表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
虹の麓に  作者: にな
16/20

紫電5

それは、贅を尽くされた宮殿よりも、徹底的に手を掛けて整えられた庭園よりも、遥かに美しい光景だった。

ルキウスは半ば圧倒されながら、花に支配された丘を登っていった。

彼の腰の高さまであるその花は、太い主茎から何本もの側枝に分かれ、太陽に向かって貪欲に腕を伸ばしている。

それがところ狭しと並び、互いに枝を絡ませ合って、野を淡黄色に染め上げているのだった。

尖った葉がルキウスの身体に触れる。幻の光景なのにも関わらず、そのちくちくとした感触は、まるで本物のように彼の肌を刺した。

振り向けば、背後にはもう森の家の姿がない。肩に乗っていたはずの鷲も、姿を消していた。執拗に続く幻術に、ルキウスは思わず渋い顔で舌打ちした。



「これも、魔法使いの記憶の一部か?」

風に揺れる花を間近に見ながら、ルキウスは呟いた。

そう言えば、今までのアリョークの記憶の中では、ある程度成長した彼女の姿しか見られなかった。

それ以前のアリョーク……森で魔法の師と暮らす前の彼女は、一体どこで何をしていたのだろうか。

どう見ても生粋のクトルリア人ではない彼女だが、今までに一度も出身地や故郷についての話を聞いたことがない。

何度か出生について訊ねたこともあるのだが、いつも曖昧に誤摩化されるばかりだった。

「あの薄情者め」

己の酷薄さを棚に上げて、急に腹立たしくなったルキウスは、ここにいないアリョークをなじった。


ふと、眼下の花が目に入る。見事な八重咲きの花弁。薄く黄色に色づいた花は、上品な豪華さを誇っている。

(いかにも皇都の貴族女たちに喜ばれそうな花だな)

