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 少々身構えていたのだが、意外なほどあっさりと川は見つかった。

 すっかり丸く小さくなった石がそのへんをごろごろしていて、透き通った幅広の川が緩やかに流れている。歩いてるだけでも気持ちの良い風光明媚な景色に違いないのだが――。

 がさがさと風が木々を揺らすたび、俺の視線は音のした方向へ引き付けられてしまう。森まで四歩の川縁から見る林間は暗幕を掛けたように暗く、その暗がりからはいつ獣が飛び出してきてもおかしくない雰囲気がある。

 森のざわめきは獣の足音に聞こえるし、川のせせらぎは唾液を垂らす獣の吐息に聞こえる。俺は過剰な反応を繰り返していた。

「ねえ、ハルト」

 俺の肩がびくんと跳ねる。ゆっくりと振り向いて、儲け話を思いついた時のような顔をしたリコットと目が合った。

「ハルトは。あの熊を一人で倒したのよね?」

「倒したというか、相打ちになったというか、殺しあったというか」

 俺は目を戻し、道行きを再開しながらそう言った。

 少なくとも、倒し倒されの言葉面から連想されるような、純粋な闘いではなかった。泥臭くて血なまぐさい殺し合いだったように思う。

「はっきりしないのね。でも、生き残ったのはハルトでしょ?」

「俺もリコットが戻ってきてくれなかったらあの場で死んでただろうし……そういえば、まだ礼を言ってなかった。助けてくれてありがとう」

 俺は一旦足を止め、リコットに向かって腰を折る。

「私もハルトに助けてもらったんだから、おあいこね」

「ああ、そうだな」

「でも、少しだけ不思議なことがあるのよね。あなたは強いはずなのに、覇気がないというか、小心者っぽいというか、弱そうに見える」

「まあ、実際弱いからな。生き残れたのは運が良かっただけだろうし」

「運がいいだけで勝てるような相手じゃなかったと思うけどね」

 俺もそう思う。特に、一番最後の俺の動作には一切の無駄がなかった気がする。奴の突進に対してどうするべきか、直感的に判断できたというか……例によってうまく説明はできないんだが。

「私一人だったら、立ちすくんでる間に餌になって終わりだった。ねえ、どうやったら護衛士をやれるくらいに強くなれるのかしら」

「さあ」

 ここで数秒の間があいた。川に向かって長く伸びる、いやしんぼの木の根を乗り越える。

「え、さあって、それだけ?」

「俺は闘い方なんて習ったことはないし、強くなる方法を聞かれても答えられない」

「つまり、才能が全てってことなの?」

 なぜそうなると一瞬思うが、俺が熊を倒した事実と闘い方を知らないという言葉を掛け合わせると、才能絶対主義という答えが出る。実に教育に悪い結論だ。

「武道の経験もない俺には、才能とか良く分からない。俺がアレに勝てたのは……偏に、神様の加護のおかげだろう。リコットも神様に祈ってみたらどうだ」

 そうすれば、俺の契約もめでたく完遂するわけだし。

「……神様なんていないわよ」

 呟くように言った彼女を首だけで振り返り、横目で見る。

 リコットはふてくされたようにそっぽを向いて、水面の照り返しをじっと見つめていた。

 数時間前の俺なら、その言葉に同意を返していただろうな。

「エルトリアさんも同じ事を言ってたわ。護衛士にとって何より大事なのは、身の丈に合わない敵と出会わない運だって。だから、旅に出る日もそうでない日も、祈りを欠かしたことはないって」

 リコットの言う護衛士の人はエルトリアという名で、船乗りのような事を口にする人物らしい。つまりリコットたち人間が住んでいる街の外は、大自然――大海原と同等の脅威が潜んでいる、ということになる……たぶん。そして、口振りからリコットは護衛士を目指しているようだ。

「そもそも、なんでそんな厳しい職に就く必要があるんだよ。自分の命を切り売りするような真似をしなくても……そう、貴族が居るんだろ? そいつらの屋敷で使用人でもやってればいいじゃないか」リコットは見目が良いから、あわよくば……下世話だな。この思考はやめよう。

「だって……」

 思いつめたような声色。

 危険な状況に陥って欲しくないという利己心で、早まったことを言ったと思う。俺はこの世界のことをまだ何も知らないのに、彼女の事情も何も知らないのに、勝手なことを言って――。

