紫電7
頭巾の下から太陽をうらめしく見上げると、額から流れた汗が肌を伝い、顎の先まで滑り落ちた。
丘を登る道に蛇のようにくねった轍を残しながら、少女は荷車を引いていた。
夏の日射しはいよいよ容赦がなくなって、全身の肌をじりじりと焙るようになった。エリニヤの花は全て落ち、種子袋がむき出しの状態になっている。麻薬の採集は佳境を迎え、そうなると当然、奴隷にかかる仕事の量も格段に増える。
もちろん少女も例外ではない。この日も人手不足を補うために、普段はもっと年上の奴隷が任される仕事……丘の上にある小さな厩舎まで、馬の世話をしに行くように言い付けられていた。
車に積み上げられているのは全て飼い葉で、他の荷と比べれば、それは決して重い荷物ではない。だが、この炎天下に車を引きながら長い距離を歩き、丘を登るのは、なかなかの重労働だ。
坂道に差し掛かり、自然肩にかかる重みも増す。少女は一歩の歩幅を大きくして、上下に体を揺らしながら進んで行く。
踏み込む度に、大きすぎるの上着の肩部分がかぱかぱと浮き上がり、襟から肩口が覗く。滑り込む風の涼しさに、少女は思わず目をやった。そこにはまだ、祭司の指の跡が痣となって残っている。また、風が吹いて少女の首を撫でた。その冷たい感覚に、彼女は少し震えてから、目を反らしてまた丘の上に視線を戻した。
きいきいと鳴る両扉を押し開いて、車を引いたまま厩舎に入り込む。薄暗い木の小屋の中は、穏やかな空気に包まれていた。ところどころ壊れた屋根の隙間から、光が柱となって射し込んでいる。低い馬の声と、時折鳴る尾が尻を叩く音以外は、まるで外の世界から切り離されたかのように静かだ。たとえ束の間でも、やっと厳しい表の光から逃げ出すことができた少女は、ほっと息をついて車の手すりを下ろした。
彼女の荷の中身が自分たちの餌だと気づくと、それぞれ個別の粗末な囲いの中に閉じ込められている馬たちは、いっせいに顔を前に突き出して騒ぎ始めた。中には前足をばたつかせてまでねだるものまでいて、その欲求を全身で真っ正直に訴えるさまに、思わず笑ってしまう。
少女は立て掛けてあった鋤を手にとると、車の上の飼い葉を掻きとっては、馬たちの前に放り出すのを繰り返した。痩せた馬たちが、目の前のごちそうを夢中で貪りはじめる。
最後の一頭に餌をやり終わると、少女は息をついた。伸び上がって扉の向こうの小路を眺める。そこに誰の姿もないことを確認して、彼女は思いきって残った飼い葉の中に倒れこんだ。
(疲れた……)
少女の口から、深い息が漏れた。
あの時、尋常でない様子を見せた男は、以来一度も彼女を呼び出していない。
祭司によって中途半端に甘やかされた少女の身体は、他の子供たちと比べて、やや肉体労働に弱かった。しかも、季節は真夏。大量の汗とともに体力も流れ出ていってしまう。
日々の労働は確実に疲労を残し、毎日夢も見ない深い眠りが続いていた。
(祭司さま、ほんとに大丈夫なのかな)
飼い葉の上でごろりと寝返りを打つ。
時折見かける祭司は、人波から垣間見る度に、目に見えて痩せ細っていった。もし彼が聖職を示す黒服を脱いで、奴隷の列に混じってしまえば、きっと誰も気付かないことだろう。
(祭司様も、エリニヤを吸いすぎたんだろうか)
天井の隅を見つめながら少女は考えた。
少女からすれば「あんな嫌な匂いのものを吸いたがるなんてどうかしてる」と驚くばかりなのだが、そもそもこの農園で作られる薬は、塀の外で高貴な人々が嗜好品として高値で買い取ってくれる商品なのだという。過剰な高揚感を与えるかわりに体を壊すこの薬は、その副作用の深刻さにも関わらずかなりの需要があるようだった。守備隊の兵士の中には、エリニヤをくすねて、好んで吸う者もいるらしい。昔、吸いすぎて薬の毒に頭をやられた兵士が、錯乱して暴れ回った挙句に奴隷や同僚の守備隊員を斬り殺してしまったという話も聞いた。祭司に薬を吸う習慣はなさそうだが、研究でエリニヤを取扱う彼は、今まで少しずつ毒を体に溜めて続けていたのかも知れない。他人を拒んでいた背中を思い出すと、不安な気持ちが降り積もった。