そう考えると、急に見慣れない花が厭わしく感じられ、ルキウスは思わず手で払いのけた。

花が大きくたわんで揺れる。


突然、彼は強い既視感に襲われた。

ルキウスの脳裏に、そう遠くはない記憶が甦る。

……森の家、いつも以上に険しい表情のアリョークと、その手の中で根付いた豪奢な花。

揺らめく幻の花を見つめながら、彼女は忌々しげに言っていた。

――――麻薬の原料になるのです、この……


「……エリニヤか!」

記憶の中のアリョークの言葉を引き継いで、ルキウスは思わず声を上げた。眼前の花は、以前彼女が見せた幻覚を伴う薬の正体と、まさしく同じものだった。


丘を登りきった皇子は、とんでもなく広い麻薬畑の彼方に視線をやった。溢れる緑の中に、小屋が並ぶ集落が見える。

宏大な畑と村丸ごと一つを飲み込んだ土地には、しかし限りがあり、遠くに高くそびえ立つ壁が見える。

土地の形に合わせ、変則的にうねりながら畑を取り囲む灰色の隔壁が、青い空をいびつに切り取っているかのようだった。


再び麻薬畑に視線を下ろしたルキウスは、背の高いエリニヤが風ではない何かに揺られていることに気付いた。あちこちの花々が、不規則に掻き分けられ、局所的に揺れている。

草花の合間にひょこひょこと飛び出る小さな頭を見て、ルキウスは理解した。

子供だ。エリニヤの草の間を、籠を背負った子供たちが、蛇行しながら歩き回っているのだ。


どうやら彼らは、エリニヤの足下に根付いた雑草たちを退治して回っているらしかった。

花の根元にかがみ込んでは黄の渦の中に消え、また草間から顔を出して背負った籠に雑草を放り込んでいる。

時には、弱って萎れていたり、細すぎて成長しなさそうなエリニヤさえも土から抜きとっている。小さな身を黙々と動かして、彼らは途方もない広さの畑を整地を行っていた。



その時、遠くから荒々しい蹄の音が鳴り響いた。

ルキウスが振り向くと、彼がやって来た丘の向こうから、重い走りでやって来る人馬の姿が見える。足ばかり太い痩せ馬に跨がった男二人が、土煙を上げながら駈けて来た。


彼らは花畑の前まで来ると、ぞんざいに手綱を引いて足を止めさせた。

その洗練されていない馬術に、ルキウスは不快感を覚えた。馬をすぐに潰してしまう輩は、大抵こういう粗雑な腕前だ。


馬上の男たちは、足をあぶみに引っかけそうになりながら飛び降りた。

腰の刀を見せびらかすように、悠々と子供たちの方へと歩いて来る。傲慢な態度に相反して、その容姿はまだ十代半ばから後半のように見えた。

二人は上下揃いの軍服らしき衣服を身に着けている。服装からして、恐らくは兵隊なのだろう。だが、体格は未熟、幼さの残る顔つきには欠片の鋭さも見られず、少しも軍職にふさわしくは見えない。身のこなし一つ取っても、兵としての訓練を十分に受けていないのが分かった。身長に対して大きすぎる長剣が、ルキウスの目には妙に滑稽に映る。


彼らはルキウスにまったく気付くことなく傍を通り抜け、畑の方へと足を向けた。

「おい、出て来いがきども!」

まだ少年と言っても差し支えない顔に醜悪な表情をのせて、兵士は大声で叫ぶ。強い異国訛りの大陸共通語が、ひどく聞き取り辛い。

日ごろ戦場で他国の軍と罵声を交わし合っているルキウスでなければ、きっと何を言っているのか分からなかっただろう。

男の声に打たれた子供たちは、狼に追い立てられる羊のように大急ぎで草むらから飛び出して来た。先を争って麻薬畑の前で整列する。

栗色、淡い茶、鳶色、赤褐色、黒。

並んだ彼らの頭は色とりどりだったが、どの子供も、まるで揃えたかのように細く貧相な体つきをしていた。

荒い織布の服は、ぼろぼろに古びた麻袋のような有様で、ところどころ穴が空いたり、裾がほつれたりしている。小さな顔はどれも垢染みて、長い間行水していないのが一目瞭然だった。


「ひいふうみい……と。よし、全員出て来たか。そしたら背中の籠を前に下ろせ」

兵士のうち一人が命じると、子供たちは大人しく従った。背中から大きくはみ出していた籠を、それぞれ自分の足下に下ろす。

若い兵士は子供たちを見下ろすと、高圧的に宣言した。

「今からお前らがちゃんと働いてたかを調べるからな。少しも動くんじゃねぇぞ。一番籠の中の雑草の量が少ない、怠慢な奴には、罰を与える。……おい、どうしてやろうか」

「普通に鞭打ちでいいんじゃない? この前のがきは水責めにしたら、死んじゃったし」

彼らが軽薄に言葉を交わしあって笑っているのとは対照的に、居並ぶ子供たちは、青ざめた顔でお互いを盗み見た。少しでも自分のそれよりも少ない中身の籠の持ち主、今日の生け贄となる者を探して、淀んだ視線が交差する。


