紫電8
誰もが日々の業を休んで神に祈りを捧げる祝日。その日は、奴隷たちの貴重な休日だった。
奴隷たちの村の中で一番立派な建物――教会の床に座った少女は、遥か前方で奴隷の村に唯一の小さな神像の足下に跪き、神の残した言葉を語る祭司を、ぼんやりと眺めた。
年に何回かの祝福された日の度に聞かされる神話の数々。きらびやかな神々の逸話は、祭司のいつにも増して陰気な口調によって輝きを失い、奴隷たちの耳に届く前に地に落ちていった。現に、噛み殺しもせずに欠伸をしている者や、ふらふらと船をこいでいる者たちもかなり居る。祭司は基本的に誰に対しても無関心な性質なので、だからといってとやかく言ったりはしない。
それに加えて、祈りの時間を邪魔されたくないという祭司の希望で、守備隊の兵士たちがこの奴隷のための教会に足を踏み入れることはほとんどない。奴隷たちもそれを分かっているからこそ、安心してつかの間の休息を得られるのだった。
少女はそこに仲間入りは果たしていないものの、ろくに祭司の説教を聞いていないという点では彼らと同じだった。エリニヤに関わる仕事に追われている間は忘れていられるのだが、それ以外のとき頭の中は、例の魔法使いのことでいっぱいだった。
厩の異人は、今のところ少女以外の誰にも発見されていないらしい。兵士たちに見つかっていれば「侵入者だ!」と大騒ぎになっているだろうし、奴隷に見つかれば、報酬を期待した彼らにとっくに兵士に報告されているはずだ。思わぬ秘密を抱えてしまった少女は、万が一自分が報告を怠ったことが発覚したときを想像しては、小鳥のように小さな心臓を縮み上がらせていた。しかし、不思議と今から侵入者の存在を知らせる気にもなれない。
(あのまほう使いってひと、まだ馬に化けてるのかなぁ)
のんきに草を食んでいた彼の姿を思うと、あれは本当に恐ろしげに語られる悪魔と同等のものなのかという疑念が湧き、密告するにも二の足を踏んでしまうのだった。
礼拝の時間が終わり、奴隷たちは疲弊した心身を休ませようとめいめいの場所に散っていく。出口へと向かう人の群れのなか、少女はじっと身を縮めたまま、人通りがまばらになるのを待った。何人かの視線が少女の姿を胡散臭げに舐めていったが、それでも動かずに待った。
あっという間にがらんどうになった教会の奥に、彼女と同じく動かない人物がいる。彼は神像の前で膝を折り、一心に祈りを捧げていた。いつもと変わらず黒服を身に纏った祭司は、聖印を指で切ると、厳かに顔を上げた。
「祭司さま」
そう大きくもないその声は、教会の石壁に反射してよく響いた。振り向いた祭司の、床に座り込む小さな姿を認めた目が、訝しげに細められる。少女はようやく腰を上げた。
「どうした」
側に寄って来た少女に、祭司は静かに問う。少しためらったあと、彼女は恐る恐る口を開いた。
「聞きたいことがあるんです……いいですか」
「なんだ」
「その、……」
どうしても、もう一度祭司に悪魔の話を聞きたかった。魔法使いを見逃したことが大きな過ちでないかを確かめるために。しかし、いざとなるとどう切り出してよいのかわからない。
まごつく彼女の後ろで、教会の扉が勢いよく開く音がした。
「祭司どの、祭司どのはこちらか」
軍人らしい張りのある声が、教会の奥まで響き渡る。少女は逆光を背負った人物を見ようとし目を細め、思わず身をすくめた。その人物は、先日子の助命を願ってすがり付く奴隷を振り払った、年かさの兵士だった。
探し人を見つけ、次にその傍らに立つ「祭司のお気に入り」と呼ばれる少女を認めると、彼はもともと深い皺の残る眉間をさらに寄せて、露骨に嫌悪の表情を浮かべた。しかし、次の瞬間には少女を無視して祭司の方に顔を向ける。
「上の連中が呼んでいる。薬の処方をしてほしいそうだ」
