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虹の麓に  作者: にな
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紫電9

「……怪我はないか」

祭司の声が、頭上から降って来た。首をわずかに向けると、なぎ倒された椅子の間に立った黒服の男の姿が見えた。

見上げた男の姿は、いつになく細く、頼りなく見える。改めて、しばらく見ないうちに彼が随分とやつれたことに気付かされた。髪にはいよいよ白髪が増え、ますます燃え尽き崩れた灰の色を思わせる。


虚ろに視線を漂わせ、祭壇を仰ぎ見る。あの赤毛の男の姿はどこにもなく、彼に粉砕されたはずの聖像も、いつもと変わらぬ姿で静かに佇んでいる。

また、幻だった。その事実に、なぜか少女は深い落胆を覚えた。


聖像を眺める少女を見て何を思ったか、祭司は彼女の傍に屈み込んで言った。

「……彼には悪魔が憑いていたのだ。だが悪魔の企みは防がれた」

いつもと同じ、平淡で静かな声で告げる。

「神は全てを見ていらっしゃる。だからこそ、お前も救われた。よりいっそう深く感謝を捧げなさい」


(うそだ)

あの石像は地上のどこも見てなどいない。虚ろな灰色の瞳には、何の魂も感情もこもっていない。

そう思った瞬間、少女は発作的に立ち上がった。


一目散に駆け出して教会を出る。背後から祭司の声が聞こえたが、それが頭に届く前に外へと飛び出した。

そして、一心に西を目指して小径を駈け始めた。

いますぐ、無性にあの飄々とした魔法使いに会いたくてたまらなかった。兵士たちのように鬱屈した空気を纏わせているわけでもなく、奴隷たちのように淀んだ空気を醸し出している訳でもなく、ただ健やかであたたかな雰囲気だけを漂わせていた、あの魔法使いに。


息を切らし、肩を揺らし、靴が飛んで裸足の足の裏に砂利が刺さるのも構わず、少女は小屋の中に飛び込んだ。何かにせき立てられるように左右を見回す。馬の姿は一頭もない。別の小屋へ移動させたのだろう。

魔法使いはその中に混じってどこかへ行ってしまったのだ。あるいは、この塀の中から去って行ったのか。彼の能力ならば、そのどちらも容易いことに違いない。


少女はその場にすとんと腰を落とした。兵士に襲われ、なじられ、それでも今の今まで出てこなかった涙が、目尻をじわりと伝った。

もう会うことは叶わないと思うと、胸が苦しくてはち切れそうだった。

少女は膝を抱え、顔を覆った。



「やあ、小さいお嬢さん」

やわらかな声が、天から降ってきた。

驚いて顔を上げる。壊れかけた梁の上から、茶色い羽を持った一羽の鳥がこちらを見下ろしていた。

「また会えたね」

鳥は聞き覚えのある声で囀ると、梁の上から飛び立ち、少女の膝の上に舞い降りた。

柔らかな羽毛の茶色は、つい最近見た色と同じものだ。

「どうしたんだい、泣いたりして」

まん丸い目をぱちくりと瞬かせ、鳥は少女に話しかけてきた。静かな口調だったが、そこには確かにあたたかないたわりがある。もう問わずとも、目の前の鳥の正体がなんなのか分かった。……どうやら、彼は馬や人間の男の他にも、こういった姿形をとることもできるらしい。そもそも、彼は定まった姿を持たないのかも知れない。

以前の少女なら、恐ろしく感じて逃げ出していただろう。だが、今日ばかりは逃げ出す気も起きなかった。


「……どこへ行っていたの?」

少女は魔法使いの問いをわざと無視して、涙を拭いながら訊いた。赤くなった小さな頬を見て、何かを察した魔法使いは、それ以上同じ問いを重ねようとはせず、少女の肩へと飛び移った。

「木の上から、太陽が昇って、また塀の向こうに沈んで行くのをずっと見てた」

魔法使いの両の翼を、少女は羨望の目で眺めた。どこへでも行ける翼。自由の証。

少なからぬ嫉妬を覚えながら、少女はさらに質問を重ねた。

「塀の向こうには、何があるの?」

魔法使いは丁寧に羽根を畳み、彼女の肩に爪が食い込まないように注意しながら足踏みした。

「ここではない場所があって、ここにはいない人がいて、こことは違う悲しみと喜びがある」

少女は瞳を閉じて、「ここではない場所」を想像しようとした。が、一度も外に出たことのない彼女にとって、瞼の裏に新しい世界を広げることはひどく難しかった。それが、今はひどく惨めに感じられた。


「なにか、おはなしして」

うっすらと目を開いた少女は、消え入りそうな声で呟いた。

「神様が出てこないおはなし、して」

神も悪魔も、それを胸の裡に抱く人間も、同じように恐ろしい。そう思うと、少女の語尾がわずかに震えた。


魔法使いの男は、そっと目を閉じた。鳥の姿のままなのにも関わらず、思慮深さが感じられる仕草だった。

しばらくそのままそうしていた後、彼はおもむろに語り始めた。

「楽園の話をしようか」

「らくえん?」

「楽園って言葉、知ってるかい」

「ううん」

「楽園というのは、とても豊かな土地のことだよ。水が富んでいて、作物がよく育ち、人は奪うことでなく分け合うことを知っている。誰かに打たれることもなく、血を流す争いもなく、そこにはただ平穏と安らぎがある」

