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虹の麓に  作者: にな
17/20

紫電6

実験の結果は、今回も思わしくないようだった。沈鬱な目で結果を記した紙面を見つめ、ため息をつく祭司を後目に、少女は静かに彼の小屋を出て行った。


奴隷たちの村、少女の住まいがある方角へと歩いていくと、薄い煙が細く上っているのが見えてくる。

村の広場で、女たちが今日の食事の支度をしているのだ。

村と一口に言っても、その実情は平民たちのそれとは大きく異なる。

まず、奴隷たちには、自分たちの家を持つことが許されていない。年齢や性別によって小屋や大部屋を振り分けられ、それぞれの場所で雑魚寝をするのだ。

叛乱の相談をできないように、奴隷たちは短い就寝時間以外に屋根の下に入ることを許されていない。小屋の中での作業を必要とする仕事には、すべて守備隊の兵士たちの監視がついている。

彼らの仕事は、外部からの侵入を防いでエリニヤの存在を守ることというより、内部の奴隷たちを見張り、押さえつけることの方が主たるものだった。


朝と夕、奴隷たちが一同に介する一日に二度の食事も、周囲で兵士たちが目を光らせている。

肉類が奴隷たちの食事に上ることは決してない。

肉は不浄のもの、口にしてはならぬ。聖典にそう記しているためだ。

時に足を悪くした馬を潰し、その肉を口にしている兵士たちが優位な立場にあるのに対し、神の言葉通り「不浄のもの」を口にできない奴隷たちが虐げられているのは、皮肉な現実だった。

彼らは食事中の無駄な私語を許されず、口にしていいのは食前の祈りと粗末な食事のみである。


食事をもらうために居並ぶ奴隷たち。その長蛇の列の最後尾につき、少女はうつむいた。

祭司の庇護を受ける少女に対して厳しい目を向けるのは、なにも子供たちに限ったことではなかった。大人の奴隷たちも、自らと比べて労働力の劣る子供が自分よりも大事に扱われていることを、面白くは思っていない。

祭司の手前、少女に手を出すことはしないものの、彼女を見下ろす彼らの瞳は冷たかった。

今日の夕飯の内容は、豆のスープと古いパン。

スープの配膳をしていた奴隷女は、少女の姿を認めると、じろりと睨み下ろした。いっそうぞんざいな手つきで汁を浅くよそい、ぶっきらぼうに突き出す。

口が欠けた椀の中身は、今日も他の奴隷たちの半分以下だった。







子供たちだけが集まる部屋に戻る。少女はいつものように、部屋の一番隅に寝転がった。他の子供たちも次々に横になって、あっと言う間に寝息をたて始める。

兵士たちがいる外とは違い、ここで暴力を振るわれることは滅多にない。奴隷たちは少女を憎んでいたが、彼らは時間と体力を持て余している守備隊の男たちとは違い、きょう一日の業に疲れ果てている。

明日に背負わされる重い荷のことを思うと、誰しも無駄な体力を使う気にはなれないらしい。食事を減らされるのは堪えるが、安心して眠れることはありがたかった。


周囲の子供たちが寝息を立てる中、少女は突如むくりと半身を起こした。

(……かわや、行きたい)

ぼんやりと顔を揺らしながら、もぞもぞと起き上がる。部屋の中は真っ暗だ。うっかり歩くと他の仲間を踏んでしまい、顰蹙を買う。闇に目が慣れるまで待って、少女は立ち上がった。

厠に行くには外に出なくてはならない。少女はそうっと歩き、扉のない部屋の入り口を通って廊下に出た。

暗い中軋んだ音を立てる廊下を抜け、外に通じる扉を開く。

子供の小屋を見回る兵士はいないのだが、すぐ隣、若い男たちがいるあばら屋には、必ず入り口に見張りが立っている。厠に行くには、必ずその前を通って、どこに行くのかを報告していく必要がある。

少女は見張り兵に声をかけようと口を開きかけたが、すんでのところで止めた。……兵士は、外椅子に寄りかかって眠っていた。

(起こすと怒られるかも)