「……わかった」
祭司は静かに膝立ちから立ち上がり、襟を正して身なりを整えた。
「すぐに支度する。待たれよ」
「早くしてくれ。奴ら、薬を切らして苛ついている」
祭司は重々しく頷くと、傍らに立った少女を見下ろして口を開いた。
「しばらく出掛けてくる。用事があるのなら、それまでここで待っているように」
少女はおずおずと頷き、一歩後ろに下がって道を譲る。祭司は彼女の目の前をすり抜け、ゆっくりと扉に向かった。
扉を背で押さえて祭司を待つ男は、一瞬少女に冷たい視線を投げ掛けたが、すぐに興味を失ったように目をそらした。祭司は彼を追い、静かに教会から出ていった。
しんと静まり帰った教会の中、少女はぺたぺたと歩いて奥に向かった。
頭上にある、祭司が祈りを捧げていた聖像を、なんとはなしに眺める。少女より一回りは小さいはずのその神像は、祭壇の中の高みにあるせいで、その実際の小ささを感じさせない。顎をすっかり覆う豊かな髭をたくわえ、隆々とした身体を持つ壮年の男の姿をとった神は、雷を起こすという奇跡の杖を右手に掲げ、悠然と構えている。神の足下からその横顔を眺め、少女は救いの地とはどんな場所なのだろうとぼんやり考えた。
しばらくそうしていた後、少女はふと視線を感じて視線を下げた。誰かに見られている気がする。周囲を見回した少女は、ぎくりと身体を硬くした。教会の窓、石煉瓦を一部分抜いて造った穴の向こうから、擦りきれた軍服を着た男がこちらを見ている。鈍い光を宿した瞳が肌を撫でる。少女は無意識のうちに一歩下がった。
男が窓枠の中から姿を消すと、間もなく教会の扉が不穏な音をたてて開いた。何度か見かけたことのある、だが言葉を交したこともない兵士は、後ろ手に扉を閉じると、奥へ向かってゆっくりと歩み寄ってきた。ぬめった視線で少女を上から下まで眺める。男はぴくぴくと不自然に口角を吊り上げて、笑った。
ここで、はじめて少女は男の正体を思い出した。奴隷の間で「あの兵士にはあまり近付かない方が良い」と囁かれている男だ。普段は比較的温厚な男なのに、時折その反動のように豹変して、狂ったように暴力を振るうらしい。まだまだ若いはずの彼の歯は、老人のそれように黄色く濁り、すり減り、あちこち抜け落ちている。エリニヤを常用するものによく見られる特徴だ。
まずい。
本能的にそう思って身を引いたのと同時に、がしりと双肩を掴まれた。足を払われる。力ずくで押し倒される。わけもわからぬ内に、瞼に息を感じるほど近くに兵士の口がきていた。ぼろぼろに欠けた黄色い歯がむき出しになり、その隙間から真っ黒な口の中の暗がりが見える。少女は自分がその中に飲み込まれる錯覚に襲われた。必死で体を跳ね上げようとした次の瞬間、彼女は再び勢いよく床に落ちた。火がついたように頬が熱くなる。殴られることには慣れているはずなのに、頬を張られたことに気がつくまで、数回の呼吸が必要だった。
その平手は、普段奴隷たちが受けている物と比べれば、そう大した衝撃ではなかった。むしろ、手加減を知らない幼い兵士たちの折檻を思えば、優しくさえ感じられさえした。しかし、膝を折るのに慣れ切った奴隷の少女は、ただその一撃だけで容易く抵抗する気を失った。手足はしおれた草木のように萎えて、まるで力が入らない。
……日ごろ、若い奴隷女たちの間では、教訓めいた忠告がやり取りされている。少女も何度かそれを耳にしたことがあった。
兵士にのしかかられたら、ことが終わるまで決して逆らうな。
無駄に傷つけられたくなければ、命が惜しければ、男が満足して身体を離すまで、じっと力を抜いて耐えろと。「旦那様」にあらがったところで、事態は何も好転しはしないのだ。
自分たちは奴隷なのだから。
