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虹の麓に  作者: にな
12/20

紫電1

木々の間から漏れた光が、思いがけず閃いて目を刺す。

木陰を選んで歩いていたアリョークは、その眩しさに目を細めた。

かすかな風が吹き、濡れた前髪が張り付く額を心地よくなぶる。汗ばんだ肌にはぬるい風でさえありがたく感じる。

そう長い距離を歩いているわけではないのだが、手に持った水一杯の桶がずっしりと重く、余計に汗が出る。たっぷり汲んだ桶が揺れ、水の飛沫が顎にかかった。

「ひゃあ」

アリョークは嬉しげな悲鳴を上げた。

(いい気持ち)

強い陽に真っ向から対抗するほどの体力もないアリョークだが、それでも夏という季節を好ましく思う。生き物の気配が盛んに漂い、森がざわめく。毎年繰り返される、命が強烈に匂い立つ季節。この時期が来ると、アリョークは訳もなくわくわくした気分になるのだった。


息を切らしたアリョークは、やっと目的の場所へとたどり着いた。

木々で囲まれた小さな広間ようなその場所には、細かな花を散らしたような多年草が広がっている。

地に張り巡らされた草花を見渡すと、アリョークは持ってきた柄杓で、勢い良く水を撒いた。そのまま辺り一帯に、まんべんなく水を振りかける。玉になった汗が、いくつもの筋を描いて滑り落ちていった。

空になった桶を置くと、木陰に入って、身体を二つに折ってほうと息をつく。すぐに顔を上げ姿勢を正すと、さっと短い呪文を唱えた。


途端、辺りからざわめき声が聞こえ始める。

『今年も暑くなったなぁ』

『鍛冶屋んとこに三男坊が産まれたってよ!』

『あそこの奥さん、酒好きが過ぎてさぁ、酔っ払って旦那殴っちゃったんだって』

草たちの囁き声を聞きながら、アリョークはごろりと仰向けに寝転んだ。


ここに生えている植物は、クトルリアなら国内どこにでもある、言わば雑草である。正式名称を知らないので、アリョークは勝手に「おしゃべり草」と呼んでいる。彼らを媒介にすることによって、クトルリア中でささやかれる人々の間の噂話を、こうして盗み聞くことができるのだ。

アリョークが森からほとんど出ずに世間の情報を仕入れられるのは、この魔法のお陰だ。とは言っても、当然この草は整理されていない道端ばかりに咲くので、耳に入ってくるのはほとんど他愛もない井戸端会議ばかりである。

それでも、彼女はこの魔法が好きだ。人々の囁き声に身を沈めていると、人の営みというものを肌で感じられる。まるで自分も、その中の一員として暮らしているかのような心持ちになれるのだ。

(実際人ごみの中にぶちこまれたら、冷や汗出ちゃうのになぁ)

アリョークはその矛盾を自嘲した。

案の定、聞こえてくるのは、暑いだの蒸すだの、夏の陽気に対するありふれた感想の声ばかりだ。

クトルリアは決して平和な国ではない。近隣諸国との火種は尽きることなく、国内の政治腐敗はかなり深いところまで進行している。まさに内憂外患である。それでも市井の声は、よほど深刻な事態にでもならない限り、平時と変わらず長閑なことこの上ないのだった。


(そうだ、そろそろ、アレの季節だなぁ)

そう考えたアリョークは、今日初めて沈んだ気分になった。

……毎年一度、夏の盛りになると、彼女はやっかいな試練を迎えなければならない。その時期になると、薬師の仕事も休んで家に籠る。彼女の師匠は「冬ごもりならぬ夏ごもりだ」などと笑っていたが、憂鬱な恒例行事を笑い飛ばしてくれる彼がいない今となっては、ただただ気が重くなるばかりだった。

(皇子にも、絶対来るなって伝えなきゃ)

彼に断りの手紙を書かなければならないと思うと、更に頭が痛くなる。下手に内容をぼかして「色々と忙しいから来ないで欲しい」、などと書いた日には、あの性悪男なら嬉々としてやって来そうだ。

