赤の皇子5
夢を見た。
昔の夢だ。アリョークがまだ幼く、小さく、そして無力だった頃の夢。
ぶよぶよした脂肪のついた手を持った男が、少女の細い胸倉を掴み上げる。
粗末な綿の服がきしみ、傷つき薄汚れた肌に食い込んだ。痩せぎすの足が宙でぶらぶらと揺れる。
男が一発、二発と彼女の頬を打った。じいんと沁みる痛みが、耳のあたりまで響く。男が何か怒鳴っているが、アリョークにはよく聞こえない。
(早く終わらないかなぁ)
ぼんやりとした頭で考えた。なぜ殴られているのかも分からない。男はアリョークが済ませた仕事の出来具合に不満を持ったのかもしれないし、ただ単に虫の居所が悪いところにやって来た子供を八つ当たりの的にしているだけかもしれない。
彼らが気まぐれに殴打を行う理由は星の数ほどあり、その回数も数えきれないほどあった。
まだアリョークには仕事がたくさん残っている。農園の麦を刈り取るのを手伝った後は、小屋で腹を空かせている馬たちの餌を用意しなければならない。遅れれば、また別の大人の殴打が待っている。
しばらく叫びながら彼女を揺さぶった後、男は蔑んだ目で小さな体を放り捨てた。
どさりと地に倒れる。ぬかるんだ泥が、汚れた小さな顔をさらにくすませた。
今日は運がいい、たった二発で済んだと、アリョークは地に伏せたまま、男に見つからないように安堵の息をついた。
体は痛いけれど、いつまでも倒れているわけにはいかない。すぐに仕事に戻らないと酷い目に遭わされる。アリョークは近くにあった農園の柵に掴まり、やせっぽっちの足で立ち上がった。
「あ……」
柵の向こうに見えた景色に、アリョークはため息をついた。
雨が上がった空に、虹がかかっている。
(きれい)
今日は本当についている日だ。
彼女は初めて聞いたときから何度も何度も頭の中で繰り返しているすてきなお話を思い出した。
(雨上がりにかかる、七つの色の虹のふもとには……)
++++++++++
浅い眠りの中で寝返りを打ったアリョークは、鈍い痛みで目を覚ました。
「つ……」
まだ意識の片隅を夢路に残したまま、ゆっくりとシーツから這い出す。
そっと後頭部に触れると、見事に膨らんだこぶが指にさわった。痛むのはこぶだけではない、身体中が疲労を訴え、みしみしと悲鳴を上げている。
(あれ、なんでこんなに調子悪いんだろ……昨日、何かしたっけ)
もやが晴れない頭でアリョークはぼんやりと考え……そして全て思い出した。
二つの死体。黒馬。泉のほとりに倒れた男。聞きたくもなかった告白。白金の指輪。暗殺者たちの襲撃。松明を掲げた皇子。
記憶が甦るのと同時に、がばりと身を起こした。
「あ、いたたたた……」
急に動いたせいで、未だ回復しきらない身体が軋んだ音を立てる。アリョークは油の切れた蝶つがいのように堅くなった肩の間接を揉みほぐしながら、周囲を見回した。
古くて頑丈な寝台。飴色の机と椅子。雑貨を詰め込んだ物入れ。どれも前から家に置いてあるばかりのもので、ここは間違いなく森の家のアリョークの部屋だ。
(わたし、どうしてここで寝てるんだろ)
皇子と彼の馬と一緒に、外の小屋で眠り込んだのが、彼女の最後の記憶だ。家に移動した記憶も、部屋を片付けた記憶もなければ、体を清めて着替えた覚えもない。
(まさか、全部夢だったとか……)
だが、その部屋には先に起こった災難が夢でない証拠がしっかりと刻まれていた。
椅子の座面には敵の魔法使いが空けた穴が開いているし、壁にはいろんな大きさの矢傷、刀傷がついている。とどめに、大きな木の扉には、皇子の大剣が食い込んでできた隙間が残っていた。
鎧戸のついた窓から、柔らかい光が注いでいる。アリョークはその光が既に昼の色を帯びていることに気付いた。
どうやら、あの襲撃の夜からかなり時間が経っているらしい。
アリョークは自分の無事を確かめるように、自らの頬にそっと触れた。
「いたっ」
思わず手を引っ込める。あの暗殺者に殴られた頬だけでなく、なぜか反対側の頬も熱を持っていた。こちらは特に傷つけた記憶がなく、アリョークは酷く混乱させられた。一体何がどうなっているのか。
そのとき、部屋の扉が穏やかに軋んで開いた。
「おや、起きられたのか」
見たことのない壮年の男が現れ、アリョークは身構えた。娘の緊張を見て取って、男は慌てて説明をした。
「落ち着きなさい、私はただの医者だ。ルキウス殿下に、そなたの治療を命じられたのだ」
アリョークは男を素早く観察し、彼が丸腰で身なりの良い人物――いかにも真っ当な医者らしい風体であることを確認すると、舌先に乗せていた呪文を一旦引っ込めた。彼女の魔法を警戒してか、医者だという男はアリョークをちらちらと見ながら机の椅子を引き、距離を置いて腰掛けた。
男からじっと目を離さず、堅く自分の体を抱きしめながら、真っ先に頭に浮かんだ質問をしてみた。
「殿下は、どちらに」
「もう居城の方に戻られた。見なさい、そなたに置き手紙まで残してくださった」
薄い封筒を手渡され、アリョークは驚きながらも受取った。ご丁寧に封じ蝋まで押してある。粗雑で大胆な字面の署名が、書き手の気性をよく表しているように感じられた。どうやらこの男が言っていることは本当らしい、と判断する。
すると、もうあの人騒がせな皇子に会うこともないのか。
(ほっとしたような、肩すかしを食らったような)
