眠姫風
プロローグ
「ふふっ。私って本当に眠り姫ね。」
そういって笑う彼女の眼は僕に向きながらも僕を捕らえてはいなかった。
彼女が最初の「ねむり」に入ってしまった直後もこんな表情を浮かべていた。
どんなに彼女の言葉が心を開いてるように感じられても、艶めく瞳が僕の姿を映
してはいても、彼女の心の奥はずっと閉ざされている。
「ねむり」の恐怖に心が締め付けられているのだろう。
僕はそんなに辛そうなのに微笑みを絶やさない彼女を見て泣きそうになる。
でも僕が泣いたら彼女は困ってしまうんだろうな。だから、ぼくは笑うんだ。
「ほんとだね。」そう言いながら。
ちょっと違うけどね、そうも言いかけたが慌てて口をつぐんだ。
王子様にキスされても永い眠りから目を覚ますことがない、そんな希望のない現
実を彼女に突き付けて悲しませてどうするのだ、と自身を叱咤した。
今は彼女が起きているこの状況を精一杯楽しまなければ、彼女を楽しませなけれ
ば、と。
5月上旬。平穏な日々を憂える人々がどこからともなく湧いてくるこの頃、日差
しは私たちを優しく包んでいる。
彼女は日差しだ。夏の強い日差しは僕を励ますときの彼女のようで、厚い雲から
覗く木漏れ日のような冬の幽かな日差しは、恥じらいつつ浴衣姿を見せてくれた
彼女のようだ。春の優しい日差しは彼女の無邪気な笑顔のようで、秋の日差し
は、そう。さっきの悲しみを秘めた微笑のようなものだ。彼女のこの微笑は無性
に僕を悲しませる。彼女が僕を突き放して自分だけの世界に行ってしまうように
感じさせるんだ。
五月上旬。強い生命のエネルギーが私たちを圧倒してしまう夏の前の静寂なひと
とき。私たちは必死に逃げ場を探している。強すぎる生命エネルギーという名の
炎に焼けつくされてしまわれないように。
彼女はメスのカマキリのようだ。繁殖活動後にオスを食べてしまって、自分も産
卵後死んでいく。そんな残酷な運命のレールに抗うことなく、それでも懸命に生
きるメスカマキリの姿は彼女の今の姿を思わせる。そして僕は間違いなく、オス
のカマキリだ。彼女に夢中になってしまって彼女から離れることができない。彼
女との出会いが僕の人生を大きく変えてしまうことを知っている。そしてその変
容にハッピーエンドは無く、僕の心を切り刻んで最後には何も感じられなくなる
ほど悲惨な運命が待っていることも知っている。それでも僕は彼女と一緒に生き
たいと思うんだ。彼女が僕の人生そのものになって、彼女が僕の人生の幕を下
ろしてくれることさえ、どこかで望んでしまっている僕がいる。
「おはよ」
彼は私が目覚めるとき、とても自然に接してくれる。毎朝私が目覚めているかの
ように。
そうして出来立てのコーヒーを出してくれるんだ。
毎朝私のコーヒーを用意しているのだろうか。
聞きたい気もするが切なくなりそうで聞けない。
私はコーヒーに口をつけるが、猫舌のせいで全然飲めない。それでも熱いコー
ヒーが飲みたくて何度も挑戦する私を見て彼は優しく微笑んでいる。コーヒー
は、前々回の目覚めの時に一緒に買いに行ったペアカップで出してくれた。
ペアカップらしく、私の赤のカップと彼の青のカップの繋げると、中心にあるそ
れぞれの半分だけのハートが合わさり1つのハートになる、という何とも可愛い代
物だ。そのカップはただの幸せなカップルの日常の象徴みたいだから、私は嬉し
くてにやけてしまう。
「なに笑ってるの」そう尋ねる彼の顔も綻んでいる。
「幸せだな、って思ったの」照れてる彼の顔を見たくて、満面の笑みで答えた。
すると彼が「僕も幸せだよ」そう満面の笑みで言い返すから、照れてしまった。
彼はいつも私を見透かす。
今回も照れさせようとした狙いがばれて、逆に照れさせられたのだ。なんて策士
なんだ、こいつは。そう心で悪態を吐くが事実は変わらない。照れてしまった。
そして返す言葉が見当たらない。
しかし、彼も完全に照れてしまった私を見てさっきの自分の発言が反芻してし
まったのだろう。
完全に照れてしまっていた。
完全に照れた2人の間に温かい沈黙が漂う。
「ふふっ」
沈黙に耐え切れないのと、恥ずかしさと彼の照れた表情を見れた喜びで、私は吹
き出した。
「ははは」
彼もつられて笑う。
あ、幸せだ。
悔しいけれど、そう痛感せずにはいられなかった。
「ね、今度目覚めたら」
私は突然思いついたかのように言う。
「今度目覚めたら一緒に善哉作って食べよ」
私の今の願いは次の目覚めが正月であることだ。私も彼も善哉が大好きだから、
彼と一緒に善哉を作りたいのだ。
・・・でもこんな些細な願いも叶わないかもしれない。
「ねむり」への恐怖が酸性雨のように止めどなく私の元に降り注ぎ、私という存
在を溶かしていってしまう。
私が寝ている間に彼が事故や病気で亡くなってしまったら?
