赤の皇子2
ルキウスが眠りについた後、アリョークは彼の荷を全て机の上に並べ、うしろめたさを感じつつも勝手に調べることにした。
彼が本当に皇族なのか、証拠になるものを探したかった……というより、そういったものが見つからないことを期待して。
彼が皇族で、しかも命を狙われているというのが本当だとすると、アリョークの立場は非常に危ういものになる。暗殺騒ぎ、それも皇室がらみ。その実態のはじっこを掴んでしまったと知れれば、今度はアリョークの命が狙われる可能性が高い。
例えば、本当は彼が盗賊で、何か仲間内で揉めごとがあったために殺し合いになったなんていうのが事実であるほうがありがたい。後はさっさと自警団に彼を突き出せば、また平穏な生活が戻ってくるのだから。……ただの盗賊が、絹の外套を着ることができるほど羽振りがいい訳がないのだが。
(神様、どうかあの男の言ったことが真っ赤な嘘でありますように)
そう祈りながら、アリョークは彼が腰に付けていた小さな麻袋をひっくり返した。
「ひっ」
途端、アリョークは椅子を蹴倒してとびずさった。袋から飛び出した数本のナイフが、びぃん、と音をたてて木の机に刺さったからだ。
「な、なんて物騒な……」
アリョークはびくびくしながらナイフを一本抜いた。中指程の刃幅の、小さな刃物。投擲用の武器なのだろうか。普通のナイフよりも、かなり小ぶりだ。
どうも見覚えがある気がして首をひねったアリョークは、まもなくうっとうめき声を漏らした。思い出した。件の暗殺者の眉間に刺さっていたのと同じものだ。目をかっと見開いた死体が脳裏に蘇り、アリョークは慌ててナイフを全て袋にしまい直した。
黒馬の鞍に掛かっていた他の麻袋も、今度は慎重に紐を解いて開く。羊の胃袋で作った水筒、乾燥肉が少し。弓と矢筒も改めてみたが、身元が分かるようなものは何もない。
「参ったな」
収穫の無さにため息をついたとき、ふと、ルキウスの上着が目に入った。治療の際に苦労してひっぺがし、そのあと血と土の汚れを洗い落として干しておいたのだ。
「あーあ、勿体ないなぁ」
室内に張った洗濯紐から外し、穴の空いてしまった上着を広げる。貴族が好む豪奢な刺繍さえ施されてはいないものの、使われている生地はかなり上等なものだ。おかげで洗うとき、大層神経を使わされた。
(繕っておこうか)
アリョークは裁縫箱を引っ張り出した。親切心からの行動というよりも、持ち前の貧乏性による衝動的な行為といった方が正しい。
上着の内側に指を潜り込ませると、裏地の絹のすてきな手触りが伝わってきた。うっとりとため息をつく。なんて贅沢な代物なのだろう。
調子に乗ってすべすべとした触り心地を楽しむうちに、ふと妙な感触に気付いた。ごつごつと固いものの感触。上着を引っくり返すと、裏地の一部が不自然に盛り上がっていた。
「これは……」
隠しだ。小さな切り込みがあり、中が袋状になっている。指が三本入るか入らないかの隙間に指を差し入れると、何か冷たいものが触れた。それをつまんで、外に引っ張り出す。隠しから出てきたのは、白く輝く指輪だった。
「うわ、これ本物の白金だ」
おそろしく高価な貴金属だ。相当財力のある人間でない限り、持つことは叶わない。昔一度だけ、アリョークの師匠がどこぞの貴族に頼まれて白金の細工をしていたのを見たことがある。この貴金属は希少価値が高い上に細工が難しく、普段はどんな細工物も難なくこなす師匠でさえ、さすがに気を使うとこぼしていたのを覚えている。
白金の指輪には、宝石の類いがない代わりに、繊細な細工が施されていた。外側はもちろん、着けてしまえば見えなくなる輪の内側にまで、模様彫りが入っている。
指輪をくるりと回したとき、アリョークは見たくないものを見つけた。
輪の中心、表のもっとも目立つ部分に入っていたのは、竜の頭を模した家紋……まごうことなき、皇家の紋章だった。
アリョークはその晩、絶望的な気分で繕い物を終え、今は亡き師の古い寝台に潜り込んだ。
懐かしい人の香りが気を落ち着けてくれることを期待したが、帰らぬ人となった師の残り香はとうに消え、ただくすんだ埃の匂いがするだけだった。
眠気はなかなかやってこなかった。
翌朝。
アリョークはルキウスがぐっすり眠っているのを確認すると、家の外に出た。ずっとあの二人の遺体が気になっていたのだ。彼らに襲われた側の皇子が知ったら激怒するだろうが、アリョークはどうしても彼らを埋葬してやりたかった。どんな悪人だろうと、誰にも弔われることもなく朽ちていく姿は、あまりに哀れだ。
