黄色い花4
食堂の窓を開け放った。
雲が厚く垂れ込め、月のない夜。今夜は闇が深い。
アリョークは窓の外に溶け込むような色をした自分の髪を後ろに払うと、紐で一つにまとめて結わえた。桶に汲んできた水に布を浸し、絞る。それで鼻から下を覆い、後頭部で縛った。少し呼吸が苦しいが、背に腹は代えられない。完全に防御態勢をとったアリョークは、火を熾したかまどに薬鍋をかけた。
食卓に載った、二つの瓶。もちろんルキウスが持ってきたものだ。その片割れを取り上げて栓を開け、アリョークは思い切って中身を鍋の中にぶちまけた。さっと身を引き、火から離れる。
鍋の中の液体が沸き立ち、薄く濁った白煙が細く上がりはじめる。目に弱い、しかし確かな刺激を感じ、アリョークは眉を顰めて顔を背けた。
元々液体の状態で存在する毒物は、数が非常に少ない。大抵の毒の常態は固体で、粉末にして食べ物に混ぜたり、水溶性があれば飲み物や水に溶かしたりして用いられる。恐らく、これは後者だ。
そう踏んだアリョークは、預かり物の薬品の水分を飛ばすために火にかけた。いきなり丸々一本使い切るのには勇気がいったが、他に方法がなかった。皇子に対する効き目の弱さから、この薬品はそう濃度が高いものだとは思えなかったのだ。ある程度の量を火にかけなければ、まともに分析できるほどの量の固体は得られまい。
明かりに釣られて窓から入り込んできた羽虫が、煙にあてられ、力なく落ちて行く。アリョークは、虫たちがぽとり、ぽとりと火の中に落ちて行くのを、なんともいえない気持ちで見守った。
どうして虫は火にひき付けられるのだろう。わざわざ寄って来たところで、腹が満たされるわけでも何でもないというのに。何か理由があっての行動なのだろうか。
(炎が綺麗だから、とか?)
それとも、そのすべてを燃やし尽くす力強さに惹かれるのだろうか。自分だって焼き尽くされてしまうのに。
大きく揺らぎながら燃え盛るかまどの火を見ながら、唐突にアリョークは最も思い出したくない人物のことを頭に浮かべた。燃え立つような、見事な赤毛の男。ぶんぶんと首を振って不吉な考えを追い払うより先に、またふらりとやって来た虫が、火の前にむなしく羽を落とす。その哀れな姿に思わず自らを重ねてしまい、彼女は更に激しく首を振った。
(なんて連想だ。まったく、縁起でもない)
もう二度と、あの酷薄な皇子の顔を見たくない。
そう考えながらも、実は、アリョークはあっさりルキウスを帰してしまったことを悔やんでいた。彼が去ってから、毒を喰らった本人にもう少し話を聞いておけば良かったと思い当たったのだ。彼を看病したのはアリョーク自身なのだが、せいぜい全身の筋肉が本人の意思に反して弛緩していたことぐらいしか把握していない。
矢が刺さってから、どのくらいの時間を経て体が痺れはじめたのか。
体が動かない他に、何か別の症状が――例えば頭痛が酷かったとか、眠気がしただとかいう異状が――なかったか。
詳細な薬理が知れれば、薬品の同定も、ぐっと楽になる。
一瞬、彼のもとに魔法で小鳥を飛ばしてその質問を届けさせようかとも考えたが、彼女はすぐに自分の思いつきを打ち消した。
(無駄だ)
この賭けを明らかに面白がっているあの皇子が、アリョークを有利にするような助言を与えるはずがない。
「ちくしょう、あの性悪男め……今に見てろよ」
思わぬ事故が起こったのは、アリョークが濡らした防毒布の下でぶつくさと悪態をついていた、その時だった。
突然、窓の外から、動物のかん高い鳴き声が聞こえた。何事かと目をやる。黒い塊が、窓から飛び込んでくるのが見えた。
(ムササビだ!)
どう判断を誤ったものか、このネズミによく似た小さな生き物は、滑空しながらアリョークの家に突っ込んで来てしまったのだった。そのまま、天井近くの宙を滑るように飛んで行く。……鍋から上がる、白煙の方へ。
(まずい!)
