自販機通りの夜
どんなに奇妙な光景であっても、それが昔から身近にある、日常的に見慣れた景色であれば、そのおかしさに、人はなかなか気づかないものだ。
たとえば――。
少女にとっては、通称「自販機通り」と呼ばれるその道路が、ちょうどそんな場所だった。
「いったい、何なんだろう。あの、自販機通りってやつは――」
とある夜更けに、少女は、自室の勉強机の上で頬杖をついて、そのことを考えていた。
学校の教科書やノート、問題集、受験用の参考書は、ぜんぶ机の端に寄せて、積み上げて。今、少女の勉強机の真ん中には、勉強とは一切関係のない、一冊のミニノートが置かれている。
そのミニノートの表紙に、少女は油性ペンで〈自販機通りの謎〉と書き込んだ。
「さて、と」
油性ペンの文字が乾いたのを見計らって、少女はおもむろにノートを開いた。そして、シャープペンを手に取ると、そのペン先を、まっさらな一ページ目へと向けた。
「何から書けばいいかな。ええ、と……」
呟きながら、少女は、家から徒歩一分半の近所にある、"あの道路" のことを思い浮かべる。
――自販機通り。
そこは、人通りの少ない住宅街の裏道に、数十台もの自動販売機がひしめいているという、異様な道だ。
とはいえ、少女にしてみれば、それは子どもの頃から当たり前のようにそこにある、馴染み深い光景であった。そのため、少女は長年の間、その道のことを特に気にかけることなく過ごしてきたのである。
少女が、ふとその道に興味を持ったのは、わりと最近になってからのことだ。
それはおそらく、受験生という期間に突入したことが、一因だったのろう。毎日毎日勉強に追われ、忙しいながらも退屈な日々を送る中、何か勉強とはぜんぜん関係ないことを考えて、気を紛らわせたかったのかもしれない。一種の現実逃避である。
ともあれ、そうしていったん気になり出すと、次々に疑問が湧いてきた。
むしろ、どうして今まで疑問を抱かずいられたのか、少女は自分でも不思議に思った。
考えれば考えるほど。そして、調べれば調べるほど。「自販機通り」と呼ばれるその道は、ひたすら謎にまみれていた。
「よし。それじゃあ、謎を一つ一つまとめていこう」
独りごちつつ、少女は白紙のノートにペンを走らせる。
〈謎①・・・どうして、あんなにたくさんの自販機があるのか?〉
そう書いて、少女は誰にともなく、一人でうなずいた。
やはり、そもそもの謎といえば、そこだろう。あの道に置かれた、自販機の数と密度。
道路の両脇に、向かい合って等間隔に並ぶ自販機の数は、先日少女が数えてみたところ、全部で実に四十八台であった。はるか先まで、途切れることなく行く手に連なる、左右合わせて五十台近い数の自販機。その光景は、もはや自販機の並木だ。
「それから……」
少女は、さらにペンを動かして。
〈謎②・・・あの自販機では、いったい何が売られているのか?〉
謎①の下に、いくらかの空白を開けて、そう書き込んだ。
これもまた、①と同じくらいに大きな謎だ。いや、気になる度合いで言えば、①にもまさる謎と言えよう。
自販機通りの自販機は、なんの自販機なのか、わからない。
売っている商品が、ジュースなのか、タバコなのか、はたまた、もっとありきたりでない何かなのか。あの道にある、どの自販機を、どれだけ隅から隅まで調べても、その答えを得る手がかりとなるものは、まったく見つからないのである。
自販機の正面には、普通の自販機と同じように、大きな商品陳列窓らしきものが、付いてはいるのだが。しかしなぜだか、その窓の中が、どうやっても見えない造りになっているのだ。
別に、窓が板や貼り紙といったもので塞がれているわけではない。だが、窓自体がマジックミラーのような構造にでもなっているのか、中を覗き込もうとしても、ただ窓に寄せた自分の顔がそこに映るだけで、窓の中に何があるのかは、薄っすらとさえもわからないのである。
さらには。
〈謎③・・・あの自販機では、いくらで商品が売られているのか?〉
これもまた、わからないのだ。
自販機通りの自販機には、値段表示というものが、どこにも見当たらない。