恐らく夜中のうちに獣の餌食になっただろう死体を想像すると、それだけでぞっとするが、せめて土の中に眠らせるくらいのことはしてやりたい。
アリョークは意を決して彼らが倒れていた辺りまで足を運んだ。
「あれ……?」
記憶にある場所で足を止め、アリョークは首を傾げた。
遺体がない。
血の跡さえ残さず、二人の男の死体は消えていた。
(狼が骨も残さず食べちゃった? そんなわけないよね)
だが、探せども探せども遺体は見つからない。彼女が置いてきぼりにした薬草の籠も、どこにも見当たらなかった。
木々の間から本格的に太陽の光が溢れ出すのを見て、ついにアリョークは遺体の捜索を打ち切った。そろそろ戻らなければ、問題の皇子が目を覚ますかもしれない。
(場所、間違えたかな)
あの時は気が動転していたから、記憶が変にねじれていてもおかしくない。そう納得することにして、アリョークはその場を離れた。
アリョークが寝不足とストレスで痛む胃を抑えながら遅い昼食の支度を済ませたころ、高鼾をかいて眠り込んでいたルキウスも目を覚ましていた。
「遅い」
空腹と動けない退屈さにうんざりしていた彼は、食事を乗せたお盆を抱えて部屋に入って来たアリョークにいきなり罵声を浴びせかけた。
「お待たせをいたしまして申し訳ありません」
アリョークが大人しく頭を下げると、彼は意外そうに眉を跳ね上げた。
「なんだ、妙に素直だな。おれが皇子だということを疑ってかかっていたくせに」
「め、滅相もない」
自分の胸の内をあっさり見抜かれていたことに、アリョークは冷や汗をかいた。
「何ぞおれを信じる気になるようなことでもあったか」
鋭い。戦々恐々としながらも、アリョークはしらを切った。
「あなた様のような高貴な空気を纏ったお方が親王殿下だと知って、なるほどと納得しただけでございます」
曖昧に微笑んで誤摩化す。彼は不審そうに眉をしかめたが、特にそこにこだわる気もないのか、黙って差し出された盆を無造作に受取った。その盆に乗った前回と似たり寄ったりの薬草粥を見て、彼は露骨に不満の息を漏らした。
「薬草臭い食事はもう要らん。肉を出せ」
「申し訳ありません、我が家に肉類の蓄えはございません」
皇子の視線が剣呑になるのを見て、アリョークは死にそうにか細い声で付け足した。
「その代わり、血を増やす薬草を中心に入れてございます……お体のためにも、これでご辛抱ください」
「……ふん」
ルキウスは鼻を一つ鳴らすと、文句をつけたのが嘘だったかのようにあっさりと匙を取り、粥を口に入れ始めた。文句は多いが、むやみに無理難題を押し付ける性質ではないらしい。アリョークは少しだけ安堵した。
前回の食事の際もそうだったが、時おり荒々しい所作が見え隠れするものの、彼の食事の作法は美しい。
(さすがは腐っても皇族)
現実逃避に失礼なことを考えながら、アリョークはのろのろと茶を淹れた。
「どうぞ」
差し出された椀を鷹揚に受け取ると、ルキウスは熱い茶をぐっと一気に煽った。舌を火傷するのではとはらはらさせられたが、彼は涼しい顔で口の端を拭っただけだった。かなり喉が渇いていたらしい。飲み干すと同時に、アリョークの方に椀を突き返す。無言の要求に従い、黙って茶を淹れ直すと、今度はゆっくりと一口含んだ。
「食事はまずいが、茶はうまい」
「……恐れ入ります」
アリョークは形式的に頭を下げた。あまり褒められた気がしない。だが、皇子はとりあえず胃袋が充たされたことに満足しているようなので、良しとしよう。
気を取り直して、アリョークは思いきった提案をぶつけた。
「ルキウス様、やはりお城に連絡を取られてはいかがでしょう」
機嫌を直しかけていたルキウスの目つきが、途端に悪くなる。
「よほどおれを追い出したいと見えるな」
「このような陋宅の下で、親王殿下ともあろうお方がお休みになっているのが耐えられないのです」
ものは言いようだと自分自身の台詞に感心しつつ、アリョークは必死に言い募った。
「殿下がここにおわすことを、どなたか信頼できる方だけにお知らせしましょう」
「無理だ」
ルキウスはすぐさま首を横に振った。
「おれの部下に連絡が届く前に、敵に悟られる」
