文末は哀の音からあてはめて
短いふたりの話しです。
手を握った。
月明かりの光が漏れる、小屋の中で。
時が止まったこの空間の中で、遠くから聞こえる虫の声だけが僕らに時間の流れを教えていた。潜むように呼吸をする彼女のことをそっと覗き見ても、表情はよく分からない。ただこの小さな細い指先が、僕の手をしかと握るだけで、それだけでもうなんだって良かった。力を入れたら折れてしまいそうな手を、そっと包むようにして再び握る。お互いの重なる体温を中心にして、僕たちはひとつになったようだった。
「朝が、いつまでも来なければいいのにね」
彼女が、唐突に口を開いた。
僕はただ、黙って少し俯いた。
関係だけが揺るぎない僕たちの目線も、気持ちも、もう随分と変わってしまった。こんな埃臭い小屋の中でだって、お互いの手と手が触れる距離にいて、目を見て笑っていられるだけでいいのに。それ以外は何も望まないというのに、現実はそれすらも叶わない。明日から君は、僕の前からいなくなる。
「私たちが初めて会った日のこと…覚えてる?」
黙ったままの僕をみかねて、彼女がまた口を開いた。狭い空間の中で、鈴のように響く彼女の声が首元をくすぐる。なんだか、たまらなく泣きたいような気持ちになった。
私はね、と彼女は続ける。凛と転がる彼女の音を聞きながら、僕はまぶたの裏にあの日の記憶を思い写した。
「一つ年が上の男の子が来るって聞いて、すごく楽しみにしてたし、すごく緊張したわ。年が近い人なんて初めて会うから、絶対に仲良くなりたくて。その日が来るまで、毎日指を折って数えてたわ」
彼女の声からは、感情を予測できるほどの熱はなかった。それが一層、僕の目頭を熱くさせた。
小さな頃から言い聞かされてきた、宝物みたいな女の子。初めて会った彼女は、大人たちに隠れて恥ずかしそうに笑っていた。会った瞬間、ストンと心に落ちた物は未だに僕の心の真ん中にある。
守らなきゃ。
言い聞かされていた僕の役目よりも、本能がそう思わせた。それこそが僕の使命なんだと、小さいながらに強く感じながら。
またも沈黙が続く小屋の外で、夜が明けていく気配がする。
いつの間にか、彼女は僕の肩に頭を預けて、一定のリズムを刻みながら寝息をたてていた。
「好きだよ、沙羅。誰よりも、何よりも 」
沈みゆく月が、もう二度と手の届かないところへと、この言葉を携えていくように。彼女の頬に伝った一筋の涙に、囁くようにして願った。
出会ってから初めて呼んだ彼女の名は、哀しいくらいに愛しい響きがした。
月が沈むと、当然のように朝が来た。
外れにある小屋を後にして屋敷に戻ると、皆が血相を変えて彼女の元へと駆け寄った。
「お嬢様、どちらへいらしてたんですか」
「皆朝早くからずっと探していたのですよ」
「こんな日にも悪戯なさるのはおやめください」
口々にそう言った後、彼女の後ろに並ぶ僕の存在に気がつくと、皆一斉に口を閉ざした。それからまさかと口を開きかけたとき、
「少し、片付けをしていたの」
僕の前に立つ彼女が、口を開いた。
「とても大事なものだけれど、持っていけるものではなかったから、壊れないように…誰にも見つからないように、仕舞っておいたわ」
もう誰も、何も言わなかった。
さぁ、準備をしましょうか。そう言って振り返った彼女は、いつも通りの笑顔だった。
迎えの馬車が来たのは、予定よりも少し早い時間だった。大きな花束を抱え、綺麗なスーツを身にまとった男が、彼女へとまっすぐ歩み寄った。絵になるわね。隣で囁いた女中の言う通りだった。昨夜が夢だったかのように、僕と彼女の距離は遠い。ゆったりとしたドレスのひだに添えられた、その細い指先に触れることさえも許されない。
お嬢様。どうか、お幸せに。この世の誰よりも、幸せになってください。いつまでも笑っていてください。私のことなど、忘れてください。どうか、どうかーー
「幸せになりなさい!誰よりも、何よりも」
凛と、鈴の音が響いた。
沈んでいた目線を上げ、風が吹く先を見ると、何よりも眩しい顔があった。主語のない彼女の言葉は、誰に向けられているのかは分からない。屋敷に仕える使用人、全員に向けられているのかもしれない。けれど、これはたったひとりに向けられたものだと、僕には分かった。
緩んだ場所から、堰き止めていたものが溢れ出さないよう、息を細めて目をつむる。
月はいま、地球のどこを廻っているだろうか。もう一度、同じ形で出会えるだろうか。
「お嬢様のお側に仕えることができて、大変、幸せでございました」
胸に手を当てて、深々とお辞儀をした。隣にいた女中も口々に感謝を述べて、それに続いた。
決して口にできない、切実な五文字の言葉を感謝に乗せて。馬車に乗り込む彼女の後ろ姿を見送りながら、誰にも届かないよう呟いた。
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