以前、寝起きの悪い居眠り兵を起こしてしまったためにしこたま殴られたことを思い出し、少女はこっそりと彼の傍を通り抜けた。

大きく欠けた月が、彼女の道をうっすらと照らしていた。


裏手にある厠で用を足して、部屋に戻りかけた少女は、耳に届いたささやき声に足を止めた。

(まずい)

少女は素早く低い藪の中に身を隠した。

もしかすると先ほどの見張りが起きたか、他の兵士がやってきたのかもしれない。許可を得ずに小屋から出たことがばれると面倒だ。

(早く通り過ぎて、こっちに気づかないで)

細い枝にすがりながら必死に祈る。

もし見つかったら、きっと殴られる。相手の虫の居所によれば、最悪の場合半死半生の目に遭わされるかもしれない。せっかく今日殴られた痕を祭司が治療してくれたというのに、それを無駄にしたくはなかった。

小さな心臓をぱくぱくと鳴らしながら、少女は懸命に息を殺して耳をそばだてた。

「……見張り……まだ…………」

「ばれない……用意…………」

しかし、聞こえてきたのは兵士たちの無遠慮な声ではなく、隣の小屋、粗末な板張りの壁の隙間から聞こえてくる男たちの囁き声だった。

思わずほっと息をつき、緊張を解く。

「……食……蓄えは……」

「西の……馬……」

ところどころ聞こえる言葉の片鱗を何とはなしに拾いながら、少女は草むらからそっと出た。

隣の小屋には、何人かの新しい奴隷がいる。話によると、以前は傭兵くずれの山賊だったところを正規軍に捕らえられ、塀の中送りになった男たちらしい。

彼らは長く奴隷として暮らしている人間たちより、ずっと丈夫でたくましく、ずっと反抗的だった。ほとんどの奴隷たちが自らの人生を諦め、手放しているのに対し、彼らの目は生への執着で底光りしていた。

少女は彼らのぎらぎらとした瞳を何となく恐ろしく思っていたし、また彼らも子供などには興味を示さないので、あまり関わり合いになることもなかった。

他の奴隷よりも重い仕事を振り分けられているというのに、尚体力の残っているらしい彼らは、何かをぼそぼそと語り合っていた。

(何話してるんだろう)

自分の知らない『外』からやって来た男たちの話に興味が湧かないでもなかったが、夜中に彼らと目を合わすのは怖い。

少女は彼らに悟られないように、忍び足で自分の小屋へと戻った。





ようやくエリニヤの花が落ち始める季節になった。

それを待ちきれないとでも言うかように、奴隷たちには、早々と頭を落とした花の残した種子から麻薬の素を採集する仕事が命じられていた。

この季節になると、日射しが肌をじりじりと焼きはじめる。

少女はくらくらする意識の手綱を必死で取りながら、全身を打つ陽光に耐えた。鼻から下を布で覆っているせいで、余計に頭に熱が籠る気がする。

花が落ちたあとには、主茎の頂点に緑色のこぶ……種子袋が残っている。切れ味の鈍い小刀で、丸く膨れ上がった種子に傷をつける。途端に白く濁った液体が溢れだし、青い表皮の上を滑っていった。この汁を木杯でこぼさないように受け、集めるのだ。刃物を使うときには、抉り込む深さを慎重に調節しなければならない。浅ければ汁が十分に出て来ないし、深すぎれば汁が一気に出て来て取りこぼしてしまう。前者を繰り返せば、見張りに仕事が遅いと小突かれる。後者のようにしくじったところを見つかれば、激しい殴打が待っている。

つんと香る匂いに、また頭がくらりと揺らぐ。防毒処理が施されていない布などで顔を覆っても、ほんの気休めにしかならないのだが、それを訴えたところで改善されるはずもなかった。

(「種子に傷をつけたら、すぐにでも顔を背けろ。麻薬の原液は、まともに匂いを吸うだけで害になる」)

