乙女は甘味をご所望です(三十と一夜の短篇第23回)
○ある、ひるさがり
急に、音が遠ざかった。
まわりで輪になって話す友だちの声。近くでふざけている男子たちのばか笑い。教室のあちらこちらに広がるざわめき。
水のなかから陸の景色をみているように、なにもかもが遠ざかる。
耳にワタでも詰まってるような感じ。詰めたことないけど。
ふわふわしたワタは耳のなかだけじゃなくて、あたしの頭のなかまで詰まっているみたい。
(なんか、つまんない)
なんの前触れもなく、そう思った。
「ね、やっぱあのドラマ最高だよね」
話しかけてきた友だちの声が遠くから聞こえて、とっさに「そうだね」なんて返すけれど。
きのう見たはずのドラマを思い出してみても、ちっともおもしろいと思えなかった。見ていたときにはそんなことなかったのに。
頭のなかはワタが詰まったみたいにいろんなものが遠く感じられて、すこしも楽しくなんてない。だけど顔は勝手に笑ってる。あたしの口からはいい加減な相づちと乾いた笑い声がもれていた。
(なにこれ、気持ちわるい)
頭と体がくっついていないみたいだった。
たくさん名前を覚えているイケメン俳優の話題が出ても、その輪に入りたいと思えない。
まいにちチェックしている新作の化粧品を持っている子に気がついても、うらやましいと感じない。
流行りのカフェに行く約束をしている子たちの仲間に入れてもらう気にならないし、発売したてのファッション雑誌をのぞく気力が湧かなかった。
(あ、なんかやばい。だめだ、これ)
なにがやばいかはわからない。
けれども、きょうはもうだめだ。
どんなことがあってもテンション上がらない。ワタがぜんぶはね返しちゃう。
なんにもやる気になれないっていうことだけ、はっきりわかる。
このままじゃとんでもないミスをする。
つまらないことを言ってしまう。クラスの輪に入れないような人になってしまう。教室で大きな声を出せないような立ち位置になってしまう。
そう思ってすっと冷える心さえも、どこか遠かった。
もうどうだっていいと思う気持ちと、いまのグループから弾かれるのはまずいと思う気持ちがせめぎあっているとき、担任の先生がやってきた。
帰りのホームルームの時間だ。
ほっとした。
いつもなら盛り上がっていた話題が途切れるからその姿を見ると気持ちが落ち込んだ。なのに、きょうは助かったと思った。集まっていた友だちがそれぞれ自分の席に戻っていくのを見て、ああ良かったと感じた。
あれ以上はなしを続けていたら、きっとしくじっていた。
けれど、ただ座っていつものあたしらしくすることすらめんどくさい。
ホームルームが終わるまであとすこし。あとすこしだけいつもの笑顔でいればいい。
笑顔をキープすることに夢中で担任からの連絡事項を耳で拾えないけれど、きっとたいしたことは言っていないはず。
「ごめん、さき帰るね」
やけに長く感じたホームルームが終わり、担任が立ち去るとすぐにかばんに手をかけた。
なんでもない風をよそおって、いつもどおりの軽い笑いを浮かべることを意識しながら席をたつ。
「えぇー、いっしょに買い物いこーと思ってたのにー」
引き止めるような友だちの言葉がうっとうしい。
落ちてしまいそうになる笑顔の仮面。もう落ちてもいいかな、なんて思ってしまうのをどうにか耐える。
「ほんとごめんって。きょうなんか眠くってさ。早めに帰ってドラマの時間まで寝るわ。きょうのドラマも見逃せないし」
かるい謝罪にほんのすこしの申し訳なさを浮かべた顔を添えて、かるい内容を心がけて返す。
心なんてかけらもこもっていないけれど。
きっと、いつものあたしらしく振る舞えたのだろう。明るく伝えられたのだろう。
口をとがらせた友だちが仕方ないなあ、という表情に切り替えたのを確認して、歩きだす。
きちんとあちらこちらに声をかけながら、にこやかな顔でかろやかな足取りで教室をあとにする。
せいいっぱいのあたしらしいで体をおおって、学校から遠ざかる。
(もう、むりだ)
あがっていた口角が力をなくしたのは、もうすぐ家だと意識してから。
貼り付けていた笑顔は落っこちた。しゃっきり伸ばしていた背中は丸まって、うつむき加減にのろのろ歩く。
近所のひとに見られるかもしれない。いつも愛想のいいあたしの不細工なところ。
そんなことをちらりと思ったけれど、そう思ったことさえワタにくるまれてもうどうでもいい。
明るく元気な女子高生っぽくする気になんてなれない。
