赤の皇子3
夜の森に響き渡る、穏やかな虫の声。時折風に揺れる木々の音がそれに混じり、梟がため息のような鳴き声を落とす。
いつもと変わらぬ森の声の中に、微かな異物が紛れ込んでいた。
草を踏む音。低い囁き声。
小さな松明が闇を破り、そしてそれは確かに、森にあるたった一つの家――森の魔法使い、アリョークの家を目指していた。
(来た)
家の近辺に円を描くように見えない網を張り巡らせていたアリョークは、自らの領域に敵が入り込んだことを悟った。
自室に独り残った彼女は、それを合図にそっと蝋燭を吹き消した。吐息が震え、呼吸が緊張で浅くなっているのに気づく。気を落ち着けるように、鼻から深く息を吸って、もう一度吐いた。
今、この家の周りの幻術を故意に弱いものに書き換えている。
皇子は黒馬のいる小屋に移動させ、家よりも厳重な隠蔽の術をかけた。家の方の術はそう手間もかからず突破されるだろうが、こちらを見破るには魔法の使い手とて時間がかかる。
つまり、アリョークのいる母家は囮だ。
そこまでして皇子を守る義理があるかと問われれば、アリョークとしては「そんなわけあるか!」と声を大にして叫びたい気分だ。むしろあの憎たらしい皇子の方を囮に使いたい。積極的にそうしたい。
だが、彼女には森の魔法使いとしての誇りがある。
……森に迷えるか弱きものを助け、導く。それが、我ら森の魔法使いの務め。
師匠の教えを口の中で呟きながら、アリョークは意識を集中させた。ルキウスが「か弱きもの」だというのには少々異論があるが、それは考えないことにした。
侵入者の気配でざわめく魔力を近くに感じる。アリョークの指が、小さく震えた。
怖れるな、森の加護を信じろ。そう自分に言い聞かせる。
扉の魔法鍵が破られたのを感じとり、彼女はそっと目を閉じた。
敵の足音は聞こえない。が、わずかな衣ずれの音が、研ぎ澄ました耳に危険を伝えてくる。
もう一度、大きく息を吸込んだ。
間もなく、わずかに軋む音と共に、アリョークの部屋の扉が薄く開かれる。闇に紛れた男たちが数人、慎重に部屋の中に滑り込んで来た。
暗闇に目を慣らしていた彼らは、寝台に腰かけた女を認めると、小声で囁きあった。
「魔女だ。魔法の気配は?」
「今のところ感じられない」
アリョークの目もまた、闇に慣れて彼らの姿を観察していた。優れた体格の男の問いに答えた、最も背の低い男。すぐにこの小男が家の幻術を破った者だと分かった。
恐らく簡単に破れたであろうアリョークの幻術は、「森の魔法使いの腕も大したことはない」と油断を誘っただろうか。それとも、あまりの手応えのなさに、逆に彼らの警戒心を煽っただろうか。
どうか前者であってほしいと思いながら、アリョークは震えそうになる息を押し殺した。だが、体が震え出すのは、あえて止めようとはしなかった。
アリョークの怯えを見て取った男たちは、わずかに緊張を緩めた。だが、未知の魔法を警戒して必要以上には近づいて来ない。
得物をいつでも取り出せるよう構えたまま、彼らは周囲を注意深く見回した。アリョークが腰かけている寝台、小さな物入れ。対になった机と椅子。ものが少ないせいで、寝室にしては広い部屋が余計に広く見える。
お目当ての皇子も、彼を隠せるような場所も見当たらないことに、男は舌を打つ。
だが、アリョークの机にあるもの――ありふれた裁縫箱だけでなく、狩りをしない魔法使いには不要の弓と矢筒、彼女の細腕ではとても振るえそうにない大剣を見つけ、彼は目の前の魔法使いに視線を戻した。
低い声でアリョークに問う。
「娘、ここに身なりの良い男がいたはずだ。どこにやった」
アリョークはそれに答えず、ただじっと家の中の気配を探った。目の前の三人に加え、もう三人。その三人は、居間や台所に居るのが感じられた。直接見ずともわかる、皇子の隠れ家を探っているのだろう。
無言のまま動かないアリョークを不気味に思ってか、男たちはしばらく手を出して来なかった。やがて、家捜しをしていた三人たちが合流してくる。
「見つからない。地下室や隠し部屋の類いもない」
暗殺者たちの頭らしい男は、アリョークから視線を外さぬまま、部下の言葉に頷いた。
「どうやら、このお嬢さんに行方を聞くのが早いようだ」
それを聞いた男たちが、じりじりと距離を詰める。アリョークは息を詰めて時を待った。
(今だ!)