そうだろうな、とアリョークも思う。例えばここからルキウスの存命を伝えようとした場合、まずは森を抜けたところにある土地の領主を通さねばならない。その領主から城の役人へ、役人から皇室の官職へと、何段階かの仲介が必要になる。その間に皇子の敵対勢力に情報が流れ出てしまう可能性は非常に濃い。
だが、それは普通の方法で連絡を取ろうとした場合の話だ。アリョークは普通の人間ではない、魔法使いなのである。
アリョークは自らの髪の毛を一本引き抜くと、呪文をぶつぶつと唱え、最後にふうっと息を吹き掛けた。黒い髪が吹き飛ぶ。それは宙で小さな黒い鳥に姿を変え、軽やかに羽ばたいてアリョークの手の甲にとまった。
「これにご用件を告げて、窓からお放し下さい。あなた様の肉声を正確に記憶して、信頼のおける方に直接お届けします」
「ほう」
アリョークがルキウスの手に小鳥を移しながら言うと、彼は興味深げに顎を撫でた。黒い小鳥を眺め、次にアリョークに目をやる。
「面白いな。お前の髪を抜けば、おれでも同じことができるのか」
「で、できません」
アリョークはうろたえて頭を押さえた。面白半分で丸坊主にされてはかなわない。
「これは、髪に魔力を込めて小鳥に変える魔法なのです……ただ私の髪を抜いても、何にもなりません」
「なんだ、つまらん」
ルキウスは鼻を一つ鳴らし、唐突に空になった椀を放った。突然の乱暴な振る舞いに仰天したアリョークが、慌ててそれを捕まえようと手を伸ばす。皇子はその隙に何事かを小鳥に囁くと、開いていた天窓に向かって、手から放った。
「これでいいのだな」
「……はい……」
部屋のすみに滑り込むようにして、辛うじて陶器の椀を取り戻したアリョークは、消耗しながら返事を寄越した。
包帯をお取り替えします、とアリョークが言うと、ルキウスは大人しく背を向けて胡座をかいた。
包帯を外すと、傷だらけの背中が露になる。昨日できた矢傷だけではない、数え切れない古傷が残っている。彼が軍神の生まれ変わりと呼ばれるほどの武人だということを、アリョークは今更ながら思い出した。
平静を装い、そっと古い血で汚れた布や薬草を剥がす。
「おい、前回よりも痛むぞ。どういうことだ」
「麻痺していた痛覚が戻ったのでしょう。動かないでくださいまし」
ささやかな復讐を果たしたことに心満たされながら、アリョークはしらばっくれて特別沁みる薬を塗りたくった。
洗浄した傷口から新しい血が滲む。それに蓋をするように、子供の顔程の大きさがあるイニの葉で覆う。その上にさらに清潔な布を被せ、最後に包帯を巻き直す。
大きな背中に包帯を巻き付けるのは、それなりに手間がかかった。
淡々と治療を続けていると、ふとルキウスが口を開いた。
「おい、魔法使い」
「はい」
「おれはどれくらい眠っていた? 今日は何日だ」
「萌芽月の二十八日でございます。私が殿下を泉の側で見つけてから、2日経ちました」
「おれの馬はどうした。黒い馬だ、近くにいただろう」
「裏手の小屋の中に繋いでおります。実に良い馬ですね」
「お前に馬の良し悪しが分かるのか」
「多少は。昔、馬番をしていたことがございますので……あの馬、矢を受けたあなた様を心配して、殿下が倒れていらした泉まで私を案内したのですよ」
アリョークは黒馬の健気なふるまいを感動しながら報告したが、馬の主人は僅かに口の端を上げただけだった。
「おれの得物はどこにある」
「隣の部屋に、お荷物と一緒に」
「暗殺者どもの死体はどうした?」
「捨て置いております」
森のどこかで言葉通り放置されている彼らを思い出し、アリョークはほんの少しだけ、暗殺者たちを哀れんだ。
襲われたルキウスの方は、そんな感慨をもつわけもなく、更に質問を重ねた。
「さっきの鳥が着くまで、いかほど時間がかかる」
「お届け先はお城の中でしょうか? でしたら、明朝になるかと」
「ふん」
ルキウスは僅かに頭をもたげて考え込むと、小声でとひとりごちた。
「間に合わないな」
「は?」
それは素っ気ない呟きだったが、聞き逃してはならないような響きを嗅ぎとって、アリョークは手を止めた。
「……なにが間に合わないのです?」
しかしルキウスはその問いを無視し、太い指で自分の膝頭をトントンと叩いた。彼が思考の海に沈んだのを察して、アリョークはふてくされながらも黙った。
アリョークが最後まで包帯を巻き終わり、腰掛けていた寝台から立ち上がったとき、突然ルキウスの質問が飛んで来た。
「魔法使い、お前、例えばどんなことが出来る」
「は?」
「どんな魔法を使えるのかと訊いているのだ」