何度も何度も祭司に言い聞かされたことに従って、彼女は小刀を使う度に、身を逸らしてエリニヤから漂う刺激臭を避けた。


突然、少女の横で大きな物音がした。驚いて目を向けると、草を胸の下に敷いて倒れた小さな背中が見える。

隣で同じ作業をしていた少年が倒れたのだ。

「おい、何してる!」

まだ若い見張りの兵士が飛んできて、草間に倒れ込んだ子供の姿に顔色を変えた。落ちた木杯から、白く濁った液体がこぼれて、土の上を流れている。

「こ……っのがき、エリニヤまで折りやがって」

兵士は畑の中から少年を引きずり出すと、近くの奴隷から桶を引ったくり、近くの食料畑に撒くはずだった水を彼の頭にぶちまけた。少年がうめき声を上げる。

「起きろ、このくそがき」

兵士は覚醒しかけた彼の腹を、勢い良く蹴り上げた。

「だんなさま、どうかご慈悲を……」

「うるせえ!」

見かねた年かさの奴隷が止めに入ったが、更に興奮した若い兵士は彼を突き飛ばし、また少年を凶暴な目で見下ろした。


腹部を十数回。更に、頭に二発。

何度も何度も力いっぱい蹴られた少年は、地面に頭を垂れ、四つん這いになったままぶるぶると震えた。

その喉の奥から、ごぽりと不穏な音が鳴る。次の瞬間、何かに堪えかねたかのように、彼は溢れるほどの鮮血を吐き出した。周囲の奴隷たちから悲鳴が上がる。あっという間に土を濡らした多量の血が、地面の上に大きく染みを描いた。


「な、なんだよ……」

自分の起こした結果に狼狽して、若い兵士は二歩、三歩と後ずさった。

それと同時に、折れるように少年の腕から最後の力が抜け落ち、彼の頭が血溜まりの中に勢い良く落ちる。

「うわっ」

靴に跳ね上がった血の飛沫に、兵士はぞっとして声を上げた。青ざめた顔で、ぴくぴくと震えている子供を茫然と眺める。

突き飛ばされて尻をついていた男が、掠れたわめき声を上げながら、倒れた子供のもとにすがりついた。

「おい、しっかりしろ、おい!」

呼びかけられながら揺さぶられても、少年は半開きの瞼を震わせるだけで、何の反応もしない。男は必死に少年の名を呼び続けた。


「どうした、何があった」

そうこうしている間に、騒ぎに気付いた他の兵士が何事かと近寄って来る。その声に我に返ったように、若い兵士ははっと姿勢を正した。彼よりも上等な軍服を纏った男は、ただ突っ立っている自分の部下と、その足下で子供を抱いて叫んでいる奴隷とを見比べて、何が起きたのかを大づかみに理解したようだった。うんざりしながら、若年の兵士に向かって声をかける。

「お前、またやったのか。一体何があった。答えろ」

「は、隊長殿」

青年兵は背筋を伸ばして上司に向き合うと、焦った様子で答えた。

「この者は仕事をさぼった上に、エリニヤを」

「『麦』だ。軍規を忘れたのか。言葉には気をつけろ」

「は、失礼しました」彼はますます萎縮しながら続けた。

「この奴隷は仕事をさぼった上に、『麦』を大量に損なうという愚行に出ました。よって、自分が軍規に従い、懲罰を加えましたところ…………その、」

「仕置きが行き過ぎて、こうなったということか。お前は何度同じことを繰り返す」

隊長と呼ばれた兵士は苦々しく吐き捨てると、若い兵士に向かって居丈高に告げた。

「もういい、お前には奴隷を任せられん。折角金を払って買ったものを、これ以上壊されてはたまらんからな。今日を限りに配置換えだ、おれが後で申請を出しておくから、お前は西の12区に行け。あちらはほとんど奴隷のいない区域だ」

「は」

恐縮した様子で返事をすると、若い兵士はばたばたと指定された持ち場所に向かって走り出した。


彼が去ったあとを睨むように見張っていた男は、視線を感じて振り返った。その先には、子供を両手に抱え、すがるような目を向ける奴隷の姿があった。

「だんなさま、お願いでございます、この子を、おれの息子をお医者様に診せてやってください」

彼は今にも土下座をせんばかりの勢いで、必死に兵士に向かって訴えた。

奴隷たちは、半年に一度だけ医者の検診を受けることができる。しかし、基本的に日常で起きた病や怪我は、自分たちに出来る範囲の簡単な手当で済まさなければならない。治らなければ、それまで。あとは祈る他にできることはない。


