第2章1ー6
アミ達が地球のワラコという街で早々と迷い込んでしまった人々の心の錯覚や偶像、その宮殿のなかにメスを入れた日から、3ヶ月が経過した、とある日のことだった。
ある問題が、赤ちゃんのようになった、王の耳に届いた。
人類史においてもそうだったのだが、わりと初めの頃というものは、戦争や民族紛争、花の喧嘩が絶えないものだ。今、わたしは「花の喧嘩」と言ってしまったが、喧嘩にさえ花を添えなければならないというものは、極めて遺憾でもある。喧嘩も勢いがあり、なかなか面白いものだ、と、喩えざるを得ないものをわたしは感じてしまう。人類は何を喚こうが、一蓮托生なのだから、まあまあ喧嘩してしまっても、だんだんと仲良くなっていきますよ。いわば「喧嘩するほど仲がいい」という諺と同じであって、なんとか前向きに顕せてはいるし、確かにゴツゴツした角と角がぶつかりあって、角が削れていったり、時には、ボキッと折れて、だんだんと円くはなっていくものだが、本来はこのような喩えというものは、やはり、無くなっていかねばならないことを暗に示しているものでも、あるように、わたしは感じて止まない。狂おしいほどに。しかも喧嘩したお相手さんやその家族、あるいは自分が亡くなってしまったら、何の改善と成長、懺悔、改悛が、このセッカクノ地球上であるのだろうか(死刑制度もいつかは、無くならなければならない)。もちろん、今世だけでは無いのであり、来世では上手くいくかも知れないという可能性はもちろんあるが、、そんなことは「明日やろうは、バカやろう」である。今世は一度切りであり、今、やっていかなければ、余計に時間が掛かってしまうことは、容易に受け入れられることだ。それは、小学生が宿題を放置してしまって、ゲームをやっているのと全くもって同じである。
宿題を出来るところからやっていこうよ。
先生に怒られちゃいますよ。
(ここでいう先生とは、神であり、神が怒れば、恐ろしい天変地異が起こります。天災とこれを言う人もいれば、人災とこれを言う人もいます。わたしは、後者です。だって、宿題やっていない放蕩者達は、自分達、人類だもの・・・わたしのなかにいるナマハゲより)
輪廻転生ですら、ひとつの魂の物語であるのだから、第7話で心の部屋がごちゃごちゃで死んだ場合は、次の人生である第8話も、心の部屋がごちゃごちゃでスタートするものである。神様は、自発性や自主性を非常に重んじる方でもあると、わたしは思う。
言われなくても、宿題を出来るところから、やっていこうよ。
なんなら宿題を終わらせちゃおうよ。
解脱。
だから、少しずつでもいいから心の部屋を片付けていこうね。
仲直りしていこうね。
こういった課題というものは、やはり着手すべきである。ましてや、勝ち負け、成功や失敗、敵や味方という二元的な次元の問題ではないのである(たとえば無敵とは、敵がいないことを指す。この世界には、元々、味方しか、ミ・カ・タ・しかいないこと。これこそ、本当の無敵状態。マリオで言えば、スターの取得である。まお百科事典より)。この世界は一元ではないですか。
世界はひとつ。
アミ達の時代も、まさにその課題が山積みであった。ワラコの街も、とうとう異国の者達(わたしとしては、大きく捉えれば、地球国や宇宙国であると、思っている為に、異国などと、これっぽっちもぽっきりも言いたくないのだが)に、狙われることになった。
これを配下の僕から聞いた、ワラコの王は、とうとう神様に、おんぶにだっこ状態ではおれず、自らハイハイでも、杖をついて歩いてでも、会わなければならない人がおり、
ついに、その時がやってきた。