それでも、祭司の元に行きたいという気にはなれなかった。決して祭司のことを嫌っている訳ではない。保護を与えてくれる祭司に、少女は感謝している。しかし、彼の方はというと、とてもではないが純粋な善意から自分を守ってくれているようには見えなかった。彼の無表情の下には、単純な好意や嫌悪の範囲には収まらない、淀んだ感情が隠されているように感じる。祭司と自分の間に、何か得体の知れない生き物が横たわっていて、いつの日か暴れ出す日を虎視眈々と狙っている。そんな予感がして空恐ろしかった。
餌を食べ終わった馬たちが、もっともっととせがんで騒ぎ始めた。
少女は仕方なしに立ち上がり、また飼い葉を掻きはじめる。またもや勢いよく食べ始めた馬たちを、少女は途中で一旦手を止め、今度は羨ましそうな目でじっと眺めた。
「……おいしそうに食べるなぁ」
空きっ腹を抱えている身としては、存分に食事を味わう彼らの姿がひどくうらめしい。
最後に残った一頭を目の前にして、少女はふと意地の悪い気分になった。
鋤を壁に立て掛けて、車の荷台から一房、飼い葉を掴み取る。それを馬の鼻先にちらつかせた。喜び勇んだ馬が口を開いた瞬間、持っていた飼い葉をさっと引っ込める。
「あげないよー」
珍しくおどけた声を出した少女に、馬は不満げに鼻を鳴らした。首を振り振り、もどかしそうに身体を揺らしている。
少女はくすくすと笑い声を漏らした。
(かわいい。おもしろい顔してる)
調子に乗って、もう一度飼い葉を差し出す。馬が首を伸ばしたとたんに、また目の前から取り上げる。少女が本格的に笑い声を上げると、馬は憤慨して蹄を鳴らした。
「そりゃないよ、お嬢さん」
突然の低い声に驚いた少女は、身を引いた拍子に踵を引っかけて後ろにひっくり返った。残っていた飼い葉が、彼女の背をやわらかく受け止める。
ばっと身を起こして、素早く左右を見回した。天井まで見上げてみたものの、周囲には自分以外には人影一つ見当たらない。そろそろと馬の近くに歩み寄ってみたが、人が隠れているような様子はどこにもなかった。
額に手を当ててみた。熱はない。
「……今、お前がしゃべったように聞こえた」
少女は額に触れていた片手をゆっくりと下ろして、馬の鼻面を見上げた。
「気のせいかな。気のせいだよね。……目に見えるのは幻っていうけど、耳に聞こえる幻の音は、なんて言うのかな」
「『幻聴』だよ。げ、ん、ちょ、う」
馬の口から再び発せられた明瞭な言葉に、少女は今度こそ黙り込んだ。指から力が抜けて、握っていた飼い葉がばらばらと落ちる。
「やあ、こいつはありがたい」
喜色も露に呟いた馬は、長い首を垂れて飼い葉をくわえた。
「いやあ…………食事も一日一回だと…………心に沁みるものが…………あるね」
途中、何度ももぐもぐと咀嚼する音を交えながらも、馬は確かに人間の言葉を話した。
呆然と肩を落とし、目の前の馬を見つめる。ありふれた栗色の毛並み。体毛より少し色濃いたてがみ。よく見れば、他の馬たちよりも毛並みが美しく、纏う雰囲気も清潔な感じがする。しかし、どう見てもごく普通の馬だ。少女は自分の頬を両手で挟んだ。
「あたしも、いよいよおかしくなっちゃったのかもしれない……薬の毒気が頭に来ちゃったんだ」
「……君は使ったことがあるの?」馬は真剣な口調で訊ねてきた。「『麦』から採れる薬を」
「ない、けど……祭司さまのお手伝いで、よく調合するとこにいるから」
「子供に薬の精製を手伝わせているのか」
憤った声を出した彼は、ぶるりと唇を大きく震わせた。
「なんてことを」
「……いっぱい幻を見るようになると、それは頭にまで薬の毒が回りきってるってことだから……もう助からないんだって」
少女は馬の怒りを無視して、消え入りそうな声で呟く。馬はなんでもない口調で言い返した。
「大丈夫だよ、これは幻でもなんでもないから」
「でも、こんなのありえないよ、馬がしゃべるだなんて」
「馬だって、たまには人間としゃべりたい時もあるのさ」
「そんなの、聞いたことない……」
少女は涙声でぽつりとこぼした。
「あたし、死ぬのかな」
「ああ、大丈夫だよ、泣かないで」
慌てた声で返事をよこすと、栗毛の馬は勢いよく前肢を掲げた。
