本能寺の変(中)
白く冷たい月明かりがほんのりと差し込む部屋の中。
布団の中で寝返りを打って、障子の向こうに意識を向ける。
静かな夜。
これから光秀が襲ってくるなんて、知らなければぐっすり熟睡してしまっていたはず。
でも、これから起こる本能寺の変への恐怖からか、今夜、私には睡魔も寄り付かない。
部屋の中に差し込む障子越しの月明かりの位置は、私が布団に入った時から、かなり位置が動いている。
すでにかなりの時間が過ぎているはず。
そんな時だった。
廊下をけたたましく走る足音に気づいた私は、布団から飛び起きた。
耳を澄ませば、人馬の気配もかすかだけど、感じられる。
「来た!」
外の月明かりが白い障子紙に縁側を駆けて行く人影を映し出した。
ふすまを開けて、外の様子をうかがう。
人馬の気配は一層感じられた。
周りに目を向けると、縁側に人が増えていき、不穏な気配をみんなが感じ取っているらしい。
早く信長様のところへ!
信長様を求めて人が多い場所を目指していると、背後からどたどたと駆け寄ってくる人の気配がした。
端によって、やり過ごす。
月明かりが映し出したのは、10代後半と思われる若者。
茶筅髷の姿は森蘭丸。
信長様に命じられ、様子を見に行き、報告に戻ってきたに違いない。
蘭丸の向かう先に信長様がいる。
蘭丸の後を追って行く。
「上様! 明智光秀、謀反!
すでに、包囲されておりまする」
「まこと、光秀か?」
「はい。水色桔梗の旗印、しかと見定めてまいりました」
「上様、ここは防ぎまするゆえ、落ちられませ」
「是非に及ばず!
弓を持て!」
「上様!」
「光秀がぬかると思うか?」
信長様が言い終えたかどうかの時、庭の先にある壁の向こうから喊声が聞こえてきた。
目を向けると、壁を兵たちが乗り越えようとし始めていた。
ほ、ほ、本能寺の変だよぅ。
ちょっと、足が震え気味。
ごくりと唾を飲み込んで、ふるえる足で信長様のところへ駆けつける。
近寄る私に気づいた信長様が驚いた顔つきで言った。
「ねね。何をしておる。
さっさと落ちよ。
光秀の事、女子に手出しはせぬ。じゃが、ねねと気付かれぬようにな」
信長様は一言そう言ったかと思うと、視線を正面に向けなおして、弓を弾き放った。
びゅっ!
そんな音に一瞬怯んでしまう。
「ぎゃあ」
そんな声に視線を向けると、信長様の弓に射られて、壁から一人の兵が落ちた。
でも、一人倒しても、焼け石に水。
すでに多くの兵が壁を乗り越えて来ようとしていた。
「わぁー」
喊声と共に、庭に侵入してきた敵兵に襲い掛かる信長様の警護の者たち。
目の前で繰り広げられる戦い。
血しぶきに、悲鳴。
初めて見る光景に、私が固まってしまっている間にも、信長様は弓矢を放って行く。
びゅっ!
信長様の弓に射られたのか、すぐに「ぎゃっ」と言う男の悲鳴が聞こえる。
目を向けるのも怖い。
膝はがくがくと震えている。
止まれ! と命じても止まりやしない。
思考が停止気味の私はただ立ちすくんでいるだけ。
びんっ!
ちょっと違う音と共に、信長様の弓の弦が切れて、テンションから解放された弓の木が真っ直ぐになって、小さな振動を繰り返している。
「ちっ」 そんな表情をして、信長様が弓を捨てた。
それと引き換えるかのように、敵兵が放った弓が信長様の肩に突き刺さった。
白い着物を赤く染めていく血。
「上様ぁ」
事態に気付いた蘭丸が信長様の前に駆け寄ってきて、自らの身を盾にした。
その蘭丸の声がようやく私の思考回路を動かしはじめた。
「上様。
抜け道がござりまする」
「まことか?」
信長様が肩に突き刺さった弓矢をへし折りながら、私に目を向けた。
「は、は、はい。
このような事もあろうかと、官兵衛が密かに造らせておりました」
「よし。ねね、案内せぇ。
長益、蘭丸、ついてまいれ」
「こちらです」
そう言って、ちらりと戦いが繰り広げられている庭に目を向けながら、小走りに移動を始めた。
次から次へと壁を乗り越えた敵兵が侵入してきていて、その数の差は拡大を続けている。
今はなんとか、持ちこたえてはいるが、信長様側の戦力には限りがある。
敗北は時間の問題。
しかも、敵の中には火矢を放っている者もいて、すでに建物の一部は炎を上げ始めていた。
歴史通り、本能寺が炎に包まれるのは確実らしい。
歴史と違うのは、信長様が生き残る事。
それを実現するため、官兵衛に教えられた場所に向かう。
正面の部屋の中にも火矢が突き刺さっていて、畳が燃え始めている。
恐怖なんて感情は、もう麻痺していた。
その部屋の奥の閉じられたふすまを開いて、さらに奥の部屋を目指す。
さらにその奥。
たどり着いた部屋の奥の一段高い板の間。
花が活けられた壺とその下に敷かれた布をのけると、10cmくらいの幅の板で覆われた床が姿を現した。
一番奥の板の隅を右手で押えて、体重をかけた。
手をかけたのとは反対側の板の隅が跳ね上がる。
その板を取り除いた隙間に右手を突っ込む。
聞いている話では、残りの床の板は一組のふたに仕上げられていて、壁際のかんぬきで床から動かないように固定されている。
そのかんぬきを外すと、床は取り外す事ができるらしい。
手探りで手を動かすと、四角く加工された木が手に触れた。
これに違いない。
握りしめて、動かしてみると、容易にずれていく。
手に握りしめていた木が止めていた何かから外れた感触と共に、重力に引っ張られた。
「外れた」
私はその木を手放して、起き上がると、床の木の部分を引き上げた。
容易に床から外れた蓋状の板の先に、土だけでできた階段が現れた。
「明かり」
信長様の声に、長益と蘭丸がその場を一旦離れて、ろうそくを手に戻ってきた。
「貸してください」
そう言って、蘭丸から一本のろうそくを受け取る。
すでに火の手はかかなりまわっていて、隣の部屋にも火がおよび、辺りはオレンジ色の光が闇の暗さに勝り始めていた。
「行きます」
そう声をかけて、私は真っ先に暗い隠し通路の階段に足を踏み入れた。
入り口付近の階段は土だけだったが、少し先は石で固められていた。
この入り口部分は全て土で固められているが、その外側には少量の火薬が仕掛けられていて、爆破により塞がれる構造だと聞いている。
「上様」
背後から聞こえてきたのは蘭丸の声。
振り返ると、私の後ろは長益、その後ろが信長様で、一番後ろの蘭丸はまだ部屋にいた。
「この床は私が元に戻しておきます」
置いてあった布と壺。
それを残って元に戻すと言う事だろう。
信長様を助けるためなら、自らの命も棄てる。
胸の中が熱くなった気がした。
「うむ。蘭丸、頼んだぞ」
「上様、ご武運を」
そう言い残して、蘭丸が外されていた床の板を元に戻すと、隠し通路の中はさらに暗くなった。
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