黄色い花3
ルキウスから手の中のものを受取ったアリョークは、怪訝な顔で小瓶を傾けた。中に入った液体がゆらゆらと揺れる。瓶の口にはきつく栓がされた上に、気化を防ぐための布でしっかりと覆われていた。
「薬品、ですか」
ここまで堅く蓋をしてあるのだ、ただの水ではあるまい。そう思って鼻をすすりながら訊くと、皇子は鷹揚に頷いた。
「毒だ」
「毒?」
「この前襲撃してきた奴らが持っていた。お前が捕らえたあの男たちだ」
アリョークは「ああ」と声を上げた。
「もしかして、あのときの矢に塗られていたものは、これですか」
先日アリョークに拾われた際に、ルキウスはその背に矢を喰らっていた。鏃に毒となる薬が塗られてたらしく、彼はしばらくまともに動くことができなかった。症状からそう強い毒ではないと判断し、自然に体から抜けきるまで特に処置はしなかった、のだが。
「これが、どうかなさいましたか?」
持ち上げた瓶を透かすように日にかざす。口は厳重に塞がれているものの、瓶自体はごく普通の透明な硝子製だ。茶や青に染められた遮光瓶ではない。
(直射日光で劣化する類のものではないみたいね)
魔法使いというより薬師として飯を食っているアリョークは、反射的にそう考えた。
「それがなんだか分かるか」
「いいえ、見た目だけではなんとも……」
液体状で毒性を持つ、という特徴だけでは、数ある薬品の中から一つを絞り出すことはできない。それにこの液体は一見無色透明に見えるが、もしかすると有色の固形物が、目では判断できぬほどの低い濃度で溶け込んでいるだけかも知れないのだ。この毒を受けたルキウスの反応はごく弱いものだったから、それも充分考えられる。外見だけで判断するのは危険だ。
アリョークは瓶を机の上に置き、鼻をかんでから訊ねた。
「それで、これはなんの薬品だったのですか?」
「分からん」
「え……」
「宮廷の薬師に調べさせてみたが、分からなかった。未知の薬品ではないかなどと抜かしおった」
「皇家御用達の薬師殿でも、ですか」
アリョークはそれは厄介な、と呟いた。
皇族の健康状態を担う宮廷お抱えの薬師ならば、医師と肩並んでかなり重要な仕事のはずだ。国内選りすぐりの人材が揃っているのだろうと思うのだが、その彼らでも分からなかったというのか。
「捕らえた奴らも、知らんと言い張っていた。依頼を仲介した人間に、使いたければ使えと渡されただけだと。本当に知らなかったようだな、結局その毒については何も吐かなかった」
その一言だけで、アリョークは暗殺者たちが辿った運命を悟り、目を伏せた。自分の命を狙った連中とはいえ、今となっては、その悲惨であったであろう最期が哀れだった。
「だが、依頼人については、時間がかかったが突き止めることが出来た。西の、つまらぬ伯爵家だ。一族全員まとめて処分した」
「……ええ、お噂は聞いております」
アリョークは頷きながら、自分の体温がさらにぐんと下がるのを感じた。
つい最近、アリョークの目の前にいる男は、とある地方貴族を討った。「謀反の疑い有り」とのことで、彼らは裁判にかけられることさえなく、ルキウス皇子の率いる兵士たちの剣の餌食となった。一族のものは老若男女問わず、根こそぎ討たれたらしい。
その話を耳にして、アリョークは理解した。
これは報復だ。先日の暗殺未遂は、きっと彼らの仕業だったのだ。放った矢が十倍にも百倍にもなって帰って来たことに、彼らは死の直前さぞかし後悔したことだろう。野心に駆られた彼らの自業自得とはいえ、ねずみの子一匹たりとも残さないその徹底したやり方には、背筋が寒くなるものがあった。
この静かな生活が崩されぬよう、生還した皇子には、暗殺者を謀ったものたちを叩き潰してほしい。
保身のためにそう願ったのは間違いなく自分なのに、その話を知ったときは、震えが止まらなかった。
アリョークは自分の体をきつく抱いて、罪悪感からその身を守ろうとした。