「え、ええっと」
アリョークは吃りながら、自分の使える魔法を指折り数えた。
「まず、先ほどのように、モノや自分の姿を変える変化の魔法がございます。それから、目には見えない網を張って程度の低い獣の侵入を防いだり、中にいる人間の気配を読む領域の魔法。あとは、幻術ですとか」
ルキウスは胡散臭げに灰青の目を細めると、アリョークの方を振り返りもせずに言い放った。
「暗殺者が来る。恐らく今夜中に。お前の術で対策をしろ」
皇子の口調があまりにも平然としたものだったので、一体何を言われたのか、しばらくの間解らなかった。
(あんさつしゃ。暗殺者がくる……)
数秒後、やっと思考が追い付いてきたアリョークは、急激に冷や汗が滲みはじめるのを感じた。
「その、殿下」
「なんだ」
「暗殺者が来る、というのは……まさか、ここに? この森に、でございますか?」
「阿呆か、お前は。ここ以外のどこだと言うんだ」
ルキウスは心底馬鹿にしきった表情でアリョークを見上げた。
「おれを見つけてから丸二日経っていると言ったな」
「ええ」
「暗殺者どもを放った輩が、その間のんびりと茶でも飲んでいるとでも思ったか? そんなわけがあるか。戻らない暗殺者とおれの足跡を辿って、奴らはもうこの森で同胞の死体を見つけたに違いない」
アリョークは青ざめた。
道理でおかしいと思った。どうしても死体が見つからなかったのは、アリョークの記憶した場所が間違っていたのではなく、既に暗殺者の仲間たちによって回収されていたからだったのだ。
「おれの死体は見つからない、かといって城にも戻っていない。近くの街を探しても見つからない……だが、標的の皇子を探す奴らが、森に隠れ住む親切な魔法使いの話を耳にして、どう思っただろうな?」
噂話に加えて、死体の傍に打ち捨てられた薬草籠。あれを見て、彼らは確信しただろう。
皇子は魔法使いのもとにいる。
ルキウスの言う通り、そこまで調べをつける時間は十分にあったはずだ。敵は、この家に的確に狙いを定めている。
ようやく事態を飲み込みはじめたアリョークは、ごくりと生唾を飲み込んだ。思わず椅子に腰が落ちる。これは――相当な危機が迫っているらしい。
アリョークは必死に気を落ち着けようとしながら、なんとか言葉を絞り出した。
「暗殺者の中に、魔法を使える者がいる可能性は……お訊ねするまでもありませんね」
「新しく雇ってでも連れてくるだろうな。蛇の道は蛇に聞くのが一番早い」
「我が家は幻術で場所を隠しておりますが、敵に魔法の使い手が居るとなると……」
「お前の隠蔽は簡単に破れるものなのか」
「腕に覚えがあるものならば可能です。時間さえかければ、外道でも見つけることが出来るでしょう」
アリョークは己の浅慮と情けなさに頭を抱えた。
「他の魔法では、決して外道には劣らぬ自信がございます。ですが幻術だけは……私が道を修める前に、師匠が他界してしまったから」
「お前の無能に対する言い訳に興味はない」
アリョークの呟くような声をばっさりと切り捨て、皇子は片足を寝台の外に放り、彼女の方に向き直った。
「最初に追ってきた奴等も腕は悪くなかった、次は同じかそれ以上の連中が来るだろう。数も倍以上に増やしてくるだろうな」
怪我人を戦力として期待することはできない。つまり、アリョーク一人で暗殺者たちに対抗しなければならないのだ。いくら強力な森の守護を受けているからといっても、彼女の力にも限界がある。相手が複数、しかも魔法を使う人間が含まれているとなると、死に物狂いでかかっても敵うかどうか、といったところだ。焦りを滲ませて考えこむアリョークに、ルキウスは初めて興味を示したようだった。
「おれと共に、大人しく奴らに殺されるか」
面白がっているとも取れる口調に、アリョークは気分を逆撫でされた。
(こんな男、助けなければよかった)
そう強く思った。同時に、手に入れた平和に気づかぬうちに溺れきっていた自分を呪った。だが、今さら後悔しても遅い。ただ焦燥を募らせるアリョークとは正反対に、この状況を楽しんでさえいそうな皇子は、揶揄するように追い打ちをかけた。
「どうする、魔法使い」
魔法使い。
彼女はその称号を噛み締めた。偉大な師匠からもらった命を、受け継いだ知識を、こんなことで無駄に散らしたくない。
(そうだ、私は魔法使いだ)
アリョークは腹を決め、顔を上げた。
「殿下、お借りしたいものがございます」