その途端、馬の身体が少女の目の前でぐんぐんと膨らみはじめる。二本の前肢は、やがて対の腕に。硬い蹄が、五本の指がついた手のひらに。鼻面がみるみる間に縮み、長い胴体がめきめきと音を立てて形を変えたかと思うと、そこにはあっという間に姿を変えた人間の男が立っていた。
「ほら、これでもう人間だ。人間が言葉を話しても不思議はないだろう?」
男は自分が人間になったことを証明するように両腕を広げると、はにかんだ笑みを浮かべた。
「驚かせてごめんよ」
少女は声を上げるのも忘れ、ぽかんと男を眺めた。人間の姿になった馬を、頭の頂まで見上げ、つま先まで見下ろす。
「……さっきまで、馬だったよね」
「さっきまではね」
「これ、幻?」
「いいや。魔法だよ」
彼はそう言うと、尻餅をついたままの少女に手を差し伸べた。
「大丈夫かい? さっき、転んだだろう」
差し出された手の意味がわからず、少女は困惑した顔で男を見上げた。
「なに?」
「私の手を取って」
その言葉に、おそるおそる目の前の手を見つめる。傷だらけの大きな手のひら。そっと握ると、彼は丁重な仕草で少女を起き上がらせてくれた。祭司以外に手を差し伸べられたことなどなく、戸惑いながら立ち上がった少女は、改めて男をじっと眺めた。
美男でも醜男でもない。背は高くもなければ、低くもない。時折見かける守備隊の幹部たちのように身体に余計な肉がついているわけでもなく、かといって塀の中にあふれ返る奴隷たちのように痩せ細っているわけでもなかった。まるで、全てが程々の中庸を、狙いすまして撃ち抜いたかのような容姿だった。
わけの分からない事態に、少女は酷く混乱した。訊きたいことはたくさんあるが、何から訊ねたら良いものか分からない。言葉が出て来ないままへどもどしている彼女を、目の前の男は睨みも怒鳴りもせず、ただ穏やかに笑みを浮かべて見守っている。その様子に勇気づけられ、息を落ち着けるように大きく吸うと、少女は一番新しく頭に浮かんだ疑問をそっと口にした。
「さっき言ってた『まほう』……って、なに?」
「うーん…………簡単に言うと、ちょっと変わった出来事を起こす方法、かなぁ」
意味がわからず正直に首を捻った少女を見て、男は「いくらなんでも大づかみ過ぎるか」と言って明るく笑った。
「さっきみたいにて馬に化けたり、こうして、何もないところから……」男が手を叩くと、開いた手のひらから一羽の鳥が現れた。「生き物を出したりする術のことだよ」
その台詞が終わらぬうち、少女が瞬きする間に、手のひらから現れた小鳥は消える。
「すごい……」
嘆息しながら呟いた少女に、男は開いた拳をひらひらと振りながら、何気ない口調で続けた。
「これが魔法。魔術、とも言う」
魔術。
その言葉の響きに、少女はごくりと唾を飲み込み、無意識のうちに身を強張らせた。その反応に思い当たる節があるのか、男は苦笑しながら訊ねた。
「聖典を読んだことはある?」
「な、ない」
嘘だった。何度も何度も祭司に読み聞かせてもらったことがある。部分的に諳じてみせることもできるほどだ。その中に、こういう一節があった。
「魔術に手を出してはならない、かの術は悪魔のもの」
彼女の警戒を煽った、まさにその一節が、男の口から一編の短い詩のように滑り出た。
「……だったかな。聖典によると、私は悪魔らしいね」
少女の咄嗟の嘘をあっさり見破って、しかし責めない男は静かに微笑した。彼はくつろいだ様子で近くにあった木箱に腰かけると、親しげに声をかけてきた。
「小さなお嬢さん、私が怖いかい?」
怖いに決まっている。しかし、少女ははいともいいえとも答えることができず、ただ硬直していた。
「大丈夫、とって食べたりしないよ」
「…………あ、う」
「さっき、きみに食事をもらったばかりだしね。ほら、お腹一杯だ」
そう言うと、彼はかすかに膨らんだ腹部を叩いて見せた。あんなものを食べて、腹を壊さないのだろうか。更に混乱させられた少女は、思わずずれたことを考えた。
固まった姿勢のまま、穏やかに微笑む男を見つめる。神話の中では、悪魔は美しい容姿や甘い言葉を用いて誘惑するのだという。だが、その本性はひたすらに醜悪だ。誘惑に負けた人間は、悪魔に魂を喰われ、地獄に堕ちてしまう。