売られている商品がわからないだけなら、まだなんとか、「何が出てくるかお楽しみ」というコンセプトの、運試し方式の自販機なのかもしれない、と。そんなふうに解釈することも、できないではないだろう。しかし、そういった特殊なコンセプトの自販機であったとしても、値段表示が存在しないということは、いくらなんでもあり得ないのではなかろうか。
こんな具合に、自販機通りの自販機は、その異様な数もさることながら、そこに置かれている自販機自体もまた、謎の多いものなのだ――いや、商品も不明、値段も不明な自販機なんて、本当にもう、謎が多いどころの話ではない。
「うーん……」
少女は、少し考えてから、またノートに書き込んだ。
〈謎④・・・そもそも、あれは本当に自動販売機なのか?〉
しかし少女は、しばらくノートを見つめたあと、小さく首を横に振って、〈謎④・・・〉以降の文字を消しゴムで消した。
「やっぱり、どう見ても、あれは自動販売機だよね。形や大きさは、よくあるジュースの自販機と変わらないし。正面側には、小銭やお札を入れる投入口も、お釣りの取り出し口もあるし。下のほうには、商品の取り出し口もちゃんとある。……それに、『販売中』の文字が光ってるもの」
少女は、ノートの上の消しゴムのカスを、ふっと息で吹き散らした。
そうなのだ。
自販機通りの自販機は、何が売られているのかも、それがいくらで売られているのかもわからない、ひどくおかしな自販機であるが。しかし、その二点を除いたほかの特徴は、まさしくよく見る自動販売機のそれなのだ。
少なくとも、「販売中」という三文字が光っているからには、あれらが何らかの商品を「販売」するための機械であることは、間違いない。
「あとは……そうだな。自販機の色についても、書いておこう」
と。〈謎④・・・〉の続きを、少女は、次のように書き直した。
〈謎④・・・なぜ、自販機をあんなふうに色分けしてあるのか?〉
ここまで書き出してきた謎に比べれば、これは些細なことにも思える。とはいえ。このことも、なかなか気になる問題だ。
自販機通りの自販機には、その外装に、二種類のものがある。
赤色の自販機と、灰色の自販機だ。
灰色はともかくとして、赤い外装の自販機なんてものは、珍しくない。街を歩いていても、そこここで見かけることがある。
だが、自販機通りにある自販機のおかしなところは、その外装が完全なる「無地」である点だ。つまり、普通の自販機にはある企業のロゴなどが、いっさい書かれていないのだ。正面にも、側面にも、文字も絵も何もない。ただただ、一つの色でべったりと塗装されているだけ。それは、赤色の自販機も灰色の自販機も同様である。
二種類の自販機は、その配置において、特に規則性や法則性はないように見受けられる。道の片側に一方の色のものが固まっているわけでもないし、一つの色を何台続けて並べている、といった決まりがあるわけでもない。赤色と灰色の自販機は、道の両側ともに、ただごちゃ混ぜになって並んでいるとしか思えない。
数の割合に関しては、それも先日数えてみたところ、赤色よりも灰色の自販機のほうが、やや多かった。
「あの色分け、なんの意味があるんだろうな。色分けの基準はわかってるんだけど……」
謎にまみれた自販機通りに関する諸々の中、そこだけは、明確に答えが出ていた。
「販売中」のランプが点いている自販機は、赤色。
そのランプが消えている自販機は、灰色。
自販機通りの自販機は、すべてそのように色分けされていた。
灰色の自販機に、再び「販売中」のランプが灯ることはないようなので、おそらくあれらは、もう二度と稼働しない自販機なのではないだろうか。
つまり、より正確に言うならば。
まだ稼働中の自販機は、赤色。
もう使われなくなった自販機は、灰色。
自販機通りの自販機は、そういう基準で色分けされているのだ。
「でも、それがわかったところでなあ」
ペンを持ったまま、少女は腕組みして首をひねる。
稼働中の自販機と、もう使われることのない自販機を、色分けする。それって、考えてみれば、ひどく妙なことだ。機械の外装を、わざわざそんな基準で塗り分けることに、いったいなんの意味があるというのか?