最後に月明かりの中で見たルキウスの赤い頭を思い出しながら、アリョークはなんともいえない気分になった。
男は机の上に置いた鞄から、粉の入った瓶を取り出した。薬紙を広げてその上に少量の粉を乗せる。
その薬がごくありふれた貧血を防ぐための増血剤だと気付き、少しだけ緊張を緩めた。
「殿下からの火急の知らせを聞いてな、すぐさまにお助けしようと駆けつけたのだ。だが、すでに刺客どもは捕らえられていたので、拍子抜けしたよ。おまえのような手弱女がやったこととは信じがたい」
ルキウスが寄越した医者は、娘のような年若い女がやってのけた手柄に、心から感嘆しているらしかった。一瞬だけ口調が砕けたものになる。アリョークは差し出された粉薬を大人しく受取り、水で流し込んだ。
「既に奴らは連行した。外の死体も回収したし、そなたが回復するまで護衛をせよとの殿下の命で、周囲の警備をする兵も預かっている。安心しなさい」
「ありがとうございます」
アリョークは穏やかに返事をしながら、内心酷く驚いていた。あの傍若無人な皇子が、こんな手厚い手当を残すとは思わなかった。あまりに濃やかな扱いに、何か裏があるのではないかと疑ってしまう。
ふと思いついて、男を見上げる。
「恐れ入りますが、今日は何日でしょうか」
「萌芽月の三十日だ」男は事務的な声で答えた。
「そなた、丸一日眠り込んでいたのだぞ。よほど疲れたのだな」
アリョークは赤くなった。つまり、その間小屋から運び出されようが、着替えさせられようが、全く目を覚まさずに寝こけていたわけだ。
彼女の顔色を察し、医師は静かな声で告げた。
「汚れが酷かったので、清潔な服に着替えさせてもらった。未婚の女性に対して勝手なことをしたかもしれないが」
「……いいえ、どうぞお気になさらず」緊張感のない自分を情けなく思いながら、なんとか答えた。
「貴方様と、治療を命じてくださった慈悲深い親王殿下に、心からの感謝を」
アリョークの無難な返事に、男は満足げに頷いた。
それから、眉を顰めながら彼女の方に向き直った。
「殿下は、そなたに何かお話ししたいご様子だったが、何か心当たりはあるか」
「……? いいえ、何も」
「そうか。よほど重要な話があるのかと思ったのだが。何しろ、相当ご熱心な勢いでそなたを起こそうとしていたからな」
何故か男がばつが悪そうにこちらを見つめてくる。訳が分からず、アリョークは首を傾げた。が、その謎はすぐに解けることとなった。
「何度殿下に揺さぶられようが、その……小突かれようが、そなたは目覚めなかったのだ。だから……」
医師は言葉尻を濁した。彼の申し訳なさそうな視線の先に、例の覚えのない頬の腫れがあるのに気付き、アリョークは布団の中でシーツを握り締めた。医師が言う「相当ご熱心な勢い」が、暴力的な代物であったことに気付いたからだ。
「あの野郎、やりやがったな……」
湯を沸かして来るから、と言って席を外した医師がいなくなった部屋で、アリョークは久しく使っていない荒々しい言葉で毒づいた。目覚めないからと自分の顔をはたき回す皇子の姿が、ありありと目に浮かぶ。おかげでつまらない夢まで見てしまったではないか。
(……まあいいわ、許してあげましょう)
アリョークは寛大な気分になって溜飲を下げた。
早く怪我を治して、魔力も回復したら、すぐにでも家の周りに幻術をかけ直そう。そうすれば、以前と同じ穏やかな日々が帰って来る。招かざる客が次々に押し寄せたせいでご無沙汰だった――たったの数日の騒動だったのにもう数ヶ月も経った気がする――平穏が手元に戻って来るのかと思うと、全てを受入れる女神のような心持ちになれた。
手を伸ばし、窓を押し上げた。開いた隙間から、柔らかい風がそっと滑り込む。
早春のあたたかい日差しが部屋に降り注ぐ。シーツに再び倒れ込むと、日の匂いが心地よく鼻に香った。久々にくつろげる幸せをかみしめながら、アリョークはまた眠りの彼岸に足を浸そうとした。
(そういえば)
アリョークはもう一度身を起こすと、布団の上、ちょうど膝の辺りに置いたままだったルキウスからの手紙を手に取った。折り畳まれた封書は、かさりと渇いた感触がする。アリョークはその手紙をひっくり返したり、また表を眺めたりとを無意味に繰り返した。
(話があるって、一体なんだったんだろ。この手紙に書いてあるかな?)
非常に気にはなったものの、何故か開封することがためらわれた。どういうわけか、開けると何か不幸なことが起こるような嫌な予感がするのだ。
何か入っている物はないかと手紙を振ってみたり、日に透かしてみたりと、虚しくつまらない抵抗を試みた後、ついにアリョークは観念した。恐る恐る封じ蝋に指をかけ、ゆっくりと剥がしにかかる。三つ折りにして封を押されただけの簡素な手紙は、あっさりとアリョークの前に中身を晒した。
そこに書かれた、署名と同じ荒々しい字を見て、アリョークは動きを止めた。
“また来る。今度は肉を用意しておけ”
手紙を持っていた手から力が抜け、ぱたんと布団の上に落ちた。春の光にとろけていた頭が冷える。ずきずきと頭痛さえしてきた。
「また、来んの……?」
手紙の上の短い言葉を反芻して、アリョークは茫然と呟いた。
春の強い風が窓から吹き込み、彼女の黒髪を無遠慮に乱していった。
赤の皇子 了
次回 黄色い花