男たちが全員部屋に入ったのを認めると同時に、アリョークは一気に魔力を解き放った。開かれていた扉が、音を立てて勢い良く閉じる。
暗殺者の一人が咄嗟に扉を引く。だが開かない。数人で体当たりをしても、扉は岩のように動かなかった。
「くそ、なんだこれは」
身構えた暗殺者たちの目の前で、部屋にあった物という物が宙に浮きはじめた。
裁縫箱の針山から、無数の針が踊り出る。矢筒の蓋が外れる。麻袋が空で紐解かれる。大剣が見えない手で鞘から抜き取られる。意志を持った凶器たちは天井近くまで浮き上がり、放射線を描いて並ぶと、ぴたりと動きを止めた。その刃先は、もちろん侵入者たちに向けられている。
何が起こるのか察知した暗殺者は、渾身の力で魔法の源たるアリョークに刃を投げつけた。小さな刃が彼女の頭に向かって空を裂く。呪文を唱えるアリョークは避けない。
しかし、刃が刺したのは椅子だった。宙に浮いた椅子は座面を盾にして男たちの方に向け、主人を守るようにくるくると回転した。アリョーク自体は微動だにしないまま、低い声で呪文を唱え続けている。
「来るぞ! 魔法使いを中心にして守れ!」
男たちは小男を中心にして円陣をとる。瞬間、宙に浮く凶器の環から、矢が順繰りに飛び出した。ある者は盾で防ぎ、ある者は剣で弾き返す。一人がうめき声を漏らした。防ぎ切れなかった矢が、男の腕に刺さっている。しかしそれでも彼は倒れず、無事な方の腕で剣を握った。
暗殺者たちの胆力に戦慄しそうになりながら、アリョークは必死に己を律して更に力を振るった。闇の中を刃物が飛び交い、男たちを狙う。ナイフが小男の手の甲に貫通し、絶叫が部屋に響いた。
アリョークとて、これだけのものを同時に宙に浮かせ操るのは容易くない。魔法も万能ではなく、制約がある。例えば、自分の身体から離れれば離れるほど、放った魔力は弱まってしまう。
武器を動かすことができる範囲を自室だけに限定し、魔力の根源たる自らの身をその中に置いても、無数の武器に複雑な魔法を込めるのは難しかった。それに、大きな魔力はそれだけ気付かれやすい。
だから一つ一つに下す命令ををごく単純なものにしたのだ。
「動く生物を襲え」。
アリョークとて下手に身動ぎすれば針の筵だ。
椅子にだけは自分に向かう刃を防ぐよう魔法をかけ、アリョークはただ暗殺者たちを待った。
そして彼らは彼女のねらい通り、罠にかかったのだ。
しかし、皇子から借りた武器は、暗殺者たちの奮闘によって、着実にその数を減らしつつあった。矢は折られ、ナイフは防がれて盾や壁に刺さり、アリョークに与えられた魔力を失った。
彼らはアリョークの攻撃がそれほど洗練されていないことに、早い内から気付いていた。落ち着きを取り戻し、取るに足らない針などはあえてかわさず受け、急所への攻撃に意識を集中させる。
ぎぃん、と鋭い金属音が響いた。暗殺者を襲った大剣が凄まじい勢いで弾かれ、扉に深く刺さる。
その隙に小男は自らの手に刺さったナイフを抜き、呪文を唱えながら血にまみれたそれを放った。
使い手の血を媒介にし、放たれたナイフが燃え上がる。魔力をはらんだ炎の刃は、椅子の盾を突き破った。
「うああっ」
初めて女の悲鳴が部屋に響いた。燃える刃がアリョークの二の腕を裂いたのだ。集中力を欠いたアリョークの魔法は力を失い、宙に浮いていた全ての武器が、すっと動きを止めて音を立てて地に落ちた。
寝台に倒れ伏したアリョークに素早く近付いた暗殺者たちは、速やかに猿ぐつわを噛ませた。これで彼女は呪文を唱えることさえできない。
暗殺者の頭は、疲労と痛みでふらつきながら、アリョークの頬を強く打った。
「女、よくもやってくれたな」
アリョークの長い髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。彼女は噛み締めた唇の間から小さな喘ぎを漏らした。
「おかげでこちらは満身創痍だ。だが、無駄な抵抗だったな。お前は誰一人殺せなかった」
男の言葉通り、侵入者は全員生き永らえていた。あるものは痛みに膝をつき、あるものは荒い息で上下する肩を壁に預けている。誰もがどこかしらに針や矢の傷を作っていたが、一人として命に関わる重傷を負っていない。