「と、いうか。そもそも――」
少女は、腕組みをほどいて、またノートに書き込んだ。
〈謎⑤・・・あの自販機を、どこの誰が設置しているのか?〉
これは、根本的な謎である。
自販機通りに興味を持ち始めてからというもの、少女は今日に至るまでの間、聞けるだけの人に自販機通りのことを聞いて、情報を集めようと試みてきた。
しかし、成果は芳しくなかった。友人に聞いてみても、昔からこの辺りに住んでいるという大人に聞いてみても、これまでノートに記してきた五つの謎は、どれ一つとして解けることがなかったのだ。あの自販機が、何者の手によってあそこに設置されているのかということも、知っている人は誰もいなかった。
考えれば考えるほど。調べれば調べるほど。どこまでも謎が深まるばかりの自販機通り。
それでも、ああいうものが、ああしてあそこに存在する以上は、何か意味があるはずだ。
「意味、か……。〈販売機〉なんだから、それを使って商品を買う人がいなきゃ、意味ないよね。だけど、あんなおかしな自販機を、いったい――」
少女は、ノートに六番目の謎を記す。
〈謎⑥・・・あの自販機を、どこの誰が使っているのか?〉
商品も値段もわからない自販機など、そもそも使う人がいるのかどうか。でも、一向に撤去される気配がないのだから、それは、あそこにある自販機を、誰かが必要として使っているということなのでは?
しかし――。
ついこの前。少女は好奇心を抑えきれず、「販売中」のランプが灯っている赤い自販機の中から、適当に一つを選んで、試しに小銭を入れてみた。だが、投入した小銭は、そのまま機械の中を素通りして、釣り銭口に落ちてきてしまったのだ。紙幣でやっても同じことで、いったんは機械に吸い込まれた千円札が、間を置かずに吐き出されるだけだった。ほかの赤い自販機も試してみたが、何台やっても、どれも同様の結果であった。
――「販売中」のランプが点いた赤い自販機も、実際には、故障中なんじゃないか?
そう訝しみ、それならばどうしようもない、と、少女はあきらめかけていた。
けれど、あるとき、こんな噂があることを知ったのだ。
『自販機通りの自販機を、けっして夜中に使ってはいけない』
噂の内容は、ただそれだけで、「夜中に使ってはいけない」のがなぜなのか、その理由はわからない。
だからこそ、気になる。
それに、「夜中に使ってはいけない」ということは。
言い換えれば、自販機通りの自販機は、夜中であれば使用することができる、ということかもしれないではないか。
少女がこの前、あそこの自販機を使おうと試してみたのは、まだ昼間のことだった。夜限定で使える自販機なんて、まったくおかしな話だが。自販機通りに関して、おかしな話は、今に始まったことではないのだから。可能性としては、否定しきれない。
もしかしたら、この噂によって、自販機通りの謎を、いくらか解き明かすことができるかも。
そう思いながら、少女はひときわ力を込めて、ノートにこう書き込んだ。
〈謎⑦・・・夜中にあの自販機を使うと、何が起こるのか?〉
+
〈謎①・・・どうして、あんなにたくさんの自販機があるのか?〉
〈謎②・・・あの自販機では、いったい何が売られているのか?〉
〈謎③・・・あの自販機では、いくらで商品が売られているのか?〉
〈謎④・・・なぜ、自販機をあんなふうに色分けしてあるのか?〉
〈謎⑤・・・あの自販機を、どこの誰が設置しているのか?〉
〈謎⑥・・・あの自販機を、どこの誰が使っているのか?〉
〈謎⑦・・・夜中にあの自販機を使うと、何が起こるのか?〉
ミニノートに書き記した自販機通りの謎は、図らずも、ぜんぶ合わせて七不思議になった。
それを書き終えるやいなや、少女はもう、居ても立ってもいられなくなり、今晩やる予定だった勉強と宿題を完全に放り出し、こっそり家を抜け出した。
そうして、家から徒歩一分半の近所にある、自販機通りにやってきたのだ。
昼間でさえも人通りの少ない道は、この時間帯、申しわけ程度に道路を照らす街灯の下で、いよいよひっそりと静まり返っていた。時折、大通りのほうから、自動車の走行音が聞こえてくる。夜道に響く自分の足音が、何に遮られることもなく、真っすぐ周りの暗がりに吸い込まれていく。