ふらふらと家にかえって、そのまま布団にもぐりこんだ。
○そのひの、たそがれ
もぞもぞと布団からはいでると、部屋のなかはまっくらだった。
(なんじだろ……)
まくらもとに手をやって、スマホをいじる。
画面のまぶしさにすこし目を細めながら確認した時間は、二十時を過ぎたところだと表示されていた。
「寝すぎたな……」
もう三十分もすれば、人気俳優が出ているドラマがはじまる。
リアルタイムで見てスマホで友だちと感想を伝えあって、あした学校に行ってからのスマートなやり取りのために備えなきゃいけないのに。
(めんどくさ……)
たくさん寝ても、ワタはまだ詰まったままみたい。
スマホに届いてるメッセージに目を通す気にもならないし、クラスで話題についていくためのどんな努力もしたくない。
けれどいちおう録画の予約はして、化粧を落とさないまま寝ていたから顔を洗う。
髪はぼさぼさ、顔はすっぴん。こんな姿だれにも見せられないと思いながら、べつにだれに見られてもいいや、と財布だけ持って家を出る。
なにか甘いものがほしいな、とコンビニを目指して静かな夜に足を踏みだす。
こんなとき、親がいたら夜中の外出に口出しされるのだろうか。
親が厳しいと文句を言っていた友だちをぼんやりと思いだす。その子からすると超うらやましいらしいうちの親は、まだしばらく帰らない。これはいつものこと。
あたしだってご飯くらい作れるから問題ないし、クラスで浮かないだけの装備をそろえるお金を稼いでくれているのはありがたいし。
いなくてさみしいなんてもう思わないけど、きらいなわけではない。
ただ、きょうのひるさがりに急にクラスのみんなが遠くなったよりもずいぶん前に、両親は遠ざかっているだけ。
(しあわせな家庭って、どんなのだろ)
そんなことを思ってよそ見しながら歩いていたせいだろうか。
「ニャーオ」
暗がりから聞こえた鳴き声にはっと顔を上げて、ゆれる尻尾ごしの暗いひとみと目があってしまった。それはもうばっちりと。
「……こんばんは」
舌うちしたい気持ちをおさえて、よい子のあたしが勝手に口を動かした。
猫の向こうに体を丸めて座っているのは、たぶんご近所さんの日之影さんだ。そう思ったとたん、近所の人にもよく思われたいあたしが口角を吊り上げさせる。
「……」
だというのに、返ってきたのは慌ててパーカーのフードをかぶるしぐさだけ。あいさつしてるんだから返せばいいのに。そしたらこっちもさっさと立ち去れるのに。
そんなだめだめなひとの様子を見たら、もうだめだった。
どうにか耐えていたよい子のあたしは崩れてしまった。
笑顔が消える。意識しておおきくひらいていたまぶたが下がる。かわいく財布を持っていた両手がだらりと垂れる。
いつもきらきらして見えるように気をつけているひとみは、きっと光をなくして暗くなっているだろう。
だけどかまわない。だって、そこにいる人も死んだような目をしているし。
というか、この人はいつも死んでるようなものか。
いつだったかお母さんに聞いたはなしでは仕事に行っていないらしい。けれどひるまは出歩かないで、ずっと家のなかにいて。日が落ちてから、こういう路地の暗がりなんかでときどき目撃される。引きこもりの一歩手前っていうのが、ご近所での評価。
そんなの、社会的に死んでるのと変わりない。
ちっともすてきじゃないし、楽しそうじゃない。こんなおとなにはなりたくない。そう思ってたからクラスで浮かないようにがんばってきたし、人に見られるところではいつだって気をはっていたのに。
きょうはなんだかほんとにだめな日だから、すてきな女の子でいることが楽しくないって思ってしまったから。ついうっかりこのだめなおとなに話しかけてしまう。
「なにしてるんですか」
あたしの口から出たとは思えない低い声。ぺったんこで、少しもはずんでない。可愛い女子高生はぜったい出さない、暗い声。
そんな声で話しかけられた日之影さんは、肩をびくっとさせてフードのなかで視線をうろうろさせている。
話しかけられたぐらいでそんな反応。クラスにもいるよ、そんなやつ。
いつものあたしなら優しく声をかけて、答えやすいように質問を変えてあげたりするけれど。
きょうはそんな気にならない。答えないならそれでもいいやって思ったけれど、立ち去るのもなんだかめんどくさくて、ゆれる猫のしっぽをぼんやりとながめる。
「…………あの、ねこを……」
ぼうっとしていたら、ちいさな声を聞き落とすところだった。
すっごい間をあけて返ってきたのはたいしたことない言葉。