顔色の変わった魔法使いに気付かず――また気付いたところで気にもかけないだろうが――皇子は相変わらず不機嫌な様子で話を続けた。
「そいつらについてはもう良いのだがな、どうもしっくり来ない点がある」
「と、おっしゃいますと……」
ルキウスは長靴に包まれた足を組み直した。
「件の貴族は、特に主義主張を持たぬ連中だった。おれについても、自家に害を為さないのなら黙って日和見していようと思っていたはずだ」
「つまり……皇位の継承問題については、中立派だった、ということですか」
「そうだ」
皇子はアリョークの言葉に頷いた。
近年病に伏せることが多くなった皇帝の次の座を巡り、クトルリアでは三人の人物の名が囁かれている。
まず最有力候補だと言われているのが、皇位継承権第一位を持つ皇太子。皇帝と既に他界した正妃の間に生まれた唯一の男児で、ルキウスから見ると十歳以上年上の兄である。特に秀でたところはないが、穏やかな性格と勤勉さで知られる皇太子は、腐敗の著しい国内の政治において良い手を打ってくれるのではと、人々の間ではおおむね好意的に語られている。このまま何事も起こらずに行けば、次の玉座に腰を落ち着けるのは彼だ。
続いて、現皇帝の弟である、西の公爵。その若さと経験不足で不安を残す皇太子に対し、長年皇領に次ぐ広さを誇る領地を治めている功績が高く評価されている。特に、紛争の絶えなかった西の国境付近を平定したという点において、貴族の多くが彼を支持している。表立っては何も言わないが、甥が皇太子として擁立されてからも継承権を放棄していないあたりに、その野心と自信のほどを匂わせている。腐敗政治の温床を作っているという批判もあるが、異国とのつながりの深さも、彼を無視できない理由の一つだ。
そして、最期のもう一人、一番最近に台頭してきた三人目こそが、他ならぬルキウス皇子である。
生まれは妾腹。母親は妃の中で最も位の低い女だった。皇帝には四人の息子がおり、その中で一番の年少が彼である。血筋から考えても年功から考えても、この皇子は本来ならば到底玉座に手の届くはずのない存在であった。
だが、彼は大人しくどこかの地を拝領してそこで一生を終えるような、当たり前の皇子ではなかった。
十代前半から戦場を駆け回っていた彼は、少しずつ少しずつ、剣の刃を研ぐような根気づよさと注意深さで、私兵を集めていった。温厚な皇太子に不満や不安を覚えている武闘派の貴族を傘下に置き、皇帝や他の者が気付いた時には、ルキウスは国内で最も強力な軍の長となっていた。
焦った皇帝は彼の力を削ろうとあちこちへ遠征を命じたが、どこへ向かわせようとルキウスは勝利をもぎ取ってきた。手段を選ばず、女子供であろうと殺し尽くす。彼の進む道には、必ずのたくったような血の痕が残った。
皇太子とルキウスの間に居た二人の皇子は、ここ二、三年で揃って謎の死を遂げた。どちらも一応は事故死として片付けられたが、そんな発表を信じている者は一人としていない。誰もが心の中では思っている。
……ルキウス皇子が、二人の兄皇子たちを弑したのだ。
それでも、それを口に出せる者はいない。ルキウス皇子の武力は隣国との国境争いの絶えないクトルリアには必要不可欠なものだ。万が一彼の軍と、皇帝直属の軍がぶつかれば、どちらが勝つにせよ、国内では大きな混乱と打撃が予想される。その隙をよその国が見逃すはずもない。
こうして、誰も末皇子の暴走を諌めることのできないまま、現在の膠着状態へと陥っているのだった。
前回の暗殺騒ぎは、それに一石を投じようとの狙いだったのだろう。だが、一介の地方貴族が、己一人でそのような大それたことを企むとは考えにくい。
「誰かに、ほのめかされてのはかりごと。そういうことでしょうか」
恐らくは、伯爵よりも強い力を持つ者に。皇子は黙って頷いた。
ルキウスは椅子から身を乗り出すと、机の上の小瓶を持ち上げた。それをじっと睨みつける。