アリョークは先日あったことを思い出して、再び腸が煮えくり返りそうになった。


例の「愛人にする」宣言から数ヶ月のときが過ぎたが、それ以来、ルキウスは暇を見つけては足繁く森の家に通って来ていた。平均して週に一度はやってくるので、アリョークは胃の痛む毎日を送っている。

(なんであの人、ここに来るのかな……)

うんざりしながら考える。


ルキウスはその若さながら、国内で最も大規模で屈強な私兵団の総帥である。争いの絶えない国境付近に遣わされては、猛虎のごとく敵軍に襲いかかって勝利を収めている。野蛮で無慈悲な行いを恐れられている一方で、天才的軍人である彼を高く評価する声も多い。とりたてて美男というわけでもないが、筋骨たくましい体と、燃えるような赤毛が目を引きつける。野心ある貴族たちは、例え妾という立場でも、手塩にかけた娘を彼に差し出すことを躊躇わないだろう。


つまり、ルキウスはその気になれば、たくさんの美姫たちの中からよりどりみどり、なのだ。だというのに、よりによってアリョークを相手している。

おかしい。彼の嗜好はおかしい。アリョークは本気でそう思う。


彼はアリョークの顔を――具体的に言うと、彼女の嫌そうな顔や、泣きそうな顔を――見るのを楽しみにしているようで、何かと嫌がらせをしては静かだった生活を脅かしてくるのである。先月来たときなどは、突然何かを思いついたように笑うと(にやり、という擬態語がぴったりな笑い方だった)、いきなりアリョークを床に押し倒して唇を合わせて来たのだ。そのまま行けば更に危ないことを仕掛けられそうだったが、アリョークが瞬時に唇を離し、切羽詰まった声で「は、吐く」と言ったのが堪えたのか、すぐさま彼女を解放した。窓に駆け寄って本当に吐いたアリョークは、振り返った皇子が苦虫を噛み潰すような顔をしているのを見て、何故か「勝った」と思った。


(そう言えば、今月はまだ一度も来てないな)

先日の事件を振り返っている内に、それ以来皇子の足が途絶えていることに気付いた。きちんと数えてみると、前回のおとないから三週近く経っている。こんなに間が開くのは初めてだ。

(もしかしたら、あれで愛想を尽かしてくれたのかも知れない)

だとしたら吐いた甲斐があったものだと思い、アリョークは満足して頷いた。

「もし同じような真似を仕掛けて来たら、この手で皇子を返り討ちにしてやろう」

アリョークは傍に本人がいないのをいいことに、出来もしない勇ましいことを呟いた。


(今日も、大きな知らせはなさそうだなぁ……)

聞こえてくるのは、ごく普通の日常の会話ばかりだ。アリョークは起こしかけていた半身を再び草の合間にうずめると、そのざわめきを子守唄にして、とろとろと眠りの淵でふらつき始めた。


そのとき、急に風向きが変わり、ざあっと草木が揺らめいた。

『皇子様が亡くなったってよ!』

威勢のいい声に、アリョークは文字通り飛び起きた。

「え、な、なに? 今、何て言った?」

思わず四つんばいで這い寄り、草木に話しかけてしまう。だが、草は同じ言葉を繰り返してはくれない。

(まさか)

アリョークは深刻な表情で改めて草花たちのお喋りに耳を傾けた。


『死んだって? ご病気の皇帝陛下じゃなくて?』

『号外、号外! また一人皇子殿下が亡くなった!』

『お父上とは違って丈夫に育ったのに、まさか大人になってから三人も死んじゃうなんてねぇ』


怒濤のごとく流れこむ人々の声を、アリョークは膝立ちになって食い入るように聞いた。

「お、皇子って、どっちの?!」

クトルリアに残っている皇子は、たった二人だけ。ルキウスと、その兄である皇太子のみである。

(まさか)

冷や汗が大量に流れ始める。

(ルキウス皇子、ついに一番上の兄上を殺したのか)

