Follow me.
「Can I get a cigarette?(一本もらって良い?)」
窓外に向けたオレの横顔に、囁かれた言葉。
それを理解するのに数秒かかったのは、その言語に馴染みがなかったせいではない。米国英語と異なる独特の抑揚と明瞭な音の連なりが、耳慣れなかったからだ。
こんな旋律の言葉を、オレは知らない。
視線を上げる。半透明の鏡面となった車窓を介して、オレの横に立つ人物と目があった。ゆっくりと瞬きしてから、振り返る。
黒色に流れる髪、高い眉稜の下で鳶色の瞳がこちらを見つめていた。頼りない照明の元でもそこだけが薄く光を放っている、冷たい質感の瞳孔だった。
煙草の箱を振って一本差し出す。
薄い唇にそれを咥えた彼女の視線は、無垢な期待を微かに乗せてオレに向けられたまま。ライターを持っていないのだと気付いて、仕方なくポケットを探った。
オレから受け取ったそれを慣れない手つきで操り、浅く一口吸い込む彼女。その顔が、大げさに歪んだ。
「強い煙草吸ってるのね。なんていう銘柄?」
「Fortuna.(フォルトゥーナ)」
「初めて聞いたわ」
「幸運っていう意味のスペイン煙草。世界で一番売れてるらしいよ」
「それ、ホント?」
「スペイン人の爺さんが言ってた」
「この国の人って、なんでも大げさに話すのね」
唇の端を微かに歪めて、首肯。
タタン、タタン、という車輪の音色を肴に、無言のまま煙草を口に運ぶ。
天井から注ぐ琥珀色の照明に、二人分の白煙が踊っていた。
「寝過ごしたの」
「……え?」
「食堂車で晩御飯を食べるつもりだったんだけど、この列車に乗ってすぐに眠り込んでしまって。流石に、もう営業してないわよね」
「オレのチケットには食堂車での食事がついていないからわからないけれど…… もう真夜中だから」
記憶を探る。確か、街の市場で買い求めた林檎がいくつか、バックパックに入っているはず。
ガラスに高い鼻梁を近付けて窓外の暗闇に目を凝らしている彼女にその旨を伝えると、強い喜色と戸惑いが瞳をよぎった。
煙草の火を消すと、遠慮の言葉を伝える彼女に少し待つ様に告げて、さっきの賑やかな個室へ戻る。愛用のバックパックを掴んだ。
オレに気付いた老人が何か言った気がしたが、よく聞き取れない。彼に手を振って、廊下に戻る。
腕時計に視線を落とすと、既に深夜三時を指していた。
りんごを二つ手渡すと、彼女の唇が控えめに「Ta.(ター)」と呟いた。
後日、それがイギリス英語で「ありがとう」を意味すると知る。
残り少ない煙草を内ポケットに仕舞うと、途端に沈黙が降りた。
彼女の指先が、足下に降ろしたオレのバックパックを示す。銀色のバングルが、細い手首に鋭く煌めく。
「どうして、荷物を持って出てきたの」
「あぁ、同室のおばあちゃんの歯ぎしりが凄くて」
「貴方のご家族?」
「いや、違うよ。たまたま乗り合わせただけ」
「他の部屋に空いてる座席、ないの?」
「さぁ…… でも、今夜はもうここで過ごそうかな」
あの歯ぎしりを子守唄に一夜を過ごすくらいなら、線路の継ぎ目に硬く揺れる列車の音に、廊下で耳を傾けている方がマシだろう。
オレは作り笑いを浮かべてから、彼女がやってきた扉の方を示して自室に戻る様に促す。
だが、二つの林檎を抱えた長身は、眉根を寄せたまま動かない。
長い睫が縁取る、鳶色に沈んだ瞳。
その深部を彩る感情の薄片が掬い取れそうに感じられた刹那、淡桃色の唇が涼やかに言葉を紡いだ。
「Follow me.(ついて来て)」