「そういえば……。ここの自販機、昔は、こんなにたくさんあったっけ……?」
自販機の並木の間を歩みながら、少女はふと呟いた。
少女は、幼い頃の記憶を手繰る。してみると、やはり、その頃の自販機通りといえば、今よりもずっと距離が短かったように思うのだ。両側から道幅を狭められ、車がすれ違うことができないほどに、そこだけ道路が細った箇所。前触れもなく唐突に現れるその道のくびれは、少女がまだ小さな子どもだった頃には、確かに、こんなにも長々と続いてはいなかった。
いつの間に、ここまで増えたのだろう――自販機。
あるとき一気に自販機の数が増えたのだとしたら、いくらなんでも気がつくはずだ。
きっと、長い月日をかけて、徐々に増えていったのだろう。それなら、なまじしょっちゅう通る道であるだけに、気づけないのも無理はない。ちょっと前までは、ここの自販機の数なんて、いちいち意識して通ってはいなかったのだから。
自販機が最後に数を増やしたのは、はたして、どれくらい前のことなのか。何年も前なのだろうか。あるいは、最近になってからも、まだ増えたりしているのだろうか。これからも、この道の自販機の数は、増え続けていくのだろうか。そうだとすれば、いつ、何をきっかけにして、それは増えるのだろう――。
ああ、また謎が増えていく。
でも、とにかく、今は。
「とりあえず、用事を済ませて、さっさと帰ろう。近所とはいえ、夜の道は怖いもの……」
少女は、この前と同じように、赤い自販機の中から適当に一つを選んで、その前で足を止めた。赤い自販機だから、それにはもちろん、ちゃんと「販売中」のランプが灯っている。
一応、商品陳列窓を覗き込んでみるが、昼間と変わらず、窓の中はやっぱり見えない。値段の表示も、相変わらずどこにもない。
それでも、昼と夜とでは、何かが変わっているのだろうか。
少女はポケットから小銭を取り出し、百円玉を一枚、投入口に押し込んだ。
ガチャコン、と音を立てて、機械の中にお金が落ちる。
その途端。右下の、いちばん隅にあるボタンのランプが、一つだけ、赤く灯った。
「やった!」
と、少女は思わず叫んだ。
昼にお金を入れたときは、まったくの無反応だったのに。ボタンのランプが灯ったということは、普通に考えれば、そのボタンに対応する商品が、購入可能になったということだろう。この自販機は、本当に、夜になると使えるようになるのだ。
「百円だと、一種類の商品だけなのか。ほかのボタンは、あといくら入れたら光るんだろう?」
それも少し気になったが、百円で買える商品があるのなら、ひとまずはそれでかまわない。
この自販機で、いったい何が売られているのか。
その謎が、これで、いよいよ解けるのだ。
「よし。……それじゃあ」
少女は、ごくりと唾を飲み込んで、赤く光るボタンに指先を近づけた。
――自販機通りの自販機を、けっして夜中に使ってはいけない。
例の噂が、ちらりと頭をよぎる。
けれども、少女はどうしても、好奇心を抑えることができなかった。
一つ、ゆっくりと息をして。
少女は、そのボタンを押した。
+
気がつくと。
少女は、何か、箱のようなものの中にいた。
顔の前には、透明な窓がある。そこから、自販機通りの道路が見える。
街灯の明かりに照らされた、その道路の真ん中で。
何人もの人たちが、何やら黒い布のようなものを取り囲んで、群れ集まっていた。
彼らは、みな道路にしゃがみ込んで、その黒い布のようなものを、各々の手で貪るように破り、千切り取っている。
――なんだろう、あの人たちは。
「箱」の中からその光景を見つめる少女の前で、そいつらは、黒い布のようなものを、音もなくどんどん引き裂いていく。
――なんだろう、あの、黒い布のようなものは。
それは、どこかで見覚えのあるものだった。けっして珍しいものではない。なんだったろうか。身近にあって、ごく日常的に目にしているもののような気が――重さも軽さも、硬さも柔らかさも、ほんのわずかな厚みさえも感じさせない、そんな質感を持った、あれは。
そのとき。勢いよく切れ端をむしり取った一人が、その勢いのまま、一瞬、大きく腕を振り上げた。