男は腕の中でぐったりと身を投げ出した子供を一瞥すると、短く言い捨てた。

「駄目だ。どうせもう助からん」

「そんな……! お願いでございます、お願いでございます」

彼は、多くの守備隊兵がそうであるように、奴隷をいたぶって満足感を得るような人間ではないようだった。その代わり、惨めな奴隷の姿に、日常に溢れ返る不幸な場面に心底うんざりしているようでもあった。男は必死に訴える父親を、すげなく切り捨てた。

「諦めろ。軍医は忙しい、お前たち奴隷の面倒まで見てはいられないんだ」

奴隷の曇った瞳が、みるみる絶望的な色に変わるのを見て、思わず兵士は目を逸らした。

「ああ、神様……!」奴隷男は喘ぎながら悲痛な声を漏らした。「どうか、どうかこの子を、息子を助けてください!」

兵士は気怠げに首を振ると、一度舌打ちを落とした。

「これだから、奴隷なんかに聖典を与えるなって言ってるのに」

彼はそうひとりごちた後、冷めた瞳で奴隷の父子を見下した。

「いいか、主の愛し子は人間だ。だが、奴隷は人間じゃない。お前らは家畜と同じだ。牛馬と変わらない存在だ。だから神は奴隷を愛さないんだよ。お前ら奴隷が神にすがっても無駄だ。余計な希望を持つんじゃない」

兵士は憎々しげに言葉を吐き出すと、早々に部下が蹴り倒した子供に背を向けた。

「……おい、お前ら、それをどうにか片付けとけ」

そう言い捨てると、彼はさっさと歩き出し、今度こそ振り返らずに去って行った。



兵士が居なくなったあと、少女は、さっきまで自分の横で同じ仕事をしていた少年のもとにそっと歩み寄った。

父親に抱き上げられた彼の目蓋は、幕を引かれたように固く落ちている。血に汚れた唇から、呼吸が漏れることはもうなかった。

血溜まりの中に、折れた歯が一本落ちていた。ぽつんと残されたそれは、赤い鮮血の中で、哀れなほど白い。

すすり泣く父と、二度と目覚めない子の姿に、少女は思わず目を背けて、無情に青い空を見上げた。夏の太陽が、地上の者の苦しみなど介しもせず、ぎらぎらと輝いている。






「祭司様は、神様に会ったことがありますか」

藪から棒な問いかけに、祭司は紙面に落としていた胡乱な瞳を上げた。

いつものように実験室の中で調合のあとを片づけていた少女が、じっと彼を見つめていた。

「……聖典にあるだろう。我らが神は天にまします、と。地上の者がお会いすることは叶わない」

「神様は、どうして地上には降りて来られないのですか? 地上が嫌いだから?」

いつもより饒舌な彼女を訝しく思いながら、祭司は紙を巻いて紐で縛り、椅子から立ち上がる。そして、実験室の中央にある机を挟んで、少女と向き合った。

「神は天で救いの地を耕していらっしゃる。人生を終えるまで、何人たりともかのお方お会いすることはできない。その代わり、天命を全うした善き人間ならば、その身の尊卑を問わず、救いの地で安らかに暮らすことが許されるのだ」

「だけど、奴隷は救いの地には行けないのでしょう」少女は淡々と続けた。「神様は奴隷のことなんて愛していないって聞きました」

「……誰がそんなことを言った」

問われた少女は、黙り込んで答えなかった。祭司もそれ以上問い詰めることはせず、ため息混じりに首を振った。そんなことを言いそうな輩は、この塀の中にはいくらでもいる。

彼は少女の問いに答えるのを諦めて、自分も実験道具の片付けをし始めた。試験でできた失敗作の入った瓶の口を開けると、薬を無害なものに変える別の薬品を混ぜ合わせようと、もう一つの大瓶に手を伸ばした。

そのひび割れた手を、少女はぼんやりと見つめる。時折、ぎこちなく彼女の頭を撫でる手。撫でたあとは、必ずその行為を後悔するように、素早く引いて行く手。少し体温の低い祭司の手のひらは、いつもひんやりとして、彼女を戸惑わせる。