「しかし、証拠は何もない。捕らえようとした例の伯爵は自害し、家屋敷は燃え尽きた。手がかりもろくに残らなかった」
「それは……随分と、徹底していますね」
皇子の話し振りから、鈍いアリョークもやっと陰謀の影を感じはじめた。トカゲが尾を切って逃げたような印象を受ける。
「ただ、な。死んだ伯爵が――奴は唯一燃えなかった地下室で果てていたのだが――彼奴の遺体を調べてみたところ、やはりこれと同じものを持っていたのだ」
皇子はそう言うと、小瓶を置いて、懐からもう一本、別の瓶を取り出した。
手渡された瓶を受け取り、アリョークは首を傾げた。
「確かに同じもの、ですね。少なくとも、見た目は」
それは、最初にルキウスが出してきたものと、そっくり同じ小瓶だった。形も大きさも、口を覆う布まで一緒だ。中の液体も、前の物と同じく無色透明である。
「つまり、刺客に手渡された毒は、伯爵自ら仕入れた物だった、ということだ。おれはここに引っかかるものを感じる」
「? なぜです?」
暗殺の依頼者と、毒薬の提供者が一緒だった。何も不自然なことは無いではないか。そう言外に滲ませて聞き返したアリョークに対して、ルキウスは唐突に足を上げ、卓上にどん、と乗り上げさせた。逆鱗に触れてしまったのかと震え上がるアリョークの前で、皇子は長靴を片方脱いで放り投げたかと思うと、下衣の裾をまくり上げた。
「これを見てみろ」
身をすくませていた目を閉じてアリョークは、その声に薄く瞼を持ち上げた。食卓の上に堂々と乗せられた、ルキウスの裸足。その節くれ立った外側の踝から、筋肉が厚く乗った脹ら脛まで、尊い身分にはふさわしくない刺青が入っていた。恐らくはたくし上げられた裾の下、太ももにまでも続いている、赤い文字の羅列。
「古代文字……西の呪術ですか、これは」
「分かるのか」
「ええ、ええ、分かりますとも!」
アリョークは好奇心と興奮に我を忘れ、皇子の足に気安く指を掛けた。
「本で何度も読んだことがあります。私たち魔法使いとは、全く別の方法の術を用いるとか。特に刺青に念をこめた呪術は、それを刻まれた者が死ぬまで効力を持つそうですね。私にはとても真似できない、高度な技術です。わぁ、すごい、本物を初めて見た!」
「……おい、触るな」
「あ、も、申し訳ありません」
「一応女のくせに、お前には恥じらいというものがないのか」
皇子の憮然とした声に、アリョークは慌てて指を引っ込めた。が、頭を出した好奇心はまだ引っ込まない。控えめな声で訊ねずにはいられなかった。
「これには、どんな術が込められているのですか」
ルキウスはアリョークを煙たげに見ながら足を下ろし、裾を引き下げて靴ひもを結びはじめた。
(ああ、もうちょっと見たい……)
アリョークは名残惜しく彼の足を盗み見たが、さすがにまだ見たいなどと言える勇気はなかった。
「これは、毒を喰らう印だ。一度飲んだ毒を耐えきれば、次回から二度と効かないようになる」
「はあー……」
アリョークは感嘆のため息をついた。魔法にも解毒の術はあるが、そのように半永久的な効き目を保つものはない。
「素晴らしいですね、それは」
「以前西に遠征したときに会った呪術師に刻ませた。それから手当たり次第毒を飲んで、もうおれに効く毒はないと思っていたのだが」
「え! で、では」
自分のことでもないのに、魔法使いは泣きそうな顔になった。
「その呪術が解けてしまった、ということでしょうか……」
「言っただろう、この毒は未知のものではないかと言われたと」
「あっ」
そうだった。宮廷の優秀な薬師たちの判断では、不明の薬品との見解だったのだ。
「つまりこの毒を持ち出した人物は、おれに当たり前の毒が効かないことを把握していたわけだ。この刺青については、可能な限り隠している。伯爵がそれほどの情報筋を掴んでいたとは考えられん」
「で、では、一体誰が……」
