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虹の麓に  作者: にな
4/20

赤の皇子4

後ろから殴られたのだと気付いた時には、もうすべてが遅かった。アリョークは足をもつれさせながら、草むらの中に倒れ伏した。

視界がかげろうのように揺らぐ。立ち上がろうとしても、震える四肢が、まるで自分のものではないかのように言うことを聞かなかった。急激にこみ上げてくるものに耐えきれず、アリョークは四つん這いになって激しく咳き込みながら嘔吐した。

音が耳に布を詰めたかのように遠く聞こえる。目の前に霧がかかり、ただ殴られた頭がじんじんと痛むのだけが近くに感じられた。

かすむ目が二本の足を捕らえた途端、体がぐいっと宙に引かれた。首を掴まれ、家の壁に強く押し付けられる。

「お前、この森の魔法使いか。中の連中はどうした」

動揺が滲む低い声が耳を打った。暗殺者たちの仲間だ。見張りに一人残されていたのだ。

(ああ、どうしてこれぐらいのことも予想できなかったんだろう)

アリョークは喘ぎながら自分の迂闊さを呪った。

外に残った彼は、家の中の喧騒に気付き、敢えて身を潜めていたのだ。そんなことは考えもせず、敵は全部倒したと思い込んで、のこのこと出て来てしまった。無防備に背後を晒した自分の間抜けさに、思わず涙が出そうになった。


男は酷く興奮した様子で、アリョークの顎を強く掴み、頭を壁に打ち付けた。

「おい、俺の仲間をどうしたのかって訊いてるんだよ!」

何を問われようが、下顎を握られたままでは答えようがない。しかし、恐怖で頭に血を上らせた目の前の男はそんなことも思い当たらないらしかった。あるいはアリョークの呪文を警戒しているのか。どちらにせよ、もはや彼女に反撃する力など残っていなかった。魔力はほぼ尽きた。武器となるようなものもない。


興奮と恐慌に煽られて、男がぎりぎりとアリョークの首を締め上げる。必死に抵抗してもがき、男の腕に爪を立てたが、骨太の手は少しも緩まない。蹴ろうが叩こうが男の体はびくとも動かず、逆に指にこめられる力が増すばかりだった。

気道を潰されて、アリョークは苦しさに顔を歪める。

やがて意識が、聴覚が、あれほど強く感じていた痛みさえが遠のいていった。

(師匠、申し訳ありません……)

アリョークの指から、徐々に力が抜けていった。








突然の解放に、アリョークは崩れ落ちた。

大地にすがりついて草を掴む。

肺が酸素に焦がれるように限界まで膨らみ、貪欲に空気を取り込んだ。

血のにおい。酸っぱい胃液の味。荒く耳を打つ自分の呼吸の音。手のひらを刺す尖った草の葉。

急激に戻ってきた世界の強烈な感覚に、アリョークは目眩を起こした。

肩を激しく上下させながら、壁に背を預ける。一体何が起こったのかと顔を上げた。


そして目に入った光景に、言葉を失った。



ルキウスが、松明を掲げて立っていた。

めらめらと力強く燃え盛る炎が髪を照らし、彼の頭を灼熱の色に染め上げている。まるで、彼の赤毛が火と同化してしまったかのようだ。

彼は胸を、首を、その顔を、返り血でべっとりと濡らしていた。胸部から頬にかけて走る、鮮やかな赤の軌跡。


その触れがたい炎のような美しさに、アリョークは痛みも忘れ、目の前の男に見とれた。




彼女がやっと我に返ったのは、皇子が足下に横たわる何かを蹴り上げたときだった。

はっと息を詰めて、ルキウスの下に視線を落とす。そこには、アリョークの首を絞めていた男が、血を流して倒れていた。背中に大きな裂傷を作っている。新しく口を開けた裂け目は、どくどくと赤い色を溢れさせていた。


「退屈だから見に来た」

ルキウスは呆然と座り込んでいるアリョークに言い放った。左手には松明が、そして右手には、彼が護身用にと手元に残した短剣が握られている。刃が炎の光を反射して赤く煌めいた。

足下の男が、背を針で射止められた昆虫のように足掻いた。

ルキウスは倒れた男の背中を無造作に踏みつける。そして、鋭い剣先で血の流れる傷口を抉った。

絶叫が夜を裂く。その凄まじさに体が震えた。アリョークは無意識の内に、自分の肩を守るように抱いていた。

しかし、ルキウスは眉一つ動かさず、短剣を振って刃を濡らす血を落としただけだった。


「黙れ、うるさい」

ルキウスは苦痛に呻く男の首筋に、ぴたりと刃を当てた。男はびくびくと震えながらもがく。彼の短い、ひきつるような呼吸の音だけがあたりに響いた。

皇子は虫けらでも見るような目で、ひれ伏す男を睥睨した。

「誰に雇われた。言え」

声は静かなのに、そこには確かに逆らいがたい凄みがあった。男は喘ぎながら喚いた。

「知らない、おれは何も知らない」

その返事は、怒れる皇子を満足させるものではなかった。ルキウスは男の手のひらを踏みつけると、間髪入れずに剣を突き立てた。

「ぎゃああああっ」

耳を塞ぎたくなるような悲鳴。さっきまで男の指だったものが、草むらに三本散らばった。ルキウスは無感動にそれを眺め、地に刺さった短剣を無造作に抜くと、残った親指と人差し指の二本に切っ先を定めた。

