垣根越しの会話
春の日差しの中、隣家との垣根越しに心配げな表情を向けているのは赤母衣衆の一人となっている前田利家の妻、お松殿である。
丸みを帯びた顔立ちなのに、顎の周りは引き締まっていて、その先は尖っているようにさえ見える。
そこについている小さめの口がせわしなく動いて、言葉を吐き出している。
「幼き頃より、信長様のお考えは分かりませんでした。
そのお考えが分からぬゆえ、大うつけなどと申していた者もかなりいたようですが、桶狭間の戦いなど見ていますと、鬼神と言われるのも分かる気がします。
信長様の発想は凡人には分からぬものなのですね。
こたびも、要請された副将軍職をお断りになり、堺などに代官を置く権利を望まれたとか。
きっと、これにも深いお考えがおありなんだと思うんです」
いえいえ。そんな事ないから、情けないんですよぅ。と、思いながら、お松殿に向けて浮かべた私の笑みはどことなく引き攣っている。
そう。
私はその理由をうつけの殿に聞いた事がある。
上洛を果たしたうつけの殿のご機嫌をとろうとか、お近づきになろうとか考えた者達が、色々な物を持参してきたらしい。
上洛を果たして間もない頃だったと思う。
京から戻ってきたうつけの殿は、そんな中の反物を二つほど持ってやって来たかと思うと、私に差し出した。
この世界に来てから、自分で手にする事などなかった鮮やかな色。
しかも、新品とあって、きれいで輝いているような気さえしてしまう。
「ねね。褒美じゃ」
そう言ったうつけの殿の表情は、なんだかりりしさがあった。
「物に目が眩んだだけでしょ!」と言う頭の中の声を完全に否定しきる事は私にはできないかも。
「私にですか?」
とりあえず、そう言ってみる。
でも、私の手はすでに差し出されていて、その反物を両手で受け取ってたりする。
「ねねには面白い策を考えてもらっておるからのぅ」
面白いは余計よっ! そんな思いも、ぷんぷん気分を面に出させる事はなく、へらへら笑いを返す。
「物に目が眩んだのね!」
「魂を売ったわね」
頭の中では、私を非難する声が。
でも、そんな非難に負けたりしない。
「ありがとうございます」
そう言って、満面の笑みで受け取った。
ずしりと重く、受け取った手のひらから感じる感触も滑らか。上物。そんな感じ。
なんだか、頬ずりしたいくらい。
まじまじと眺めていると、元の世界の事が頭に浮かんだ。
二十歳になれば、晴れ着を着て。そう思っていたのに。
お父さん、お母さん……。
私の気持ちはジェットコースター。
さっきまでの嬉しさMAXは、悲しみのどん底まで急下降。
涙がこぼれそうになる。
他の事を考えなきゃ。
うつけの殿の前で涙を流すなんて、ぜぇぇぇったい嫌。
「は、ははは」
とりあえず、意味不明の笑い。
笑えば、人間は幸せな気分になるとか。
「喜んでもらえて、わしも嬉しいと言うものじゃ。
あとは、そうようなぁ。それを着た……」
だめ! それを着た私を見たいなんて言葉は聞きたくなんかない。
「そう言えば、副将軍職を断られたそうですねっ」
うつけの殿の言葉を遮るため、大きな声で一気にまくしたてた。
あまりの突然の反応に、うつけの殿の目が点になっている。
「それが、どうかしたか?」
「どうして、断られたんですか?」
そう言いながら、私の頭の中はその話に集中しようとした。
「そうそう。
信長様は、形骸化した足利幕府などの役職にも興味が無く、ましてや義昭の配下になる事を嫌ったはず」
「だよねぇ。
義昭の配下になったら、義昭の言う事聞かなきゃいけなくなるしぃ」
「でも、将軍にしちゃったんだから、武家の棟梁だよ。
ただの大名だって、幕府を無視できないはずなんだけどなぁ」
「昔の江戸時代のドラマなんか、身分を隠した全国行脚の前副将軍がその正体を明かすと、悪人たちが平伏してしまうくらいだしぃ」
「いや、それドラマだし!」
色々な思考が気を紛らわせてくれる。
うんうん。
元の世界での晴れ着の事など私の思考に割って入る余裕も無い。
「断った理由なぞ、簡単じゃ。
わしは田舎大名ぞ。
幕府の要職など、何していいか分からんし、そんな事になったら、面倒くさいじゃないか」
「はい?」
「であろう? そう思わぬか?」
子供かよ。
ただ単に嫌ってだけで、何だか何も考えてなさげ。
まあ、うつけの殿らしいっちゃあ、らしいけど。
「では、堺に代官を置かれたのは?」
うつけの殿がにやりとした。
何だか、「いいところを突くのぉ。ねね」と言った風だけど、まあ信長様ならともかく、うつけの殿では考え過ぎとしか言いようがない気もする。
どうせ子供っぽい理由に違いない。
そんな私の思いを裏切る言葉が、うつけの殿の口から出た。
「種子島に決まっておろう」
マジですか!
ちょっと見直した気分で、うつけの殿を見た。
「もっと容易く手に入れられるようになるであろうしなぁ」
うんうんとう頷く私。
「でも、かっこいいから集めてるだけじゃなかったっけ?」と、冷静な私が言う。
道三との対面の日、そんな事を言ったていた。
でも、今でもそんな事はないんじゃない?
そんな思いで、再びたずねてみた。
「そんなにたくさんの鉄砲は、どう使われるんですかぁ?」
「前にも申さなんだか? 珍しいし、かっこいいから集めておると言ったはずだが」
がっくし気分。
まるで子供が自分の欲しいおもちゃを欲しがるかのよう。しかし、うつけのくせに、そんな事だけは覚えていたのはちょっと驚き。
そう、うつけの殿は子供なんですよ。
だから、いつまで経ってもうつけと言われてた。
そんな事を思いだしている内に、お松殿の話題は変わっていた。
水曜の予約更新です。
引き続き、よろしくお願いします。