「父か、兄の手の者か……いや、叔父も怪しいな」
彼は憤りすらせず、冷静にそう答えた。
淡々と話す皇子を眺めながら、アリョークは考えずにはいられなかった。身内から命を狙われるというのはどんな心持ちになるものなのだろう、と。初めから身内も何もいなかったアリョークには到底分からない、その気持ち。だが、そんな同情めいた感傷はすぐにかき消えた。彼もまた、親兄弟の命を狙っているのに違いないのだ。アリョークは気を取り直して姿勢を正した。
「とにかく、おれはこの薬が何なのか知りたい。薬の材料によっては、採取される地域が限定されるだろう」
「はあ、そうですね。例えばオルシュの丸薬などは、オルシュ地方の薬草がなければ作れませんし」
「この薬の生産地が知れれば、黒幕の糸口が掴めるかも知れん」
随分と遠回りな話だが、間違いではない。アリョークは恐る恐る頷いた。
「そこで、だ。魔法使い。……さっき賭けをすると言ったな」
「は、はい」
「これの成分を突き止めろ。二週間以内に」
「え」
アリョークは硬直した。
「おれはお前が失敗する方に賭ける。その場合はここから連れ出して……そうだな、おれの部下にでも下げ渡してやるか。お前の毛色は珍しいから、その小賢しい口をきけぬようにしてやれば案外喜ばれるかも知れん」
茫然としているアリョークに、彼はさらに追い打ちをかけた。
「成功すれば、お前の勝ちだ。外に出すことは諦めてやる。この期に及んでこの森に隠れたり立てこもろうなどと思うなよ、次のおとないに応えなければ、おれの部下を総動員して、お前を炙り出すまで森を焼くからな」
「な、なんで……?」
あまりのことに、冷や汗が流れはじめる。動機が激しくなる。アリョークは小さく喘ぎながら訊ねた。
「どうして、そんなことをなさるのです。私のような取るに足らない者のことなど、放っておいて下されば良いでしょう」
ルキウスは涙目の彼女をせせら笑った。
「虫けらが足掻くを見るのも一興だ」
その一言に、アリョークは屈辱的なものを感じた。かつての日常を思い出す。自分は低次の生き物なのだと信じ込まされていた頃。
アリョークは震える膝を掴み、唇を噛み締めた。自分は弱い。魔法を持ってしても、暗殺者たちを倒したときのように入念な下準備がなければ、この男には叶わない。それでも皇子の手を逃れ、この森を捨てるなどとは考えられなかった。
賭けに乗って勝つ以外に、平穏な道は残されていない。
アリョークは顔を上げた。
「二週間で、ですか」
「短いか」
「ええ、とても」
「では半月、明日から十五日間に増やしてやろう」
「で、殿下……1日しか増えておりませんが」
「ほう……これ以上、このおれに譲歩しろ、と?」
皇子は腰を浮かせると、食卓越しに手を伸ばして彼女の顎に指をかけた。
「随分と偉くなったものだな、魔法使い。お前はおれの忍耐力を試しているのか? それとも、今すぐここから連れ出されたいのか?」
ルキウスは薄ら笑いを浮かべながら言った。その目が全く笑っていないのに気付き、アリョークはぶんぶんと全力で首を横に振った。
「……殿下のご慈悲に、感謝します……」
ルキウスはにっこりと笑うと(一見好青年といった風の笑みだったが、アリョークは心底胡散臭いと思った)、速やかに立ち上がって襟を正し、身支度を整えた。
「では、十五日後に」
彼はそう言い残すと、さっさと玄関に向かって出て行った。やがて鞭の音が聞こえ、アリョークはびくりと身を縮ませた。馬のいななきと共に蹄の音が鳴り響き、だんだんと遠くなっていく。
残されたのは、茫然と椅子に座り込むアリョークと、卓に乗った茶の道具、そして……ルキウスが置いていった、二つの小瓶。
「………………ああーーーー、もう!」
アリョークは絶叫すると、荒々しく小瓶を掴んだ。
(絶対、完璧にこれを分析してやる!)
彼女は猛然と廊下に続く扉を押し開き、自室へと駆け込んでいった。