夜行列車
時計の針が夜半に近付くにつれて、駅の待合室から人の姿が消えていった。
到着列車を知らせる構内アナウンスはない。この時間帯には駅員も不在。
時間に正確な日本の鉄道とは違って、15分くらい遅れながら到着する列車に、乗客は自分の判断で粛々と乗り込んでいく。
僅かな照明に浮かぶ駅舎。
鈍色に伸びる鉄の轍は儚げに、視野の少し先で荒野の闇に呆気なく呑まれ、溶けている。
乗り間違えない様に、少し早めにプラットフォームに立った。
オイルドジャケットのポケットから乗車券を取り出して、そこに印字された車両番号を確認する。
晩冬とはいえ気温は氷点を下回り、吹き抜ける乾風が肌に痛い。タートルネックのニットに首を埋めて、冷気を凌ぐ。
やがて、閑散としたプラットフォームの彼方に、夜行列車の灯りが滲み始めた。
ゆっくりと滑り込んでくる車体。
白地に赤いラインが二本引かれていて、搭乗扉の横には控えめな赤字のフォントで「renfe(スペイン国鉄)」の文字。
旅を始めて、気付いたことがある。
それは、移動と宿泊に掛かる費用は節約するのが難しいということ。
前者は公共交通機関を利用する限り、料金交渉などが基本的に不可能だ。
ヒッチハイクという手もあるが、長距離輸送トラックの運転手に身体を求められて殴り合いになって以降、極力避けるようにしている。移動時間中は動きが拘束されてしまうのもつらい。
そして、後者は多少の料金交渉が可能だが、地方の町村だとそもそも安価な宿が見つけにくい。春から夏に掛けては野宿で夜を越したこともあるが、安全面の不安が常につきまとう。
酔っぱらいや麻薬中毒者はまだ良い方だが、ネオナチや野犬は話が通じないから手に負えない。それに、冬の欧州では凍死してしまう。
そんなわけで、これらの諸問題を一息にクリアしてくれる夜行列車というのは、理想的な移動手段だった。
ただ、バックパッカーの例に漏れずオレも財布の中身が心許ないので、贅沢な寝台車両には手が届かない。
いくつか等級がある中で、最も安価な乗車券を求めた。
指定された車両に乗り込むと、長い廊下に沿って扉付き個室が五つ並んでいるのが見えた。
それぞれの室内には、一般車両と同じ横長の座席が向かい合って並んでいる。
リクライニングはおろか、座席の間を区切ってくれる肘掛けもない。座席指定もないので、乗客は空いてる座席を自分で見つけて、固い座面に身を捩りながら夜明けを待つことになる。
既に日付が変わっていたこともあって全ての個室が消灯されていたが、その夜のオレはついていた。
二つめの個室を覗き込んだ時に、孫を連れて旅行中と思しき老夫婦が招き入れてくれたのだ。
二言三言、形だけの自己紹介めいたことを口にしてから、バックパックを降ろして席に着く。
小学生くらいの男子が、祖父の膝の上に身体を横たえて寝息を立てていた。
車窓にはカーテンが引かれているが、都市部を離れて荒野を横断する列車の窓はどうせ暗闇しか映さない。
彼らの穏やかな寝息に緊張が緩んだのか、線路の継ぎ目を車輪が越える単調なリズムにオレの意識もやがて曖昧になっていった。