それがなんだかすごく、頭にきた。
あたしはこんなやる気がないときでもはなしかけてやったっていうのに。このひとはおとなになってるはずなのに、あんなにながい時間をかけておいて返事ひとつも満足によこさない。
むかむかきて、いつもならおなかの中で消化してしまえる言葉を飲み込めなかった。
あたりさわりのない言葉に置きかえる間もとれず、思ったままに口から飛びでる。
「猫がどうしたのよ。そもそもあんたなにしてんの。猫とあそんでるひまがあるんなら仕事でもさがしたら? 社会の役に立てなんて言わないけど、すこしも楽しくなさそうに生きられてるとがんばって生きてるこっちまで嫌な気分になってくるのよ!」
頭がかっと熱くなって、遠ざかっていたあたしの気持ちがいっきに流れ込んでくる。自分の口を止められない。自分がなにを言ってるかわからない。
言い終わってしばらくして荒い息が整うころにようやく、飛び出した言葉が頭のなかを通って、ざっと体温が下がる。
やばい。なんてことを。
親しくもない近所のひとに、暴言をはいてしまった。それも向こうがなにかしたわけでもないのに、というかほとんどなにもしなかったことに対して勝手に腹をたてて、一方的に怒鳴りつけてしまった。
どうしよう。弁解の言葉が見つからない。
いまさらあやまったところで許してもらえるとも思えないし。
「……あの、なんか、すみません……」
ぐるぐる考えていたせいで、ちいさな声を聞き逃しかける。
いま、なんて言った?
あやまった? 暴言をはかれておいて? 年下の女に言いたい放題に言われて、すみません?
冷えた頭にまた熱が集まる。
でも、押し寄せる言葉がたくさんありすぎて声にならない。あふれる言葉の出口が見つからない。
そうしてあたしがひとりで熱くなってるあいだに、目の前のフードの下から遠慮がちな音が届いた。
「でも、その。いちおう仕事はしているつもり、です……」
「はぁ?」
自信なんかこれっぽっちもない言い方に、聞きまちがいかとついうっかりガラの悪い声を上げてしまった。
それに反応してびくりとゆれる肩を見て、あたしのなかにうずまいていた言葉たちはほどけて消えた。
おびえる野良ねこを相手にしている気持ちになって、このひとと話してみたいと、どうしてか思う。
「なんの仕事、してるの」
猫を抱いてうつむいた、というか丸まってしまったその人の目が見たくて、できるだけそっけなく、なんでもないことみたいに聞いてみる。
野良ねこと仲良くなるには、向こうから来てくれるのを待つんだ、って言ってたのは誰だったかな。
「…………」
長い沈黙もさっきほどいらだたない。
逃げられたなら、まあそれでもいいし。
「……いちおう、文章を書いてお金をもらっています……」
蚊の鳴くような声って、こういうやつかとはじめて知った。
ひざの上の猫にあごを押されてようやく答えをよこしたその人に、あたしは「ふうん」と返して足を前に出す。
だめなおとながうずくまる街灯が届かない路地に、足を踏み入れる。怖くはない。むしろ、目の前の人のほうが恐怖を感じているんじゃないだろうか。
ゆっくり進んですっかり暗がりに入ってしまうと、目をおおきく開いてこちらを見上げるその人と目があった。
思っていたより若いし、意外と顔は悪くない。
ぶさいくというほどではないし、太ってるどころかむしろ細い。
自信のなさが全身から感じられるのはどうかと思うが、目元にかかる髪の毛をどうにかしたらまあまあ普通の人になれると思うのだけれど。
「どうして、引きこもりみたいな生活してるの」
うずくまる人の前にすとんとしゃがみこみ、ねこをはさんで聞いてみる。
小首をかしげるねこを抱いて、驚いたねこのように体をかたくするだめなおとなの目をのぞきこむ。本物のねこのほうがよっぽど落ち着いていて、おかしくなる。
ついうっかりくすくす笑っていると、すぐそばで目線があっちへこっちへ動きまわる。顔色も青くなったり赤くなったり忙しい人だなあ、と見つめていると、ちらりと視線があってすぐにはずされる。
「うぅ……。ほんとうは、引きこもりたいです。……けど、そんな勇気ないし、生きてもいけないので……。家でできる仕事をいただいて、せめて社会のはしっこで、邪魔にならないでいられたらいいなあ、と……」
ぼそぼそと、言い訳するように申し訳なさそうに落とされた言葉は意外ときらいじゃない。そんな自分にちょっとだけおどろいた。
「がんばってるじゃん」
