立ちはだかっていた。
「菊島……」
「黙れ。黙って帰れ。兄貴が本気で怒る前に」
「違うんだよ。本当に俺はただ……」
何か言おうとしながら立ち上がった木崎の胸倉を、啓志は素早く掴んで自分の元へ引き寄せた。そして木崎にしか聞こえないほどの小さな声で何かを囁いた。木崎は一瞬啓志の顔をじっと見てから数回小刻みに頷き、道延と周囲の親族たちにペコリペコリと何度も頭を下げた。
自分の目の前を通り過ぎながら、「いずれまた」と一言呟いて去って行った木崎の後ろ姿を、菊島はただ呆然と見送るしかなかった。