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名も知れぬ駅

 彼女の個室前の廊下には、大きな車窓から射し込む薄明が青く満ちていた。


 夜明けが近いらしい。


 この列車はスペインからポルトガルの首都リスボンへ、背後から追い掛けてくる朝日から逃がれる様に、西へひた走っている。



 車窓からの眺めにしばらく視線を浴していると、荒野に混ざる田園の比率が僅かに高まってきていることに気付いた。


 乗降口付近に灰皿を見つけ、懐の煙草に伸ばした手がピタリと止まる。


 バックパックはもちろんのこと、いつも煙草を放り込んでいるオイルドジャケットも彼女の部屋に置き忘れてしまった。



 自分の不注意に溜め息を吐いて、どうしたものか逡巡する。個室の扉が薄く開いて、濡れた彼女が顔を覗かせた。



「Come in.(入って)」



 それだけを短く告げると、細い腕で扉を支えて待ってくれている。


 オートロックドアなのだと気付いて歩み寄りながら礼を伝えると、彼女は紅潮した頬を微かに緩ませた。



 二人で窓際に向かい合って立ち、線路の継ぎ目を越える車輪の音色に耳を澄ませる。


 長い黒髪を櫛で梳かして、無造作に後ろへ流す彼女。


 淡桃色に輝く薄い唇。高く稜線を描いた鼻筋から、低くハミングが漏れ始めた。一つの旋律が微細に形を変えながら、幾度も繰り返されていく。


 視線で問い掛けると「私が育った地方に伝わる、古い民謡よ」と照れた様に呟く。


 身振りで続きを促しても、なぜか怒った様にこちらをジッと見つめたまま黙り込んでしまった。



 やがて、夜行列車が速度を微かに緩めるのが、身体に感じられた。何処かの駅に停車するのだろう。



「夜が明けたわね」


「あぁ。君は何処まで行くの?」


「リスボンよ。二、三日観光してから飛行機に乗って、ロンドンへ帰るわ」


「そう。オレはここで降りる」


「え、リスボンまで行かないの?」


「行くよ。でも、途中でいくつかの街に寄って、写真を撮りたいから」


「それは…… きっと素敵でしょうね」



 彼女がその後に呟いた言葉は、減速する車輪の甲高い音に紛れてよく聞こえなかった。



 白い腕がカーテンを開け放つのと同時に、長く伸びたプラットフォームが窓外を真横に流れ始める。


 列車の後方から滲む寂光に、眉稜の下の瞳が鳶色に深く沈む。


 濡れた髪が肩口に掛かって、紺色のシャツが濃色の光沢を放つ。細く鋭角に突き出した顎線、薄い唇の狭間に前歯が純白の滲みだった。



「一緒に行こう」


「……え?」


「君の写真が撮りたくなった。だから、一緒に降りよう」


「そんな……」



 僅かな逡巡。生まれたままの唇が、言葉にならない音に震える。



 やがて、揺れる視線を定めた彼女は、慌ただしく荷物をまとめ始めた。


 それでも発車時刻に間に合わないと見込んだオレは残された雑多な荷物を脇に抱え込み、彼女の手を握って走る。



 乗降口から転げ落ちる様に飛び出して、名も知れぬ駅に降り立つ。


 朝の薄明かりの中、彼女の楽しげな笑い声が初めて耳に届いた。



 プラットフォームを離れていく夜行列車。


 長く連なった車体が起こす風に髪をなびかせながら、どちらからともなく初めての抱擁を交わした。



 あの瞬間の気持ちを、二人はいまだに名付けられずにいる。




(了)

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