「じゃ、お前からな」

兵士はずかずかと近寄ると、一番近い場所にいた子供の籠を覗き込んだ。にやついていた顔が、途端に顰められる。

「おい、お前、これはどういうことだよ」

男は籠の中から淡黄色の花を掴むと、ずるりと引いて外へと取り出した。

「これ、エリニヤじゃねぇか」

目を剥いた男の言葉に、腕を組んでにやにやと笑っていたもう一人が、さっと顔色を変えた。素早くその子供の近くに迫るとと、兵士は手首を高く掴んで捻り上げた。

「『麦』には傷をつけるなって散々言われてるだろうが、このうすら馬鹿が」

男は列の中からその子供を引き出すと、その頬を容赦なく張った。

「お前らが何かやらかすと見張りのおれたちまで罰されるんだぞ、ふざけんじゃねぇよ」

男の罵声に黒い髪が揺れ、小さな体が危うく倒れそうに傾ぐ。

なんとか踏ん張って兵士を見上げた子供は、逆に男の嗜虐心に火を点けてしまったらしかった。

「なんだよ、その生意気な面は。奴隷の分際で」

少女の顎が、ささくれた太い指に強く掴まれる。小さなおとがいが砕けそうなほどの勢いで、激しく揺すぶられた。

「これがどれだけ価値のあるものか、お前わかってんのか。いいか、これで作る粉はな、お前たち奴隷のがきなんかより、ずっと高く売れるんだよ。それをこんなにしやがって」

「でも、だんなさま……祭司さまがそうしろと、」

言いかけた少女の口を塞ぐように、男は間髪入れず彼女を殴り倒した。地に伏した子供を、胸倉を掴んで持ち上げる。

「黙れ、この家畜が。誰が言い訳していいと言った」

「やーめとけよぉ」もう一人の男が、妙な抑揚でたしなめた。

「今思い出した。そいつ確か、祭司さまのお気に入りだぜ。あんまり殴ると、後でねちねちと説教されるぞ」

「あんな陰気な野郎に何を言われたって怖かねえや」

そう言いつつ、男はもう一発少女を殴った。細い体が吹っ飛ぶのを見て、同僚を引き止めていた男は、「飛んだ、飛んだ」とげらげら笑いながら手を打った。


殴られた少女は、足をふらつかせながらも立ち上がった。小さな手で、流れる鼻血を拭う。

透き通った黒い瞳には、ただ静かな諦感だけがあった。

少女はやせっぽっちで、酷くみすぼらしかった。短くざんばらに切られた髪、汚れた衣服。顔は土に塗られて、男なのか女なのかも判別しづらい始末だった。


それでも、ルキウスには分かった。……その黒い瞳の子供は、アリョークに間違いなかった。

彼女は、奴隷だったのだ。







++++++++++




兵士たちが言った、仕事ぶりを見張りに来たなどという台詞が口実に過ぎないことを、少女はよく分かっていた。彼らは退屈しのぎに奴隷を殴りに来たのだ。『外』からやって来た男たちは、野の色以外にうつろいが無いこの壁の中の世界に、常に飽き飽きしている。