私がもう目覚めなかったら?
私は寝ている間、生き長らえるように栄養分を点滴で与えられるだけの存在で、
生ける屍。
点滴の細い、頼りない管が生命の源なのだ。
ねむりたくない。もっと彼の側にいたい。眠りたくない眠りたくない。
「おーーい」彼はボーっとしている私に呼びかける。
「太るぞー」この男は私がわざと無視していると思って、ずっとからかっていたのだ。
なんて楽天的なんだろう。
呆れつつも彼のそんな性格に救われている自分に気づいた。
彼と話すたびに私の彼への愛が募っていく。
「うるさい、太っても私は可愛いからいいの」拗ねたように答えておこう。不安
を悟らせてはいけない。
「そういえば、今回はどれくらい寝てたの?わたし」自然に聞けただろうか。
笑顔が強張っているのが自分でもわかる。
彼が「3カ月だよ」と、さらっと答える。
「ふふっ。私って本当に眠り姫ね。」
そう言いながら私はショックでまともに彼の目を見れなかった。ショックを受け
ているのを見透かされそうで。
決して見透かされてはいけない。彼が一番辛いのだから。私はただ眠るだけ。い
つ目覚めるか分からない恋人を待ち続ける彼より私が辛い訳がないのだから。
代わりに彼の目に映る私を見ていた。長い睫毛に大きな黒目がちの瞳、栗色の少
し癖のある髪の毛をなびかせる彼の中の完璧なワタシ。
私はワタシになりきれているのだろうか。
眠りのスパンがだんだん長くなってきている。前回は1カ月だったが、今回は3
カ月だったらしい。次は1年かもしれない。
私が目覚めなかったらこの人はどうするのかな。
しばらく間があって「ほんとだね」笑いながら彼が答えた。
彼もこんな顔するんだ。
寂しさの表情と、私を気遣う表情が入り混じった顔。
彼は眠り姫なら僕のキスで目覚めるはずだろう、ってツッコミを入れていたのだ
ろうか。
私は心の中で、眠り姫じゃなくて、眠り姫風だね、と訂正しておいた。
彼がまた私の心を見透かしたかどうかは分からない。でも、きっと見透かしたこ
とだろう。
それから先の会話中ずっと彼の眼差しは、私の今にも引き裂かれそうな心をそっ
と包み込んでくれる優しいものだったから。
一日は早い。
彼の3カ月間の話を聞いているだけで楽しく、飛ぶように時間は過ぎてしまって
いた。
時計の針は午前4時ちょっと過ぎを指している。
私の「ねむり」は不思議なもので朝日が昇ったときに目覚め、次の朝日が昇る時
刻に眠ってしまうというメカニズムのようだ。
もうすぐ朝日が昇ってしまう。
モヤがかかったように彼の顔が霞んでいく。
これは眠りにおちかけているから?
それとも私の涙のせい?
頬をつたう熱いものを感じて私は、両方正解なのだと悟る。
「小豆洗って待ってるから。一緒に善哉作って食べよ。お餅もちゃんと用意・
て・・から」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして嗚咽でさらに顔を歪める彼を私は冷静に眺めてい
た。
本当に泣き虫だな。そう思いながら。
彼が涙をずっと堪えているのは知っていた。感情を全面に出す今の彼も、私のた
めに涙を堪えてくれる彼にも愛しさを感じずにはいられなかった。
私の生命の源は頼りない点滴の管なんかじゃない。彼からの、そして彼への愛
だ。
今回は彼の瞳の中のワタシは見なかった。彼に私の本心を知って欲しかったか
ら。
私は消えゆく意識の中で「いちよんさん、いちよんさん」と何度も言った。
彼は意味を分かっていないだろうが、それでも優しく、「うん、うん」と答える。
朝日が昇ろうとしている。
私は対照的にこれからどっぷり「ねむり」に沈んでいく。
私が沈んでいる間、彼は「いちよんさん」の意味を考えるだろう。
こんな方法であなたを繋ぎ止める私を、卑怯な私を許してほしい。
こんなにもあなたを愛しているの。
エピローグ
彼女はまだ目覚めない。
でも、彼女は至る所にいるんだ。日差しの中に、カマキリの中に、様々に色を変える空の中に。
そう。彼女はいつでも僕の側にいる。だから、寂しくない。
それにワクワクしているんだ。
次会えたら何をして、何を話そうか。
メスのカマキリに君の姿を見てたなんて言ったら、きっと怒るんだろうな。
そうだ、善哉を一緒に食べるためのペアの器、買っておこう。
あした彼女が目覚めるかもしれないし、まだまだ先かもしれない。
でも確かなことがある。
それは彼女が目覚めた最初の僕の言葉だ。
「いちよんさん」
いちよんさん so so sooo much.
いちよんさん(I LOVE YOU)