「そんなの」

聖典にある「救いの地」を連想した彼女は、思わず反駁せずにはいられなかった。

「そんなの、どこにあるの? どこにもないよ」

例えばこの灰色の囲いを抜け出せたとして、一体どこに行けばいいと言うのだろう。鎖を引きちぎって外に出たところで、どこで、どうやって生きていけばいいのか、まったく検討がつかない。広い世の中で途方に暮れ、野垂れ死にするくらいならば、この閉じられた世界で死ぬまで頭を垂れて生きるほうがまだましなのではないだろうか。

「もちろん、あるさ」

魔法使いは、少女のかたくなな心を根気よく崩すように続けた。

「きみは、虹を見たことがある?」

唐突な問いに、少女は戸惑いながらそっと頷いた。ちょうど今の季節のように夏の盛りになると、ひどい通り雨のあと、嘘のように晴れ上がるのはよくあることだ。そういうときはよく虹が出る。

「じゃあ、虹の根っこは見たことがあるかい」

「……根っこ?」

「そうだよ、根っこ」

「見たことない」

「そうか」


いつの間にか人間の姿に戻っていた魔法使いは、少女の傍らに腰を下ろし、顔を上げた彼女の髪をすいた。細い髪に絡みついた塵が、少しずつ、丁寧に払われる。

「こういう伝説を知っているかい? 虹を見つけたら、七色の帯の先を追って、ずっと歩いて行くんだ。遠い遠い場所まで」

「……なんのために?」

「虹の麓には、楽園があるんだ。そこを目指して歩くんだよ」

「行けっこないよ。すぐ消えちゃうもの」

「消えても虹は辿れるよ。道しるべが見えなくなっても、虹の橋がかかっていた方へと歩いて行くんだ」

「虹のあった方角が分からなくなっちゃったら、どうするの」

「次に虹が出るまで、足を休めればいい。虹はまた出る」

穏やかな語り口に耳をくすぐられながら、少女は夢見るように目を閉じた。瞳の奥に、初めて彩りのある世界が浮かんでくる。

空にかかる七色の橋を追って、どこまでも歩いていく。灰色の壁さえも飛び越え、緑が広がる土地を往くのだ。どんなに道が険しくとも、挫けずに歩いて行ける。その向こうには、楽園があるのだから。


「楽園に行ったら」

少女はそっと呟いた。

「……ごはんがお腹いっぱい食べられる?」

「食べられるさ」

魔法使いは微笑しながら答えた。

「毎日一生懸命に畑を耕して、与えられるものに感謝を捧げればね」

それを聞いて、少女の顔が自然とほころぶ。

「それって、すてき」

「そうだね、すてきなことだ」

ゆっくりと髪を梳く手の心地よさに、少女はまどろんだ。

(このままずっとこうしていたい)

永遠に小屋の外に出たくないとさえ思った。外は肌を刺す厳しい晩夏の光で満たされている。


あと数刻もすれば、太陽は塀の向こうへと落ちはじめる。そして、夕刻を知らせる鐘が鳴る。祝日の終わりを告げる合図が。その時が来る前に、少女は魔法使いの傍らで眠りに落ちた。





彼女は夢を見た。



夢の中は真っ暗な闇で、周囲には何も見えない。暗闇の中で、誰かが何かを叫んでいる。うわんうわんと耳に響くのに、何を言っているのかは分からない。聞いたことがあるような声が、ひたすら彼女に向かって叫んでいた。

その声を聞きたくない。でも、聞き取れないのがもどかしい。彼女は混乱し、頭を抱えて屈み込んだ。


彼女の傍らで、突然炎が燃え上がる。それは鬼火のように宙に浮いたかと思うと、彼女の周囲をぐるぐると回りだした。上に浮き上がったかと思うと、今度はすとんと下降し、また浮き上がる。

段々と炎の速さが増し、やがて周囲は火の海になる。


炎は恐ろしい。全てを焼き尽くしてしまう。

炎は美しい。全てを焼き尽くしてしまうのに。


彼女は金色の炎に指を伸ばしかけ、その熱さに思わず手を引いた。

薪も燃料もなく猛る炎は、彼女を攻め立てるように取り囲む。同時に、うなっていた声も怒鳴り付けるような響きを帯びてくる。


やめて、思いだしたくない!


彼女はそう叫ぼうとした。だが、喉からは何の音も出ない。ただ掠れた息が漏れるだけだった。

不規則な動きが狂ったように激しくなったとき。突然、明瞭な怒鳴り声が耳を叩いた。


「いい加減に起きろ、魔法使い!」




はっと瞼を開いた少女の目にまず入ったのは、染みだらけの見慣れた天井だった。

心臓が早鐘を打っている。冷たい汗が額を伝い、落ちて行った。

夢で混濁した頭が、いつものように奴隷たちの小屋にいるということを受入れるまで、しばらく時間がかかった。


自分の足で戻った記憶はない。だが、特に周りの仲間に不信に思われている様子もなく、彼らはいつものように寝息をたてながら眠り込んでいた。夕飯は抜いたはずなのだが、空腹を覚えるわけでもない。

(これもまほう、かな)

ぼんやりと考えながら、少女は自分の薄い腹を撫でた。顔を上げ、月明かりの溢れる板間の隙から、西の丘を眺める。あの向こうにある、西の外れのあばら家に、魔法使いがいる。

何のためにこの塀の中に来たのか、なぜ自分に優しく接してくるのか、何か二心があってのことではないか。胸に抱いていた疑いは、究明する意味を失って消えた。

騙されているとしても構わない。悪魔でもいい。もっともっと魔法使いに話を聞いてほしかった。


(また、あのひとに会えますように)

闇を照らす真っ白な月に、少女は初めてささやかな願いをかけた。



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