赤い血が長く尾を引いた手の甲を見つめていた少女は、ぼんやりとした瞳で兵士たちを見上げた。



「おい、お前、なんであいつに気に入られてんの?」

男は立ち上がった少女を膝で小突いた。

「我らが祭司さまは、お前みたいながりがりのがきが好みなのか?」

「マジかよ、変態じゃねえか。どうなんだ、答えろよ」

もう一度、今度は別の男の手で胸を突かれる。

「いいえ、だんなさま」アリョークはよろけながら答えた。

「あたしは祭司さまのお手伝いをしてるだけです。それだけです」

「お手伝い? 何のだよ」

「待てよ、あいつの仕事って、確かーー」

手を叩いた男の台詞は、しかし、穏やかに遮られた。


「……何をしている」

沈鬱な響きを持った声に、若い兵士たちはびくりと顔を上げた。

少女を掴み上げる二人の後ろに、いつの間にか、黒服の男が亡霊のように立っていた。

「おや、祭司さま」

兵士たちは明らかに相手を軽んじている口調で祭司に応じた。聖職者の手前、一応掴んでいた子供を解放してみせる。

「あんたがこんなところに来るだなんて、珍しいこともあるもんだ。そんなに暇なのかい? 優雅な御身分で羨ましいね」

「それとも、溜まっちゃったんであんたの愛人でも迎えに来たぁ?」

侮蔑を露にした軽口には眉一つ動かさず、彼は二人の間をすり抜けた。尻餅をついた少女の前に立ち、彼女に手を差しのべる。

屈んだ拍子に、長く伸びた白髪の間から、灰色の瞳が覗く。

……まるで、燃え尽きた灰のようだ。

彼の色彩を見る度に、少女は何度でもそう思う。まだそれほど老いては見えない祭司は、髪の色素と一緒に、生きる情熱を手放してしまったかのようだった。


彼女の手を掴んで立ち上がらせると、黒服の男は幽鬼のような目で兵士たちを見つめた。

「……何度言えば分かる。奴隷たちは大事な財産だ。無駄な折檻をして傷つけるな」

「無駄な折檻? 違うね、こいつら勝手に『麦』を抜いてやがった。これは立派な反逆行為だ、罰を与えるのがスジだろ」

「彼らは間引きをしていただけだ。よく見ろ」

彼らは渋々、祭司が指差した奴隷たちの籠を覗きこんだ。中に入っているのは、確かに貧弱な枝振りのエリニヤばかりだ。

「ああ、なんだ、そういうことね」

若い男は肩をすくめると、軽々しく祭司の肩を叩いた。

「悪かったね、祭司さま。あんたのお気に入りを殴ったりして」

「……お気に入り?」


祭司がうつろな声で答えると、男は品のない含み笑いを浮かべながら、彼の正面に回り込んだ。


「今さらしらばっくれても無駄だよ。あんたが、このがきをしょっちゅう呼び出しちゃ小屋に連れ込んでるの、おれたち知ってるんだぜ」

「姦淫するなかれ、だったっけ? 神の教えを聖職者がほっぽり出して、昼間から愛人としけんでていいのかよ」

二人の男は、下卑た笑いを滲ませながら祭司に詰め寄った。

「なぁ、上の連中には黙っててやるからさ、ちょっと頼まれ事してよ」

「おれたち、ちょっとだけでいいから、あのクスリが欲しいなぁ」

にじり寄る男たちを、祭司は冷めた瞳で見つめた。肩にかかった馴れ馴れしい手を、静かに外す。

「知っているだろう。『麦』を持ち出すのは大罪だ。奴隷の身に落とされるぞ」

服をゆっくりと払いながら、彼は兵士の肩越しに見える少女を眺めた。

「それに、あれは私の愛人ではない。少しばかり計算が出来るから、他愛ない仕事を手伝わせているだけだ」

そう言うと、彼は二人を無視して、少女の側に歩み寄った。

「来なさい」

「……はい、祭司さま」

大人しく返事をした少女に背を向け、祭司は遠くの小屋に向かって歩き始める。

俯いた少女は、黙って祭司の後に付いて行った。横目に見えた兵士たちは、顔いっぱいに不満を浮かべて二人を眺めている。だが、次の瞬間には、彼らの粗暴な瞳は少女から離れ、残された奴隷たちを捕らえて品定めを始めていた。

これから、彼らは別の獲物を吊るし上げて嬲るだろう。祭司もそれを知っている。だが彼は、打たれる子供たちを振り返りはしない。少女もまた、振り返ることが出来ない。後ろを見るのが恐ろしい。振り返らずとも、自分の背を、羨望と嫉妬が入り雑じった奴隷たちの目が追っているのが分かった。

どろりとした視線は、彼女の背中に粘ついてなかなか離れなかった。


……お前はいいよな、いざとなったら祭司さまが庇ってくれて。

自分を見つめる瞳が言わんとしていることをひしひしと感じ、黒い背中を追いながら、彼女は目を伏せた。








頑丈な鉄の扉が、音を立てて閉まった。

いつものように内側から鍵をかける。

少女は慣れた様子で錠前の付いた長持を開けると、中から防毒布を取り出し、祭司を見上げて手渡した。彼は黙ってそれを受け取る。


竈に薪をくべて火を着ける準備をしながら、少女は後ろで実験の支度をする男を盗み見た。


(どうして祭司さまは、あたしを庇うのだろう)



少女の母は、彼女を生んですぐに死んだという。だから彼女は、自分の母の顔を知らない。父親が誰なのかも分からない。

この塀の中では、奴隷女から産まれた子供は、大抵すぐに死んでしまう。塀の中の環境は劣悪だ。奴隷は労働のための消耗品、あるいは、望まぬ僻地に送られた守備隊の兵士たちの不満のはけ口として扱われ、大人の奴隷でさえそう長生きはできない。ましてや、赤子が無事に育つには苛酷すぎる環境だ。

将来大事な労働力になるかもしれない男児はともかく、産まれた子供が女児だった場合、間引きされるのが当たり前だった。

だが、彼女は生かされた。祭司が特別に言い付けをして、奴隷女に育てさせたからだ。

誰もがその「ひいき」に首を捻り、その理由を訊ねたが、祭司はただ沈黙するばかりだった。



祭司の仕事は二つある。一つは、奴隷たちに神の道を説くこと。正しく言えば、聖典を片手に、自殺した者は地獄に堕ちると教え込み、死ぬまで働かされる未来を嘆いた奴隷が、自ら命を絶つのを防ぐこと。