「祭司さまは……」少女は俯いたまま、唾を飲み込んだ。

「どうしてあたしを、かばってくださるのですか」

その途端、ガラスが割れる音が響いた。

驚いて顔を上げる。砕けた瓶の中から溢れた液体が、祭司の足下をゆっくり侵食するように広がった。石の床を流れて、通ったあとを黒く染めてゆく。

「祭司さま? 大丈夫ですか」

痩せた男は、声を掛けられても返事をしなかった。わなわなと指を震わせて額を覆い、歯を食いしばっている。

「…………う」

「ど、どうしたの、ですか」

歯の隙間から滲み出した呻きに、少女は慌てて彼に駆け寄った。

が、顔を僅かに上げた祭司を見て、少女はたじろいだ。


灰色の髪の間から、彼の見開かれた目が覗いていた。普段は虚ろな瞳が鋭い光を宿し、獲物を掴む鷲の爪のように、彼女を強く捕らえる。血走った目を見た瞬間、少女は動けなくなった。

「う…………う、」

彼は熱病者のように体を揺らすと、すぐ傍にいた少女の肩を掴んだ。ささくれた指先に、肩の骨が軋むほどの力が込められる。痛いと訴えることさえできず、少女は息を飲んで祭司を見上げた。

「お前が」

墓場から聞こえる怨霊のような声で、祭司は震える声を絞り出した。

「お前がいるから、私は救われない……!」

そう言うと、彼は激しく少女を揺さぶった。かと思うと、突然手を緩めて、ひゅうひゅうと音をたてて大きく息を吸う。

「……いや、違う、違う」

男は唇を小刻みに揺らしながら、陶酔した息を吐いた。

また肩を握る手に力がこもる。彼は身を屈めて少女を凝視しながら、荒い息の中で言葉を絞り出した。

「お前がいなければ、私は、私は救われない」

目の前にある祭司の顔。その瞼は限界まで大きく見開かれ、今にも眼窩から目玉がこぼれ落ちそうなほどだった。部屋に射し込む鈍い光を受けた眼球が、ぬめぬめと輝いている。

支離滅裂な祭司の言葉に、少女はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。


肩に食い込んだ指から、力が抜けていく。

同時に、危険な光を帯びていた瞳から、憑き物が落ちるように熱が失われた。

祭司は少女の肩から指を外し、額を押さえて頭を振った。

「私は……今、何をした?」

いつものように気だるい響きを持つ声に、少女はやっと力を抜くことができた。

それでもまだ恐ろしさが消えず、そろそろと数歩下がって机を回り込み、祭司との間に距離をとる。

「よく分からないことを、言ってました」

「……どんなことを」

「あたしがいると、救われるとか、救われないとか、って」

少女は唾を飲み込みながら、つっかえつっかえに言った。

「それって、どういう、意味ですか」

「ああ……」

少女の問いには答えず、祭司は酷く苦しげな息を吐いた。乾いてひび割れた手で、顔を覆う。


彼は少女に背を向けると、指の隙間からくぐもった声を出した。

「今日はもういい、帰れ。帰りなさい」

「でも、祭司さま」

明らかに様子のおかしい祭司に恐怖しながらも、少女はそっと声を掛けた。

「どこかの具合が悪いのなら、誰かを呼んできましょうか。軍のお医者さん、とか」

「必要ない。帰れ」

ひたすら帰れと繰り返す祭司に、少女は仕方なく引き下がった。

黒服に包まれた背中は頑なに振り返らず、誰の声をも拒んでいる。

小屋の扉を押し、出口を細く開く。夕暮れの光が鮮やかな色を映して、暗い部屋に射し込んだ。

だが、それが奥に立つ男を照らすことはなかった。

少女は振り帰って、聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いた。

「おやすみなさい、祭司さま」

返事は無かった。



夕陽に包まれた少女は、閉じた扉にくたりと身を寄りかからせた。簡素な服の襟元を、こっそりとくつろげる。

掴まれた肩には、祭司の指の跡が、蛇ののたくった軌跡のように赤い痣となって残っていた。


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