抵抗しなくなった少女を相手に、男は餌を漁る獣のようにむしゃぶりつきはじめた。服の下からごつごつとした指が入り込み、好き勝手に這い回る。肩口に鼻が押し付けられ、なま暖かい鼻息が首筋の産毛をなぶる。今まで経験したことのない恐怖と嫌悪感で、一瞬にして鳥肌が立った。
男の肩越しに、静かに佇む聖像が見える。神のかたちをとった石像は、口許に微笑を浮かべて彼女を見下ろしていた。男の耳元をなぶる荒い息を遠くに感じながら、その虚ろな灰の瞳を見つめる。
(どうして聖像には黒目がないんだろ、こっちを見たくないのかな)
少女はぼんやりと考えた。考えてすぐ、どうでもいいか、と思った。そう、どうでもいいことだ。
ふと、聖像の脇に目をやった。神の傍らに、三つ又に別れた銀の燭台がある。そしてその背後には、ひとりの男が立っていた。……いつぞやの赤毛の男だった。
恐ろしいような、あるいは懐かしいような、少女は奇妙な気分で彼を見つめた。彼の傍で燃える燭台の炎が、激しく暴れるように翻っている。質の悪い古びた蝋燭ではあり得ないほどの勢いで、炎は猛っていた。
男は少女の上で忙しなく動く兵士を、ひたすら無表情に見下していた。灰青の瞳が冷たく光っている。その目は兵士の背を透り抜けて、少女をも刺し貫いた。
その瞬間、彼女は猛烈な衝動に襲われた。今すぐに、自分に覆い被さる男をはね除けてしまいたい。何としても、そうせねばならない。
(でないと、この人に殺される)
わき上がった根拠のない確信は、正体不明の熱となって、神経を焼き切らんばかりに強烈に頭の中を暴れまわった。体が熱い。それなのに喉から声が出ない。体に力が入らない。
突然、彼女の目の前で男が拳を翻した。疾風の勢いで閃いた拳が、聖像の顔面を痛烈に叩く。
一瞬の静寂。その後、音もなく像にひびが入った。
(崩れる)
彼女が頭から崩壊する聖像を目にした瞬間、後頭部からさっと光が射した。
「……お前、何をしてる!」
怒号と同時に、靴音が高く鳴った。途端に体が軽くなる。
重みに解放された少女は、のろのろと上半身だけ起き上がった。少し離れた所に、頬を殴られて倒れた兵士が見える。
見上げた先に、怒りに震える守備隊の隊長と、いつの間に居たのか、亡霊のように立つ祭司の姿があった。
「……お前!」
隊長は忌々しげに首を振ると、兵士よりも先に少女の胸ぐらを掴み上げた。
「言え、お前が誘ったんだろう」
激しく揺さぶられて、少女の顎ががくがくと揺れた。言われている意味が解らず、少女は混乱して押し黙る。
「やめなさい」
後ろからかけられた平淡な声の主を、男は刃の切っ先を突きつけそうな勢いで睨み付けた。
祭司は彼の苛烈な視線などものともせず、未だに頬を押さえて床に転がる男を冷えた瞳で見下ろした。
「愚かな。聖堂で婦女子に無体を強いるとは」
「奴隷だ」隊長が鋭い口調で反駁する。
「婦女子ではない、たかが奴隷だ。獣と人間を一緒くたにするな」
「では、神の御前で獣と交わろうとしたことになるな。ますます罪深い」
そこで祭司は一旦言葉を切り、じっと兵士の目を見つめた。
「軍規に照らし合わせても、この行為は罪に当たるはずだ。……あなたがなすべきことは、ご自分でも分かっておられるだろう」
「ああ、そうだな、国の所有物破壊と軍規違反、それに異端行為とくれば、幹部どもは簡単に死罪を与えるだろうよ。こいつは別件をやらかしたばかりで外出禁止の身だしな」
歯軋りしそうな勢いで、男は吐き捨てた。
彼はぐっと唇を噛み締めたかと思うと、祭司に向かってぐっと頭を下げた。
「……見逃してやってくれないか。背信行為を伏せれば、死罪だけは逃れさせることができる。二度とこんなことが起こらないように努めるから」
だが、祭司は首を振った。
「最近の若い兵士たちのふるまい、目に余るものがある。この男の処遇をもって彼らへの戒めとすべきだ」