「ほら、護衛士の顧客――行商人って、貴族と違って羽振りがいいでしょ?」

 また金か! 一気にあほらしくなったな。

「なら、その羽振りが良い行商人にでもなればいいんじゃないのか。それならまだ、守られる立場な分危険も少ないだろうし」

「資本もないのに稼げるわけないじゃない」

 ぐうの音も出ない。

「だから蓄えを増やすためにも強くなる必要があるのよ。将来商人に転向しても自衛できると護衛士に払うお金が浮くし。ね、街に帰りつくまでの間でいいから、私に闘い方を教えてくれない?」

「いやだから、さっきも言ったように、俺は闘いのことなんて何も知らないんだよ。むしろこれからのために俺こそ勉強したい立場なんだよね」

「でも、熊には勝ったじゃない」

「まぐれだって」

「たとえまぐれでも、私なんかよりずっと強いんでしょ?」

「そりゃ、まあ。女の子よりは」

「ね、だったら」

「おことわり。リコットは体も小さいし、護衛士とやらが向いてる職だとは思えないな」

「平気よ! これから大きくなるもの。……いろいろと」

「じゃあ、大きくなったらその時に教えるよ」

「あ、今の発言! 自分が強くて教えられる事があるって白状したのよね?」

 うぜえ。

「言葉尻を捉えて突くのはやめてくれ。俺に比べれば、まだ犬猫のほうが闘い方を知ってる」

「頑固。いいじゃない。少しの間だけなんだし」

「俺に頼まなくても、エルトリアさんっていう護衛士の知り合いが居るんだろ? その人に習えばいいんじゃないの。頼んだことない?」

「ある……」

「答えは?」

「危険な仕事だし、体格的にも才能がないからやめておきなさいって……」

「そうだろうなあ」

 彼女の腕にも足にも、おおよそ筋肉と呼べるような起伏がない。極度に筋肉が付きにくい体質なのかもしれない。だから、誰の目にも才覚がないことは分かる。

 あるいは魔法によって身体能力の格差を埋められるのかもしれないけど、魔法による穴埋めで能力差がどうにかなる世界なら、そもそもエルトリアさんが体格の話をするはずもない。リコットも納得するはずがない。

 とはいえ、身体能力より重要な資質もある。

「けど、才能の有る無しなんてやる前から分かるようなものじゃないと思うのよ」

「そうだな。目に見えない気概こそ本当に重要だ」

 どれだけ身体的に優れていても、足が竦んで動けなければ木偶の坊と変わりない。痛みを想像して拳が振るえなければ闘えない。家族の危機にも動けなかった俺は、きっと誰よりも才能がないのだ。そんな俺に比べれば、逃げるために走ることができた彼女にこそ、才能の女神は微笑んでいる。そんな神様が居るのかは知らんが。

「でしょう? だから……」

「でもダメ」

 なにせ彼女は神様が手を差し伸べたいと思うほど、不幸の星の元に生まれついているらしい。リスクの大きい仕事は彼女にとって致命傷なのではないかと思えてならない。

「ケチ」

 ふてたような気配が背後から伝わってきた。

「そんなにお金が好きなのか?」

「うん」即答だった。

 俺はもう何も言えなくなる。この娘強かな性格みたいだし、放っていても良いんじゃないの? 