「なんてことを」

そう思った瞬間、意味のない非難が口から滑り出た。とうとう三人の兄皇子をすべて弑してしまったのだ、あの男は。



ルキウスはかなり破壊的な人物だ。まず、彼には命があることに感謝するという気持ちが一切ない。他人の命に関してはもちろん、自分の命に関しても、である。生と死の間、ぎりぎりの合間を歩く自分を楽しんでいさえいる気がする。


ルキウスは十二の歳に初めて戦場の地を踏んだという。これは早い。早すぎると言ってもいい。皇太子やそれに続く兄皇子たちが十代半ばを過ぎてからだったことを考えると、彼の扱いが異例のことだったと分かる。

更に、彼につけられたのはたった千の兵だったらしい。他の皇子の初陣のときと比べると、半分以下の数字だ。

もっと酷いのが、その初陣の場が、生きて返れるかも分からない激戦地だったことだ。戦の経験はない、年端の行かない少年に対して「死ね」と言っているようなものである。

それでも、彼は生きて帰って来た。千の兵を百に満たない数にまで減らしたが、敵将の右腕だった男の首を携えて。これをきっかけに、クトルリアは隣国との敗戦色濃い国境争いにおいて、辛くも勝利を収めることになる。民衆はそんな彼を「奇跡の皇子」や「クトルリアの若獅子」などと褒め讃えた。国中から降り注ぐ賞賛の声の前に、皇子に対する過酷な扱いへの疑問の声はかき消されてしまった。

ルキウスの話し振りからして、彼が皇族や貴族というものを嫌悪していることは薄々感じていた。彼の悪鬼のような人格は、ひょっとするとそのような周囲からの扱いの連続で歪められた故のものなのではないだろうか。

アリョークは以前彼を治療した時に見た、傷だらけの背中を思い出した。


『軍神の生まれ変わりとまで言われた方だったのになぁ、惜しいもんだ』

「え?」


ルキウスに対しての複雑な想いに浸っていたアリョークは、その一言で我に返った。


『おいおい、皇子は我が国の守りの要だろ、あの方が死んだら、隣の国の野郎どもが一斉に襲いかかってくるんじゃないか』

『生き残った殿下はいいお方らしいけど、戦では頼りにならないからなぁ……』

『鷹狩りに行って、馬から落ちて死んじまったのかい? 戦じゃ負け無しだったのに、死ぬときはあっさりしたもんだ』

暑さのせいではない冷や汗をかきながら、ようやく自らの早合点に気付きはじめた。そうだ、皇子は二人。その内の一人が死んだ。……誰もまだ、死んだ者の名前を言っていない。


『お可哀想に、死んでしまうなんて…………まだ若かったのになぁ、ルキウス殿下は』


ついにその名が囁かれ、膝立ちになっていたアリョークは、へなへなとその場に座り込んだ。自らが撒いたばかりの水で尻が濡れたが、そんなことに構っている余裕もなくなっていた。彼女は今しがた入って来た情報を、茫然としながら何度も反芻した。


(死んだ。あのルキウス殿下が、亡くなった……)





++++++++++






それからどうやって家に戻ってきたのか、自分でもよく覚えていない。

話を聞いたその日どころか、数日の間、何も手につかなかった。何をしていても、思考が死んだルキウスの方に流れて行ってしまうのだ。


(やっぱり、ルキウス殿下は暗殺されたのかな……)

針仕事の手を止めながら、アリョークは漠然と考えた。

そう、考えてみれば、こうなったのは当たり前のことだった。皇后の暗殺はともかく、二人の兄皇子の死については、初めからルキウスの関連が疑われていたのだ。継承権が繰り上がった彼は、さらに上へと狙いを定めていただろうし、上位者たる皇太子や皇帝の弟は、彼を警戒して隙あらば命を狙っていたに違いない。皇位への野心の結末は、いつも二通りしか用意されていない。金の玉冠か、死か。