そしてもう一つは、この厳重に閉じられた小屋で、より効き目の高い麻薬を作るための研究を行うことだ。

彼は、奴隷たちはおろか、見張りの兵士でさえ入ることのできない研究部屋に少女を入れる。こうして研究の手伝いをさせる。


他の奴隷には無関心なこの祭司が、なぜ自分にだけ慈悲を与えるのか、少女にはまるで分からなかった。



「扉の鍵は閉めたか」

「はい」

「中に、他の誰も入っていないな」

少女は肯定しかけて口を開き、そのまま固まった。


扉の前に、不遜な表情で腕を組む男がいたのだ。鮮やかな赤毛と青い瞳、立派な体躯。男のすべてが、この灰色の世界に相応しくない。

「祭司さま」

驚いて声を上げた瞬間、男の体がふっと薄れた。……瞬きした後には、もうどこにも姿が見えない。

辺りをきょろきょろと見回す少女に、祭司が静かな声で訊ねた。

「どうした」

「いま、ここに、男の人が」

「男?」

祭司は灰色の眉を潜めた。彼は準備の手を休めると、少女の額に手を当てた。

「どんな男が見えた?」

「……赤毛の、とっても悪そうな男の人です。すごく怖い顔でこっちを見ていました」

灰色の眉がぐっと寄って、深い皺が寄せられる。

「幻覚か。……どこかで薬を吸ったのか」

「いいえ、吸ってない……と、おもいます」

自分が幻覚を見たことよりも、祭司の手のひらに両の頬を捕らえられたことに動揺して、少女は目の前の男を見上げた。

相変わらず何の感情も読み取れない灰色の瞳が、静かにこちらを見つめている。

「……お前には薬をほとんど吸わせていないつもりだったが、少量でも効いているのかもしれない。具合が悪くなったら、すぐに言いなさい」

「はい」

少女は戸惑って頷きながら、こっそりと扉の方を盗み見た。やはり、そこには誰もいない。恐ろしい顔でこちらを睨んでいた男は、その場から煙のよう消え去ってしまった。

(すごくきれいな赤だったな)

しかし、彼の髪の鮮やかな赤は、少女の目に焼き付いて離れなかったのだった。





++++++++++





一方、少女に「とっても悪そう」で「すごく怖い顔」と評された男は、ふて腐れた表情で部屋の扉に寄りかかっていた。

彼に暴言を振るった少女は、黒服の男が行う実験に手を貸すのに忙しく、こちらに目を向けることさえしない。


彼女が奴隷だったという過去を持つことに、ルキウスはルキウスなりに少しばかり動揺していたのだが、先ほどアリョークが口にした放言のせいでその衝撃も去ってしまった。


ルキウスは、また自分が見えなくなったらしい少女……幼いアリョークを、じっと見つめた。

献身的に働く彼女に手を伸ばし、頭を掴もうとしてみる。しかし、指はすり抜けて触れることは叶わなかった。試しに黒服の男も足蹴にしてみたが、結果は同じく空振りだった。

何故かは分からないが、人間には触れることができないようだ。

ルキウスは苛立たしげに自分の手を見つめた。

彼は望んでアリョークを追っているわけではない。先ほどまでは麻薬畑の近くに居たはずなのに、気がついたときにはこの小屋の中に移動させられていたのだ。

ものに触れることが出来ることといい、アリョークが一瞬でも自分の姿を認めたことといい、どうやら今度の幻術は、先ほどまでの森の家での幻とはわけが違うようだ。

(これも魔法使いの言う、魔力の一人歩きか)

そうだとすると、彼女の予告した通り、この状態が二、三週間続くのかも知れない。そんな長い間幻の中を彷徨っていたら、一体どうなってしまうのだろう。

なんとかこの幻の中から脱出しなければならない。その鍵を握っているのは、目の前の少女に間違いなかった。

「この幻術から抜け出したら」

ルキウスは自分を見ない少女を睨みつけると、低い声で呟いた。

「さきほどの非礼な発言の責任を取ってもらうぞ、魔法使い」



途端に、水をガラス瓶に移し替えていた少女が、身震いをした。

「どうした」

「いいえ……なんでもないです、大丈夫です」

顔を上げて手を止めかけた祭司を制して、少女は頭を振った。祭司はしばらく訝しげに彼女を見つめていたが、やがて作業に戻る。

(なんだろう、いま、背中がぞくぞくってした)

少女は自らの鳥肌だった腕をそっと抱きしめて、不思議そうに首を捻った。








評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