小動物は体が小柄な分、人間やその他の大きな生き物と比べて、毒が早く回りやすい。おまけに、ずっと少ない毒量で死んでしまう。
このままでは、毒煙に巻かれて命を落としかねない。
アリョークはうろたえて立ち上がり、近くにあった箒を引っ掴んだ。離れていた鍋の傍に駆け寄る。顔を覆う布を引き下げ、大声を出した。
「こらっ、出てけっ、危ない!」
慌てて穂先を突き上げ、左右に振り回す。屋根に近い位置を飛んでいたムササビは、予想外の襲撃に驚いて、ぐるぐると逃げ回った。
「ほら、死んじゃうよ! 出てけってば!」
アリョークの必死の叫びが通じたのかそうでないのか、ムササビは元来た窓を通って逃げて行った。ほっと息をついた、その瞬間。
「うっ……」
アリョークの喉の奥が、焼け付くように痛んだ。ぎくりと口を押さえて身を翻す。もうもうと鍋から上がる白煙が、予想していたよりもずっと近くにあった。
(やばい、吸った!)
アリョークは倒れ込むように床に置いた桶に駆け寄った。こぼれるのも構わず、手で目一杯すくい上げる。それを口の中に流し込むと、指を自分の喉の奥に突っ込んで、その場で無理矢理吐いた。
吸ってしまった毒は、本格的に体内に取り込まれる前に吐いて洗い流すしかない。だが、次の瞬間、アリョークは、鼻の粘膜もがひりつくことに気付いた。鼻からも吸ってしまったようだ。はやくも頭がぐらぐらと揺らぎはじめる。アリョークの予想を遥かに超える即効性。とっさの応急処置は間に合わなかった。
(火を、消さなければ)
まず考えたのはそのことだった。短く呪文を唱える。途端にかまどの火が、じゅっと音を立てて消えた。しかし、彼女の気力もそこまでだった。それを最後に膝をつき、自分が魔法で穴を空けてしまった床にくずおれる。呻きながら、ごろりと転がってなんとか仰向けになった。
(ああ、もう、ドジすぎる……)
アリョークは自分の間抜けぶりを呪ったが、同時に冷静な頭で考えた。命まで取られることはあるまい、と。
同じ毒を喰らったルキウスの症状とて、大した物ではなかったのだ。ましてや、アリョークは薬を扱い続けているために、毒物に対する耐性がついている。火は無事に消し止めたことだし、体の自由が利かないうちに火事が発生し、なす術もなく丸焼きにされることもない。
約束の日までの時間を棒に振るのは手痛いが、仕方あるまい。この際だから、はっきりしなかったこの薬品の薬理の判定試験を、自分の体を使ってやっているだけだと思うことにしよう。
そう自分を慰めながら、アリョークは荒い息を吐いた。
いよいよ毒が廻りはじめたのだろう、目が翳んできた。アリョークは額を片手で押さえながら、天井を見上げた。
そこに、虹が見えた。
アリョークはあり得ない光景に息を飲んだ。屋根があったはずの天井が、ぽかりと雲の浮く青空へと取って変わっている。
(いま、夜じゃ、なかったっけ……)
動きが鈍りはじめた頭で考える。
その考えを笑い飛ばすかのように、黄金色の太陽が燦々と輝いている。同じ色の光の柱が、彼女の体を暖かく包み込んでいた。その太陽をぐるりと囲んで飾る、七色の虹の王冠。他にいくつもの虹の環が浮かんでいる。
頭がくらくらする。体がふわふわと浮いているようだ。
(きもち、いい……)
目の眩むような恍惚感に、アリョークは瞼を震わせた。
アリョークはゆっくりと視線を巡らせた。床に空いた穴から、むくむくと草――アリョークが昼間に魔法で咲かせ、あっという間に萎ませてしまった、あの花だ――が生えてくる。あっという間に背を伸ばした野草は、宙でとびきり大きなつぼみをつけた。もし満開になったなら、アリョークの家の食堂を半分以上覆ってしまいそうな大きさだ。その黄色い花びらが、天に向かってゆっくりとほころんでいく。
「やあ、アリョーク」
懐かしい声に、アリョークは目を見張った。
開いた花の上に腰掛け、花弁の隙間から足を投げ出した人物。アリョークと同じような長衣を身につけた、優しげな風貌の若い男が、手を膝の上に組んで黄色い花の上から彼女を見下ろしていた。アリョークはよく知っていた。男がその外見通り慈悲深く穏やかで、しかし見た目よりも遥かに長生きしていた人物だということを。
(師匠……!)