(それなのにわたし、どうしてルキウス殿下でなくて皇太子が死んだなんて思ったんだろう)

彼はいつでも死の淵で綱渡りしていたというのに、アリョークは毛ほども彼が死ぬとは思っていなかった。自分の鈍さに愕然とする。


彼の死にこんなにも衝撃を受けている自分にも驚きだった。

ルキウスのせいで数えきれないほど痛い目に遭ったというのに。彼が死ねば、また安泰な生活に戻れるというのに。

しかし考えてみれば、クトルリアのこの森にやって来てからまともに触れ合った人間は、師の他には彼だけだった。半年足らずの付き合いとはいえ、知人の死は、こんなにも胸を打つ。


「いつっ」

アリョークは小声で悲鳴を上げた。無意識に動かしていた針が、反対の手のひとさし指を刺したのだ。指の腹から、玉のような赤い血が膨れ出すのを見て、アリョークは我に返った。

「……しっかりしなくちゃ」

師が死んでも、ルキウスが死んでも、時は以前と変わらず流れる。アリョークの人生は、自身の死まで孤独に続くのだ。

国はしばらく荒れるだろう。大きな力の持ち主が一人いなくなったのだ、もうじきルキウスという主君をなくした貴族たちの流浪と寝返り、そして粛正がはじまるに違いない。そうなれば、彼女の薬師としての仕事も増える。


アリョークは針仕事を諦めて、繕い物を机の上に押しやった。月の光がこぼれる窓辺に歩み寄り、開け放つ。見事な満月が彼女を迎えてくれた。

「……う」

突然、アリョークは胸を抑えてうずくまった。彼女の裡で、何かが激しく暴れ回っている。

(そうか、もうすぐ……)

彼女はもうじきやって来るはずの恒例行事を思い出した。この痛みが、いつもその始まりを予告してくれるのだ。明日にもなれば、あの発作がやって来るだろう。しかし、今回に限っては、この面倒な時期の訪れを有り難く思った。

ルキウスへの複雑な思いは、ちょっとやそっとでは振り払えそうにない。しかし、気ぜわしさの中に自分を放り込んでしまえば、やがてこのどうしようもない感情も薄れていくだろう。

アリョークは窓を閉め、さっさと寝床に入った。

ルキウスのことを考えてしまう自分を何度も叱りつけながら、彼女は静かに眠りの中へと入っていった。





次の日、アリョークはかつてない爽快な気分で目を覚ました。

上半身を起こし、伸びをする。さっさと寝床から這い出し、朝食の準備を始めた。

(うん、今日はすごく調子がいい)

あっという間に朝食を平らげたアリョークは、小さな水筒を持って外に出た。家の周りをぐるりと囲むように、水筒の中の液体を振りまく。一見普通の水に見えるが、実は、これは魔法の漏泄を防ぐ結界を張る特殊な薬品だ。

なかなか作るのが面倒な薬品なのだが、この日ばかりはケチらずに使う。

それが済むと、アリョークは一息ついて家の中へと入っていった。後ろ手に扉を閉める。

これで、すべて準備は整った。あとは「その時」の訪れを待つだけ。

そう思った瞬間、アリョークは自分の全身が泡立つのを感じた。

(来た、さっそく)

激しい耳鳴りが始まる。アリョークはふらふらと歩き、なんとか椅子に辿り着いて座り込んだ。

体の中から魔力が流れ出す感覚。アリョークはその何にも例えがたい感触に、わずかに眉間に皺を寄せた。

そうしてしばらくじっとしている。彼女の魔力が、彼女の意志に関係なく形作られはじめる。




その時だった。

閉まっていたはずの扉が、予告もなく開かれたのは。


椅子の上で自分を抱きしめるように体を丸めていたアリョークは、慌てて顔を上げ……次の瞬間、目を見張った。

扉を押し開いたのは、一人の男だった。燃え立つような赤毛、それに相反するように冷たい灰青の瞳。

「うそ…………」


アリョークは茫然と呟いた。

死んだはずのルキウスが、そこに立っていた。





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