少女が見る限り、男は美しくも醜くもない。甘言で誘いをかけてくるわけでもない。ただ静かに佇んでこちらを眺めているだけだ。
しかし、彼は少女にとって「異常」だった。彼女は今までの短い人生の中で、こんなに柔らかい視線を与えられたことがなかった。男の秋の枯れ葉色の瞳を見ていると、わけもなく胸がうずくような、なんとも言えない気持ちになる。どこもかしこも平凡なくせに、彼は確かに異質なのだった。
悪魔の割には迫力に欠ける異端者に、少女は恐怖の他にささやかな興味を持ちはじめた。
「あ、あなたは、誰」
「魔法使いだよ」
「……悪魔じゃ、なくて?」
「そう呼ぶ人もいるみたいだ」
思い切った質問に、男は怒りもせず、自分の膝にゆったりと肘をついた。
「でも、私は自分のことを魔法使いだと思っているから、魔法使いでいいんじゃないかな」
言葉遊びのような奇妙な物言いに、少女は内心首を傾げる。
「……ここで、なにしてんの?」
「馬に化けてた」
「なんで?」
「そういう気分だったからね」
「飼い葉なんて食べて、大丈夫なの?」
「うん、美味しかったよ。ありがとう」
不安げに目を細めた少女を見て、男は笑った。
「心配してくれたのかい? 優しい子だね」
そう言うなり、彼は少女に向かって手を伸ばした。大きな手のひらが黒い髪を撫でる。その仕草が、あまりにも自然だったので、少女はぽかんとしたままそれを見ているだけだった。そうしている内に、男の手がそっと離れる。
(な、なでられた……!)
我に返った少女は、酷く狼狽した。慣れない触れ合いに、心臓の音が早鐘のように打ち鳴らされている。だが、決してそれは不愉快な感覚ではなかった。むしろ逆だ。もしかすると、これが悪魔の誘惑というものなのだろうか。
「は、早く戻らなきゃ」少女は早口で告げた。
「あんまり遅くなると、叱られちゃう」
「そうか。それは残念だ」
男は本当に残念そうに顔をしかめてから、また微笑んだ。
「それじゃあ話し相手もいなくなることだし、私はまた馬になろうかな」
そう言うと、立ち上がった彼は軽やかな動きで宙返りをした。
瞬きする間に、彼は四つ足をついた馬に戻っていた。その見事な変身ぶりに、またもや少女が目を丸くする。
彼は緩やかに尾を揺らしながら、馬の姿で少女に語りかけた。
「気が向いたら、またおいでよ。私はしばらくここにいるから」
少女は曖昧に頷くと、ぎこちない動きで、壊れかけた扉に向かった。
「そ、それじゃ」
「ああ、待って」
慌てて馬になった身体を揺らした男が、置き去りにされた荷車を鼻先で指した。
「それは持って帰らなくていいの?」
いいわけがない。少女は急いで小屋の中に引き返すと、引ったくるように荷車を持ち出した。
「さ、さよなら」
「はい、さようなら」
呑気な挨拶を背に、今度こそ小屋を出る。
古ぼけた厩を出た瞬間、少女は猫に追われる小鼠のように、全力で走りはじめた。
丘を半ばまで下ったところで、少女はやっと歩調を緩めた。勢い余った荷車が、彼女の腰にぶつかる。その痛みにうめき声を上げて、少女は立ち止まった。同時に車輪も軋んだ音を立てながら止まる。
肩で呼吸しながら、小屋の方角を振り返る。そこにはいつもと変わらない、古びた木の小屋があるだけだ。悪魔なら魂を奪いに追いかけてくるかもしれないと恐れていたのだが、小径の上に男の姿は影も形もなかった。しばらくぼんやりと佇んでいたあと、今度はゆっくりと丘を下りはじめる。その内呼吸は落ち着いてきたが、心臓の方はそうはいかなかった。恐怖でもなく、焦燥でもなく、今まで味わったことのない感情によって、胸が急き立てられるようにして高鳴っていた。
(な、なんだこれ……)
薬を吸ったわけでもないのに、足元がふわふわと覚束ない。
外と塀の中の出入りは、厳しく管理されている。奴隷たちは、万が一不審な人物を見かけたら、必ず守備隊の人間に報告するようにと言い渡されている。
だが、この場合報告したところで無駄なような気がした。小屋に兵士を連れて行ったところで、その「不審者」は馬の姿をとっているのだ。
(絶対信じてもらえないし、だまっておこう…………)
丘を下りきる頃には、少女は迷いを残しながらも、そう決断を固めていた。心の底に、何かが変わる予感を潜ませながら。