 それきり言葉のやり取りは止まった。

 にわかに大きくなった川の水音が、わだかまる無言の間を埋める。水を堰き止め、波を飛沫に砕く音が、そこら一帯に響いていた。防波堤の音。

 音の根源が見えてくると、俺の行く足も緩む。防波堤の正体も見えた。

 人の手が入らない森のこと、当然人工物であるはずもなく。川の流れを変えているのは一本の巨大な倒木だった。

 かちん、と硬質の音。リコットの蹴った石ころが俺を追い抜いていって、倒木にぶつかって止まる。

 追いついて横に並んだリコットが、4メートル以上もある倒れた幹を見上げて言う。

「邪魔だなあ……。一旦森に入って迂回しよっか。ほら、こっち」

 リコットが手近にあった俺の服裾を引く。こっちと指し示す先に、これまた巨大な切り株。

「ああ……うん」

 俺はぼんやりした答えを返してしまう。

 気になって仕方なかった。

 清流が弾けて白煙が立ち上る。飛び散る水滴に伴って気流が変化する。吹き込むそよ風が森の匂いを運んでくる。

 その全てに、不可思議で神秘的な力が宿っている。濃厚な魔力の匂い……魔力という呼び名が正しいかすら知らないのだけど。

 俺の体の中にも、再び魔力が循環を始める……そんな感覚があった。

「どうかしたの?」

 試したい。

 闘うことに必死で考えることをしなかったけれど、俺は魔法を使ったのだ。魔法……だと思う。少なくとも、魔力の皮膜は物理の範疇を抜け出していた。

 魔法。どれだけの事ができて、どれだけの見たことない現象が見えるだろう。

 気になって、試したくて、仕方なかった。

 懸念はあった。せっかく回復しかけた力をこんなところで使って、もし先ほどのように獣に襲われてしまったら。それでも、俺にしては珍しく即決で行動できていた。

 俺の脚がぼんやりとした空間の歪みを纏う。魔法の何も知らない俺にはそんな使い方しかできない。屈めた脚に力が籠もる。砂利が擦れ合う音を立てる。飛んだ。

 太陽が近くなった。

 言葉にすれば10メートル程度の跳躍だったと思う。それでも、空へと向かう加速度が、俺を宇宙まで連れて行ってくれるような気がした。木々の緑が眼下に消える。

「ちょ、ちょっと、ひとりだけで行かないでよ!」

 取り残されたリコットが何か言っている。その台詞を全部聞き届けられるくらいの時間、俺は空を飛んでいた。やがて加速度が重力と釣り合う時が来て、ついには大地に引かれて落ちていく。体のバランスが崩れる。背中から俺は落ちていく。背が歪みを纏った。

 衝撃は無かった。ミシリと倒木が軋む音で、着地したことを知る。

「は、はは……ははは」

 笑えてくる。面白くてたまらない。俺は今この瞬間、立ち高飛びの世界記録を更新したのだ。間違いなくドーピングに引っかかるが。

 ひとしきり笑っていると、頑張ってよじ登ってきたらしいリコットが近づいてきて涙目で言う。

「なんで置いていくのよ……言っておくけど、私闘えないんだからね。魔獣が近づいてきたらあっという間に死んじゃうんだから」

「ああ、ごめん……なんか、好奇心が抑えきれなくなって」

「好奇心って……なんの?」

「どのくらいできるのかな、ってさ。なんと、空を飛べた」

 笑う。

「リコットはできないのか?」

「見れば分かるでしょ」

 リコットはここで呆れたような顔。

「そんなの、あなたぐらい魔法の練度が高ければ分かるものじゃないの? 本当は私がうろたえてる姿見たくていじわるしたんじゃない?」

「そんなつもりはなかった。ただ……」

 魔法なんてものに馴染みが無かったから。なんて言えないか。

「口ごもった……」

 恨みがましく睨んでくるリコットから逃れるように、俺は身を起こした。木の幹を飛び降りる。着地の衝撃で小さな石ころが跳ね回った。

「じゃあ、早く行こう。あと1時間も経てば日が落ちそうだ」

 俺は振り返りながらリコットに声をかけた。

 高く飛び上がったあの時、森の終わりが見えたのだ。緑の海も末端が近い。できることなら早めに森を出て、獣たちの住処から距離をとっておきたいところだ。いや、獣ではなく、魔獣と言っていたっけか。

「……どうした?」

 俺の思考とは裏腹に、リコットは幹の上で地面を覗き込み、一向に降りようとしなかった。ちらちらとこちらに視線を送ってくる。意味が分からない。

「あ、あっち向いてて!」

「なんで」

 言った瞬間に思い出した。彼女の服はあちこち破けていて、特に背中が大きく裂けている。降りようと思えば、俺に白い背中を曝け出すか、細い足で飛び降りるかだ。

「ごめん」

 俺は彼女に背を向け、林間の闇を視線で切り裂いていく。目の前に歪みを作り出すと、まるで双眼鏡を通したように目の前の光景が鮮明になった。色々と応用が利いて便利――。

 そのときだった。

 鋭く短い悲鳴に、俺は反射的に振り返る。先の俺のように背中から地面に落ちていくリコット。手を滑らせた。俺と違うのは、魔力を身体強化に使う技量が彼女には欠けていること。加えて、倒木によって水流から守られ、鋭い角を有したままの岩が落下地点に転がっていること。

 思考はそこまで。リコットの体を掬い上げる暇すらなかった。

 赤の雫が宙に舞う。地に落ちた彼女の腕から岩の刃が抜け、一気に血が流れ出す。

「リコット!」

 駆け寄り彼女の腕を掴み取る。

 心根が冷える。失敗した。たとえ嫌がられても目を離すべきではなかった。魔獣だけではない。自然も、環境も彼女に牙を剥く。転移魔法の失敗に端を発した彼女の不可避の危機は、まだ終わってなんかいなかったのに。

 グロテスクな傷口のピンクに目が眩む。骨の白。破傷風、細菌感染、失血。

 まさか、こんなくだらないことで死ぬのか? 