まわりから見ればだめだめだけれど。子ども相手に言い返せない、ちっともおとならしいおとなではないけれど。
「なんだ、がんばって生きてるんじゃん」
かっこわるいけど。だめなおとなだけれど、それでもちゃんとがんばって生きていられるとわかって嬉しくなった。
まねしたいとは思わないけど。あたしはもっとかっこいいおとなになるに決まってるけど。
何から何までがんばらなくても生きていけるなら、ほんのすこしだけなら気を抜いてみてもいいかな、と思えて呼吸が楽になる。
「ミャウ」
なんとなく浮かれた気持ちのまま、小首をかしげてこっちを見てくるねこをなでてみる。
やわらかくてすこし湿っぽくて、熱いかたまり。
こんなのが体を預けてくれたら、なんだかそれはとてもしあわせなんじゃないかなって思う。
「このねこって、日之影さんの?」
ふと聞けば、おどろいた顔がこちらを向いた。
なんだ、目を合わせられるんじゃん、なんて思った瞬間にはもう視線はそらされていたけれど。
「いえ、あの、そんな甲斐性はなくて……でも、なんで、おれの名前……」
ねこを飼うのに甲斐性って。それに名前なんて、近所じゅうに知れ渡ってるよ。
うっかり笑いそうになるけれど、そうしたらきっとこの人はもう目を合わせてくれない気がする。
フード越しでもうろたえているのがわかる日之影さんを見ながら、あたしは頭を占めるものがちがうことに気がついた。
いつのまにか、あたしのなかのワタがすこしとけて、甘いものに変わってる。
なんか、わたがしみたい。
ふわふわしてて熱でとろける、甘いおかし。
わたがしなんてちいさいときに食べたきりだけど、なんだかしあわせな味だった気がする。
日之影さんといたら、もっとこの甘さを味わえるのかな。いつか、あたしのなかに詰まったワタぜーんぶとけちゃったり、するのかな。
体じゅうのワタがみんな甘くとろけるのを想像してみたら、それってすごくしあわせなんじゃないかと思えた。
そう思ったら、なんだかまた甘い気持ちになった。
「また、来てもいい?」
だから、がんばるための第一歩としてそう聞いてみたんだけど。
「……いい、ですか……?」
なぜかこの人は、抱えたねこにたずねてる。
あたしがねこに会いに来たいって言ってると勘違いしたにしても、なにその行動。
あたしの頭のなかが熱くなって、また甘さでいっぱいになってる。
決めた。
会いに来るだけじゃなくて、いつか頭をなでるのを目標にしよう。
本気でがんばろう。
「ニャーオゥ」
ちょうどいいタイミングで返事をくれたねこも味方してくれるみたいだから。
「じゃあ、またね」
できるだけ格好よく見えるように、くるりとまわって歩きだす。背筋をのばして、ねこのようにしなやかに。
路地を抜けるまえにちらりと見返したら、日之影さんとフード越しに目があった。やっぱり、おどろいたねこみたいに肩をびくっとさせている。
こっち見てた。ちょっとはあたしに興味を持ってくれたのかな。
そう思うと気持ちがはずむ。ほんとうは手のひとつも振りたいけれど、まだがまん。
次に会えたらどうしようか。下の名前くらい、聞けるかな。
そんなことを考えながらうかれて帰りついた家の玄関で、手ぶらなことに気が付いたけれど問題ない。
欲しかった以上の甘味を見つけた。
どうやって手に入れるかは、じっくり考えよう。
〇そして、あさがくる
いつもより早く、目を覚ます。
両親はまだ寝てるのか、それとももう仕事に行ったのか。わからないけど、いないのはいつものことだから、ひとりでさっさと朝ごはんをすませてしまう。
髪の毛をきれいにととのえて、顔もばっちりかわいくして。慣れた作業のお伴にはきのう録画したドラマを流す。
もうたいしておもしろいとも思っていないし、人気のイケメン俳優はそこまでかっこよくないような気がしたけれど。やっぱりこれまで作り上げてきたあたしを壊すのはもったいないと思うから。
きちんと引けたアイラインに満足して、鏡に向かって笑顔をつくる。
大丈夫。きょうはちゃんと笑えてる。
友だちにきのうは寝過ぎちゃったって笑って、買い物に誘おう。
おしゃれなお店とか流行りの服への熱はずいぶん冷めてしまったけれど、あたしの真ん中にはべつの熱がある。日之影さんのおどおどした様子を思い出せば、まだまだがんばれる。
それでもまたあたしでいるのがいやになっちゃったら、また並んで座ってねこを眺めよう。
頭のなかで計画を練りながら学校へ向かうあたしの足取りは、たぶん、人生でいちばん軽やかだ。