〈そいつ〉の手に掴まれた、ひと塊の切れ端が、街灯の明かりの下に晒される。
それは、くっきりと五本の指をはやした、人の手の形をしていた。
――ああ、そうだ。
影。
あいつらが群がっている "あれ" は、人の影だ。
でも、そこには、影だけしかない。影の本体である「人」は、どこにもいない。では、あれはいったい、誰の影なのか。
少女は恐ろしくなり、その場から逃げだそうとした。
けれども、少女の体は、立ったままで、箱のようなものの中に閉じ込められている。動こうとしても、動けない。
なすすべない少女の前で、「影」に群がるそいつらは、それをさらに小さく細かく、ばらばらにしていく。
そうして、やがてそいつらは、地面に散らばった影の欠片を残らず拾い集めると、一人、また一人と立ち上がって、各々の方向へと散っていった。
そのうちの一人が、動けない少女のほうへと、近づいてくる。
〈そいつ〉は、少女の真正面までやって来て、立ち止まった。
少女は息を呑んだ。
〈そいつ〉の姿は、人間のものではなかった。
〈そいつ〉には、顔がなかったのだ。――いや。ない、というよりも、見えない。顔だけではなく、間近で見た〈そいつ〉の姿は、全身に暗い靄のようなものを纏っていて、その輪郭が、街灯の明かりの下で、絶え間なく小刻みに揺らめいていた。
そんな中で、唯一、鮮明に見えるものがあった。それは、暗い靄の中から突き出した、角だった。〈そいつ〉の頭には、やけに歪な形をした、ひょろりと細い角が生えていた。
〈そいつ〉は、少女の入っている「箱」に向かって、おもむろに片手を伸ばした。
その指は、今しがたそいつらに引き裂かれ、小さくばらばらにされた影の欠片を、摘まみ持っている。ちらりと少女の目に映ったその欠片は、二つあった。一つは、少し大きめの木の葉ほどの切れ端。もう一つは、小銭ほどの小さな破片――。
二つの影の欠片は、音もなく投入口に吸い込まれた――のだろう。
その直後、少女の目の前の窓に、何十もの小さな赤い光が、一斉に灯った。
整然と並んだ光の列。それは、商品ボタンのランプだった。窓の内側にいる少女にも、それは見えていた。ランプの光の下に浮かび上がった、そこに書かれた文字も、また。少女のいる側から見ると、それらの文字は、すべて左右が反転した、裏文字になっていた。
少女の前に立つ、黒い靄を纏った〈そいつ〉が、人差し指を立てた手を、迷うように揺らす。その指が、少しずつ近づいてくる。
やがて、〈そいつ〉は一つのボタンに狙いを定めて、それを押した。
【腕】という文字の上にあるボタンを。
ピ。
シンプルな電子音が鳴った、その瞬間。
少女の片腕が、ぶちり、と音を立てて千切れた。
「ぎゃああああああああっ」
少女が悲鳴を上げると同時に、千切れた腕が、ぼとりと足元に落ちる。落ちたそれは、少女の爪先の向こうへ転がって、見えなくなった。
黒い靄を纏う〈そいつ〉が、窓の前で身を屈めた。
そして、すぐに再び身を起こした〈そいつ〉は、窓に背を向けて、少女の前から去って行った。
去り際に見えた〈そいつ〉の手は、手を握っていた。
肩から先のない、腕だけの手を。
それからも、夜が来るたび、〈やつら〉は自販機通りにやってきた。
各々の手に影の欠片を持ったそいつらは、"少女" の前まで来て立ち止まることもあれば、"少女" の前を素通りすることもあった。目の前で立ち止まられ、影の欠片を持った手を伸ばされても、少女にはどうすることもできなかった。どうすることもできないのは、〈やつら〉のやってくる夜の間だけではなく、昼間であっても同じだった。夜だろうと昼だろうと、少女はずっと動くことができず、閉じ込められた"そこ" から抜け出すことはできなかった。
少女の前にやってきて立ち止まった〈やつら〉は、いろいろなボタンを押していった。【目玉】【足】【頭髪】【指】【耳】【爪】【背骨】【血液(200ml)】【血液(500ml)】【歯】【舌】――。
商品ボタンの中には、一度か二度押されただけで「売切」の文字が表示されるものもあり、ひとたび「売切」になったボタンはそれきりもう、二度とランプを灯すことはなかった。