「傷を治す魔法を使うにはどうすればいい! このまま血が止まらなかったら――」

 続く言葉は空気に溶けていった。

 視界の真ん中に捉えた傷口。もう、血が止まっている。それだけじゃない。肉が蠢いている。まるで粘土でも塗りこむように、傷がみるみる塞がっていく。瞬きも忘れて見入ってしまう。

 リコットの右手を掴んでいた俺の腕が強い力で払われた。リコットは傷ついた腕を背中に隠し、

「あ、あのね、これは、なんでもないから。私の魔法ですぐに治したの」

 隠した。隠したのだ。

 つまりそれは、彼女の治癒能力がこの世界の論理でも紐解けない異常性を持っていて、リコットにとって、人に知られたくない秘密に相当する、ということに違いなく。

 もしかすると、彼女は人間では……。

 やめよう。突飛すぎる発想だ。しかしそう思ってしまうくらい彼女の再生力は化外染みていたことは確か。けれど、俺は世界を渡ったんだ。今更驚くようなことじゃない。

 居心地の悪い空気が停滞する。不安げに俺を見るリコットの翠目に体が緊張する。

 日差しが肌に刺さる。緊張で喉が渇く。俺は視線を彷徨わせ――川の流れに目を止めた。

「喉が渇いたな」

「え?」

 四歩歩き、片膝を突いて屈み、澄んだ流れに手を差し込む。

「この水飲めるのかな。腹壊したりしたら困るよなあ。腹壊したら闘えないどころか、色々垂れ流して世界で一番嫌な死に方することになるし」

「…………」

「でもこの水が飲めなくても困るよな。人の居る場所までどれだけ掛かるか分からないし、水を確保できなかったら、干からびて死んでしまう」

 川の流れをかき回す。手を洗う。水気のついた手で、服についた血の汚れを拭う。赤黒い色が滲んで酷いことになった。このシャツ、外出用で7980円もしたのにな……。

 まあ、それはいい。今はこの水を飲むべきか飲まざるべきか。

 この世界の飲食物の中に、俺にとって絶対に安全と言える物はない。皆無。異世界の細菌に対する抗体なんて持ってるわけないし、この世界の人間とは身体構造が違っているかもしれない。一見して隣人に見える誰かが美味いと言う食べ物が、俺にとっての劇薬である可能性は常に付き纏う。

 危険ごと飲み干すしかないのだ。分かっていても、逡巡は病理のように増殖する。

 ともすると日が暮れるまで悩んでいるかもしれない。本来俺は家族の危機にも動けないような首鼠両端。情けない人間で――。

 波紋が幾重も走る水面に俺以外の人影が写りこんだ。

 横目で見る。リコットは両手で碗を作り、見た目だけは綺麗な水を掬った。止める間もない。一気に飲み干す。不安定な碗から飛び出した水が、リコットの襟元を濡らした。

「つめたっ!」

 うん、冷たい。俺の指先もかじかんできてる。

 リコットはアイスクリーム頭痛を堪えるような表情を見せ、次の瞬間には俺も初めて見る笑顔で笑う。

「飲んでも大丈夫みたい。これで干からびる心配はないね」

「お……、毒見のつもりだったのか!」

 危ないことをする。俺がここに居る意味がなくなるところだ。

「私も喉が乾いちゃったっだけよ。たくさん血を流しちゃったし」

 リコットは右腕に水をかけ、血の痕を洗い流していく。

 思えば、服が破けているのにどこにも怪我が無いというのは不自然な話だった。狼に追い立てられ、何度も爪を突き立てられ、けれど持ち前の治癒力で傷を塞いでいった結果が、今なのか。