泣きたいような気持ちで、アリョークは唇を震わせた。口がうまく動かない。本当なら今すぐにでも駆け寄りたいというのに。
(生きていたのですか)
アリョークの師匠は、弟子の声なき声を拾って、黙ったまま微笑んだ。アリョークも、同じ顔をして微笑んだ。笑うということを教えてくれたのは、この人だ。彼はアリョークに、あたたかいものをたくさん分け与えてくれた。
(師匠、お変わりはありませんか)
アリョークは訊ねた。彼は温和な表情で頷いた。
「私はこの通り、昔と同じだ。……でも、おまえは違うようだね」
(え?)
アリョークの師匠であった魔法使いは、静かな声で続けた。
「可哀想なアリョーク。おまえは奴隷に逆戻りかい?」
アリョークははっと息を飲んだ。自分の体を見下ろす。自分でも気づかないうちに立ち上がっていたアリョークは、自らが子供の姿に戻っていることに驚愕した。長い髪は短くざんばらに切られ、質素だが清潔だった綿の着物は、麻袋と同じような素材の、粗末で汚れた服に変わっていた。
「どうして」
狼狽して身を揺らした瞬間、足元で金属が擦れる音が聞こえた。震えながら、下を見おろす。牛馬の首に填められるものと同じ、鉄の輪が足首を捕らえていた。奴隷の証である枷。
突然そこに繋がる鎖を引かれ、アリョークは悲鳴を上げてよろけた。しかし、すぐさま彼女はその悲鳴を飲み込んだ。
アリョークが引かれる先には、深い闇。泥のように濃い暗がりを裂いて、その力を誇るように、また無力な生き物を嘲笑うかのように、巨大な炎が燃えている。熱い火の粉が頬をかすめ、アリョークが忘れていた恐怖を沸き立たせた。
「いやだ!」
死に物狂いに暴れて抗った。もうあそこには戻りたくない。戻りたくないのだ。
しかし、更に強い力で足枷を引かれる。アリョークは抵抗の甲斐もなく倒れた。そのまま、得体の知れない力にずるずると引きずられていく。
アリョークは天に向かって手を伸ばした。見上げたアリョークの師匠は、悲しげな顔で彼女を見ていた。だが、手は届かない。もう助けを乞うことはできないのだ。
(師匠は、死んでしまったんだ)
とうに分かっていたはずの事実に、アリョークの抵抗が折れそうになる。それでも歯を食いしばって、床に爪を立てた。足枷が肌に食い込む。どんどん体は炎の方へと引き寄せられる。アリョークは、必死の思いで自分が魔法で開けてしまった穴に指をかけた。しかし、やがて耐えかねた片手が滑って外れる。もがきながら手を伸ばすと、指が届いたのは、あの黄色い花の茎だった。横に引かれた花が、アリョークの力で大きくたわむ。だんだんと根が浮いてくる。
ぶつり、という音と共に、アリョークは世界がひっくり返るのを感じた。
++++++++++
ぬるいものが目頭を伝い、鼻筋の横を流れる。その濡れた感覚に、アリョークは自分が泣いていることに気づいた。
いつの間にか、床にうつ伏せになっていた。身をわずかに起こし、手の中にあるものを見つめる。小さな黄色い花をつけた野草が、根ごと手のひらの中に収まっていた。指先が、細かく震えた。
「あ……、」
唇からため息のような声が漏れた。まだ感覚が遠い。
(でも、なんとか動ける)
アリョークはゆっくりと体を起こし、床に座り込んだ姿勢で空を見上げた。
そこにはもう、青い空も、虹も、かつての師匠の姿もなかった。悪夢のような炎も見えない。ただ、以前と同じく、石造りの円屋根がそこにあるだけだ。
幻を、見ていたのだった。
あの薬には、幻覚作用があったのだ。
窓から朝日が差し込み、森の家の部屋を照らしていた。ぼんやりと何もない天井を見上げていたアリョークは、その光に我に返る。薬を吸ってしまったのは、確かに夜の入りの頃だった。ほんの半刻ほどしか経っていないように感じるのに、もう半日以上の時が過ぎていたのだった。
(まさか……まさか、あの薬は)
逸る心を抑えきれず、アリョークは壁にすがって立ち上がった。
筋肉を弛緩させる。
少量でも効果がある。しかし、命を奪うほどの効力はない。
そして、精神的高揚と幻覚体験をもたらす。
その薬理によく似た効能を持つ薬品を、アリョークはよく知っていた。
よろめきながら、とっくに熱を失ったかまどの鍋を覗き込む。
……思った通り、そこには白と微黄色の混じり合った、塩のような結晶が残っていた。
確信はあった。だが、信じたくはなかった。
「どうして……どうして、これがこの国に」
茫然と呟いた彼女の頬を、目尻に溜まった幻の名残のような涙が一粒、滑って行った。