「もう一度訊く。誰に雇われた」

男は駄々をこねる子供のように泣きじゃくった。

「知らない、ほんとに知らないんだよぉ、知ってるのは頭だけなんだよ」

「そうか」

そこまで聞くと、ルキウスはなんの躊躇いもなく男の頸動脈を切り裂いた。剣先が描いた軌跡通りに血痕が走る。喉から血を溢れさせた男は、しばらく痙攣したあと、やがて動かなくなった。

広がる生暖かい血溜まり。凄惨な場面なのにも関わらず、アリョークは目を背けることも忘れて、ただ震え続けた。




虫が鳴いている。鳥の声が聞こえる。草木が風にざわめいている。いつも通りの、森の声。

そこに混じる不自然な音、震える呼吸の音が自分のものだと気付き、アリョークは放心状態から返った。


顔を上げる。血で曇った剣を布で拭いながら、ルキウスがこちらを見おろしていた。

「それで? 首尾はどうだ、魔法使い」

先ほど男を殺したときと変わらぬ、落ち着いた声で彼は訊ねた。

「あ……、」

返事をしようとしたが、喉が強ばってうまく動かない。ぐっと唾を飲み込み、からからに乾いた口内を湿らせた。

「……六人、全員、私の部屋に」

「殺したのか」

ゆるゆると首を横に振ると、ルキウスは意外そうな顔で屈み込んだ。

「本当に生かして捕らえたのか?」

「……はい、痺れ薬を使って、縛り上げました」

「全員?」

「はい」

「ほー」

皇子は珍しく素直に感心した声を出した。すぐ脇の死体を転がした張本人とは思えないような、ごく普通の声音。

その落差が、逆に恐ろしく感じられる。

「そうか、そうか」

彼はアリョークの成果をいたくお気に召したらしかった。

「さっき奴が言っていた頭とやらが生きているのか。それなら話は早い」

ルキウスは上機嫌で立ち上がると、剣を腰の鞘に戻した。

「猿ぐつわは噛ませたか」

「魔法を使う者にだけ……」

「それでは駄目だ。吐かせる前に舌を噛まれるかもしれん」

彼はそう言うと、ずかずかと家の中に入っていった。


しばらくして戻ってきたルキウスは、「終わった」と告げるなり、アリョークの体を担ぎ上げた。思わず悲鳴を上げかけるが、渇いた喉から出たのは掠れた声だけだった。

「な……何を、何をなさいます」

「もう家の周りに目眩ましはかけていないのだろう」

「え、ええ」

「来ないとは思うが、万が一追加部隊に来られると困る。小屋に戻るぞ」

「自分で歩けます」

「遠慮するな」

アリョークの訴えなど意にも介さず、ルキウスはすたすたと歩き始めた。アリョークは彼の背に頭を預け、二つ折りにされたまま、肩の上で揺られる羽目になった。これではまるで日干し中の毛布だ。背を叩いて拒否の意志を伝えようとした彼女は、目の前の背中を見てはっと息を飲んだ。さらしから、ぽつりと赤い血が滲んでいる。あまりにも鋭敏に動き回るので忘れていた。ルキウスは怪我人なのだ。アリョークは慌てて身を起こそうとした。

「殿下、お傷に障ります」

「うるさい」

素っ気ない一言に反論を封じられ、アリョークは黙り込んだ。

大人しく厚意を受け取ろうと思ったわけではない。気味が悪いほど上機嫌の皇子の気分を損ねることが、急に怖くなったからだった。


ルキウスは勢いよく小屋の扉を押した。

黒馬が主人の帰還を嬉しがり、小さく嘶く。ルキウスはすれ違い様にあやすように馬の首筋を叩いてやった。


飼い葉の上に投げ出され、アリョークは尻餅をついた。彼女が痛みに呻いている隙に、ルキウスは松明の火を消した。飼い葉の上に背中を庇いながら転がり、当たり前のようにアリョークの腿を枕にして横になる。

「疲れたから寝る。お前も寝ろ」

そして、一人でさっさと目を閉じてしまった。あまりの図々しさと無頓着さに、アリョークは目を白黒させて言葉を失った。

(こんな場所で眠れるだなんて、ほんとにこの人、皇族なの?)

以前とは別の理由で疑念が湧く。だが、今夜の彼女にそれ以上突っ込んで考える気力はなかった。

アリョークは、深いため息を落とした。

(疲れた……)

まったく、なんて日だったのだろう。恐ろしいことばかりの夜だった。よく生き残ったものだと、自分でも思う。

そっと絞められた首に触れる。きっと、環になった痣がしばらく消えないだろう。殴打された頬も頭も、当分の間は腫れが引かないに違いない。

アリョークは飼い葉の中に倒れこんだまま、頭をそっと持ち上げた。

早くも寝付いてしまったのだろうか、ルキウスは首を垂れて穏やかな息をたてていた。目を閉じた横顔は、普通の青年とそう変わらないように見える。

けれども、アリョークは確かに見た。顔色一つ変えず他人の傷を抉り、指を落とし、喉を裂いた姿を。彼の残虐さの片鱗を。


天窓から射し込む月明かりが、包帯で被われた背中を照らしている。その背中の中心に、赤い染みがある。まるで地図上に浮かんだ小さな孤島のようだ。


(明日になったら、包帯取り替えなくちゃ。それから皇子の私兵が迎えに来るのを待って、あの人たちを引き渡して、そしたら家に呪文をかけ直して……)


とりとめない考えを頭の中に泳がせながら、アリョークはやわらかい泥に沈むように眠りに落ちた。



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