男は組み伏せたアリョークの耳に残虐さを滲ませた口調で囁いた。
「痛いか。お前の態度によっては、これからもっと酷い痛みを味あわせてやるぞ。男の居場所を吐け、そうすれば楽に殺してやる」
彼は捉えた女を見下して脅しをかけたが、彼女は猿ぐつわの下で弱々しい呼吸を繰り返すばかりで、服従の言葉も拒否の言葉も吐かない。
手っ取り早く拷問にかけることに決めた男は、アリョークを押さえ付けたまま、後ろの小男に向かって顔を上げた。
「おい、この女を今から尋問する。魔封じをかけろ」
そのときだった。
寝台に膝をついた男は、口内の奇妙な違和感に気付いた。舌がうまく回らないのだ。手にも力が入らないことに気付き、彼は驚いて立ち上がろうとした。
だが、突然がたがたと笑いはじめた膝が、彼を支えるのを拒否した。それと同時に、ぐにゃりと視界が歪む。平衡を崩し、床に倒れこむ。自分だけでなく、仲間の誰もが同じ状態に陥っているのを、彼は倒れ伏した床の上から見つけた。
(なんだ、これは……)
貧血でも疲労でもないものに体の自由を奪われた男たちは、それが何なのかも分からぬまま、ただ力なく得物を落とした。
ぴくぴくと蠢く男たちを尻目に、アリョークはよろりと身を起こした。無事な腕を持ち上げ、片手で猿ぐつわを外す。自分の口に掛けられていた布をそのまま止血帯代わりにして、ナイフが掠めた腕に縛った。
「いたた」
寝台から起き上がり、痛みに顔をしかめながら立つ。腕と殴られた頬に灯った熱を自覚した途端、唐突に、抑えていた恐怖が沸き上がった。全身が粟立つ。膝が笑う。アリョークはがちがちと歯を鳴らしながら、これでは床に倒れている彼らと大して変わらないと自嘲した。
暗殺者たちの体に何本も刺さった、小さな針。その縫い針には、仕掛けがしてあった。
彼女が独自に調合した痺れ薬を塗っておいたのだ。
愛用の針が男たちの肌に突き立っている不気味な様を見て、アリョークは現実逃避に「買い換えようかな」などと考えていた。
そもそもアリョークは、暗殺者たちを生け捕りにしたいと最初から思っていた。慈悲の心から生まれた考えではない。自衛のための行為だ。
例え無事に彼らを始末できたとしても、アリョークが皇族暗殺未遂の目撃者であることに変わりないのだ。彼らを討って、皇子が無事帰還したとて、彼女の元にはまた次の殺し屋がやってくるに違いない。
だから、彼らからしっかり依頼者を吐かせ、この暗殺劇の首謀者を明らかにしたかった。その上で、敵対する者には鬼より残酷だというルキウス殿下にご報告申し上げるのだ。彼はきっちり復讐を果たしてくれるだろう。そうしてアリョークをも狙う諸悪の根源を絶ってもらおうと考えたのだ。
他人任せな上に酷薄な考えだとも思ったが、アリョークも我が身は可愛い。これ以上血なまぐさい争いに巻き込まれるのはごめんだった。
そこで持ち出したアリョークの調合した痺れ薬は、効き目は強烈だが、効果が出るまで時間がかかるという難点があった。だから矢や剣で威嚇して、時間を稼ぐのと共に、彼らを動き回らせて毒の回りを早めたかったのだ。
すぐに腕の出血が止まったのを確認したアリョークは、物入れから取り出した麻縄を床に放り投げ、呪文を唱えた。アリョークの意志を受け取った縄が、男たちをまとめてひとつなぎにに縛り上げる。それを確認した彼女は、転がって呻く男たちの中から、例の魔法を使う小男を見つけて、入念に猿ぐつわを噛ませた。男たちの動きをすべて封じ終えると、アリョークは暗殺者たちを跨いで部屋を出た。無事に作戦が成功したことを、皇子に伝えなければならない。
(あ……)
目眩がした。貧血と、魔法の使い過ぎのためだろう。体力も魔力もかなり消費してしまった。この様子だと、二、三日は寝込まねばならないかもしれない。
そう考えながら、アリョークは外に出る扉を押した。
一歩外に出ると、穏やかな虫の声が彼女を包む。後ろ手でそっと扉を閉める。
明日になれば、皇子の連絡を受取った味方が森にやって来るだろう。後は彼らにすべて任せればいい。
肌に馴染んだ夜風が火照った頬を撫で、アリョークはほっと息をついた。
その時。
がつん、という音とともに、アリョークの視界が激しくぶれた。