「売切」と表示されたボタンは、日が経つにつれ、どんどん増えていった。
そして。
一つ目のボタンが押された日から、どのくらいの月日が経った頃か。
何カ月か。あるいは何年か。あれから自分が、果たしてどれだけの間「ここ」に閉じ込められたままでいるのか。少女には、もうわからなかった。
この日は、よく晴れた日だった。
その陽射しも、すでに西の向こうへ遠のき、もはや少女の目に映ることのない「窓」の外の景色は、次第に色彩を失っていく。やがてそれは、街灯の明かりが届くわずかな範囲を残して、闇に呑まれ。
――また、夜が訪れた。
――夜と共に、〈やつら〉がやってきた。
〈やつら〉の一人が、"少女" の前で、足を止める。
影の欠片を摘まみ持つ、黒い靄を纏った手が、"少女" に向かって、ゆっくりと伸ばされた。
一つ、間を置いて、商品ボタンのランプが灯る。
少女の目の前にある商品ボタンは、
「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」
もはや、暗いままのボタンの中に、その電光の二文字が表示されているものばかりだ。
そんな中、まだランプを灯すボタンが、一つだけあった。
最後に残った、その【首】のボタンを、黒い靄を纏う指は、ためらいなく押した。
ピ。
その指が、ボタンを離れると同時に、すべてのボタンの表示が「売切」となった。
ぼとり。
"商品" が、取り出し口に落ちてくる。
生温かなそれが、黒い靄の手によって取り出され、ぽたり、ぽたりと、アスファルトの道路に染みを垂らした。
その染みが、夜風に吹かれて冷え切るかどうかのうちに。
「販売中」のランプが、二、三度短く点滅したあと、静かに消えた。
+
明くる日。
朝の陽射しに照らされ、再び色彩を取り戻した自販機通りを、登校途中の学生二人が歩いていた。
そのうちの一人が、道の端に並ぶ、大量の自販機の一つに目を留めて、こう言った。
「ねえ。この自販機って、昨日までは、赤色じゃなかった?」
その学生が指差したのは、四十九番目に並ぶ、灰色の自販機だった。
「販売中」のランプも、ボタンの「売切」表示も、すべての明かりが消えたその自販機を、二人は少しの間、立ち止まって見つめる。
「ええ? そうだっけ。どこにある自販機が何色かなんて、いちいち覚えてないなあ」
「そっか。でも、間違いないと思うんだけど。端のほうにある自販機だから、この辺の何台かなら、私はけっこう色の並び、覚えてるんだ」
「ふうん。確かに、言われてみればそんな気も……。そういえば、昨日までよりこの辺、ちょっとだけ、景色の色味が暗くなったというか」
「でしょう? やっぱり、そうだよね」
同意を得られたその学生は、嬉しそうな声を上げた。二人は、また歩き出す。
「それにしても、赤色の自販機を灰色の自販機に置き換えるって、なんの意味があるんだろうね」
「え? 置き換えてるんじゃなくて、塗り替えてるんじゃないの? ほら、使用可能な自販機ともう使えなくなった自販機と、区別しやすいようにさ」
「そうかなあ。わざわざ塗り替えるなんて、さすがに手間だと思うけど。使えなくなった自販機なら、撤去すればいいだけじゃない」
「そういえば、ここにある自販機って、ぜんぜん撤去はされないよね。どんどん増えてく一方で。半分以上が灰色の自販機なのに、それもずっとそのまんま」
「何をいくらで売ってるかも、わからないような自販機なのにね。ここの自販機を使ってる人って、ほんとにいるのかな」
謎だよね。と、二人は顔を見合わせた。
赤色、灰色、赤色、赤色、灰色、赤色、灰色、灰色、灰色……。
二色が混ざり並ぶ、自販機の並木の間を歩きながら。
「ところで、さ」
と、学生の片方が、また口を開く。
「この灰色の自販機って、何かに似てない?」
「何か、って?」
「えーと。ほら、あれだよ、あれ。灰色で、四角いのが、こうして立って並んでる――」
その学生は、少しの間考え込んだ。そして、いくつかの自販機の横を通り過ぎたあと、ふと頭の中に "それ" が浮かび上がって、「そうだ」と手を打った。
その学生は、行く手に並び立つ自販機の中から、灰色の自販機を目で拾いつつ、一言。
墓石だ。
と、呟いた。
-完-