「見せしめにしろと言うのか」
「見せしめではない。罪は罪として裁かれることを示すのだ」
「言葉を変えようと同じだ! いいか、祭司どの、ここにいる兵どもは」
堪り兼ねたかのように唸ると、男は祭司に掴みかかった。
「士官の口があるからと騙されてやって来た平民、それも貧乏人のがきばかりだ! それが蓋を開けてみろ、何もない最果てに連れて来られ、ちんけな花の秘密を守るために、塀の中に閉じ込められたままだ」
唾が飛ぶのにも構わず、眉間に深い皺を刻んだ兵士は唇をぶるぶると震わせながら訴える。彼は勢いよく、背後にうずくまる殴られた男を指差した。
「祭司よ、こいつを見ろ。ここに来たとき、こいつはまだ15だった。それが今じゃ25だ。十年! 十年だぞ! 十年間ずっと塀の中に閉じ込められて、近くにいる女は皆すりきれた娼婦か奴隷女、故郷の幼馴染みは今頃嫁をもらってがきさえ生まれているというのに、家族を持つどころか故郷に帰ることさえできない! こいつのまともな人生はどこに行った? これではまるで囚人だ。ここはなんだ、無実の者を閉じ込めるための牢獄か。こいつらが、ここに来さえしなければ貧乏でもまともな暮らしができたはずのこいつらが、一体なにをしたと言うんだ」
祭司は答えなかった。ただ冷めた目で憤る男を見ているだけだった。
「奪われた者は他の者から奪って良いことにはならない」
ありふれた格言を口にすると、祭司はさらに平坦な声で言い放った。
「もとはと言えば、あなた方管理職の職務怠慢が招いたことだ。なすべき処断を下されよ」
「しかし!」
「隊長、もういいよ」
更に食らい付こうとしていた男は、思わぬ横やりに押し黙った。その言葉を放った者ー―少女を襲った若い兵士を、信じられないという顔で凝視する。先ほどまで狼藉を働いていた青年は、その行いが嘘だったかように、憑き物が落ちたかのごとく落ち着いた表情をしていた。
「もういいんだ。おれ、自首するから」
「馬鹿を言うな、故郷の土を再び踏む前に死ぬ気か」
「いいんだよ」
若い兵士は、淡々と繰り返した。自我を取り戻した彼の瞳は、硝子のように透き通っていた。
「……時々、かっと頭が熱くなって、自分が自分でわからなくなるんだ。
前はこんなことめったになかったけど、最近はだんだん間隔が短くなってきてる。
たとえここから出られたとしても、もう故郷には戻れないよ。
帰っても、家族や村の人に酷い迷惑をかけるだけだ……こんな奴が、どうしてまともに生きていけるって言うんだ」
彼はそこまで言うと、深淵な息をついた。
「帰れない家のこと考えるの、もう疲れたよ」
その呟きはごく小さなものに過ぎなかったが、部下の言葉を聞いた守備隊の兵士は、胸をナイフで刺されたのように顔を歪めた。
言葉にならぬうめき声を上げ、男は勢いよく近くにあった椅子を蹴り上げた。簡素な木の椅子が、床の上で跳ねて乾いた音を立てる。彼はやり場のない感情のままに、彼はいくつもの椅子を蹴り続けた。何度も、何度も。
近くの椅子をあらかたなぎ倒した彼は、しばらく荒い呼吸とともに身体を上下させ、聖堂を背にする祭司を睨みつけていたが、やがて怒りに震えていた肩がゆっくりと下がった。彼は祭司に背を向けると、のろのろと部下の元へと歩み寄った。
「立て」
抑えた声でそう命じて若い兵士を立ち上がらせると、男は祭司に背中を向けたまま、従順になった部下を連れて扉へ向かった。
「……魔性の子め」
床にへたり込んだままの少女の脇を通りかかるとき、彼は小さな声で、しかしはっきりとした言葉を吐き捨てた。
短い呪詛は少女の体を貫き、しばらくの間彼女を動けなくする。
それから教会に出て扉を閉じるまで、二人の兵士は、決して後ろを振り返りはしなかった。