「……なに?」

 期せずしてリコットを見つめる格好になってしまった俺に、じと目が飛んでくる。俺の目線が服の破けた跡を探っていた事を察すると、じと目に仄かな頬の朱が加わった。

「指が禁止されたからって、今度は視線で私の肌をなぞるつもり? 変態行為やめてね」

 視線を逸らす。水面を見る。眉より少し長い黒髪で、黒目で、少し嬉しそうな顔の男がいた。

「ただの水の癖に、やたら美味そうに見えてくるな」

 掬った水に口をつけた。

 頭が痛くなるほど冷たくて、ほんの少しだけ鉄の味がした。赤い血の味。


 森を抜けたのは俺の体内時計で30分後のことだ。

 その頃になるとすっかり日は落ちかけて、地平線の果てまで続く緑色の草原を黄金の夕日が染めていた。連立する山間に沈もうとする太陽の寿命はあと三十分程度だろうか。

「うわあ、広い」

 ぐにょぐにょ曲がった川があたかも蛇の胴体のように見える。大蛇が刻んだ轍が川となって……なんだか真実味を帯びてきたからこの想像はやめよう。肝が冷える。

「地平線まで見えるな」

 リコットは言葉少なに首肯する。

 俺も地平線は初めて見る。確かに雄大な光景ではあるが、寝る時どうしよう。億を超える数の虫が草原の中に潜んでいそうで、いろんな意味でゾッとする。

 朝起きたらムカデが三匹くらい這ってました、とか想像だけで鳥肌が立つよ、俺。

「どこにも街が見えない……歩く気無くしそう……」

 俺の前に歩み出て、腕で庇を作って遠くを見るリコット。この娘、背中が破れていること忘れたのか。

 見ていられず、日の沈む方向に目を移す。吹き込む薫風が草地を撫でた。さざ凪ぐ草の音が曇らないくらいには静かな風景だったのだが――リコットが暴れる栗色の髪を手で押さえたその時、波の音にノイズが混じった。背後、森の中、藪を分ける音。

「リコット」

 細腕を掴み、背後に抱え込む。

「ちょ、っと、いきなり触らないで」

 背後の身を捩る気配を感じながら、音の方向を睨みつける。がさり、とリコットにも聞こえるほど大きな音が鳴り、掴んだ腕から緊張が伝わってくる。

「おや」

 果たしてどんな化け物が――と思っていたのだが、現われたのは普通の人間だった。

 肩の高さで括った紺の髪に黄金の瞳。俺よりも高い身長で、眼鏡を掛けた理知的な風貌の男。歳は――20代後半と言ったところか。あくまで外見年齢。

「こんな果ての地にも人が居るんですねえ」

 それはこっちの台詞だ。

「けれど、ちょうど良かった。私、人を探しているんですよ。ちょっとお話を伺ってもよろしいですか?」

 彼は穏やかな笑みでそう言った。けれど俺はこんな場所で人に出会ったという意外感から立ち直れず、あるいは魔獣の擬態ではなかろうかと彼の姿を睨みつけてしまう。

「おや、もしかして私の言葉では通じないのでしょうか。見たところ、異国の方のようで……」

「いえ、伝わっていますよ」

「そうですか、良かった。手がかりも無く、途方に暮れていたのですよ」

「あれ、この声……」

 背後のリコットのささやき声。

「あなたは、どうやってここまで来たんですか」

 目の前の男の出所が疑わしく思えて、詰問するような口調になってしまう。考えすぎだろうか。しかし、できる限りリスクを回避するために必要な事だと判断した結果だ。

「どうやって……」

 男は腕を組み、顎に手をやり、考えるようなポーズを取った。

「本来は機密なのですが……本当の事を話しましょう」

 言い辛そうな口調だが、彼の表情には、玩具を自慢する子供のような色が透けて見えている。

「私、超々距離の転移魔法を実験していましてね。行程や術式は秘密ですが、それを使って空間を越えてきたのですよ」

 ……転移魔法? 

「ああ、申し遅れました。私、イリストルク王国の魔道研究院第三研究所の所長をしております。ディラント・アステリルスと申します」

 つまりこいつが、この状況を作った張本人――。

「おい、アンタ――」

「やっぱり、ディラントさん?」

 俺が怒りのままに言葉を吐くより先に、リコットが俺の背から顔を出した。それを見て、一瞬だけ、彼の眼鏡の奥が煌く。

「リコットさん、本当にリコットさんですね? ああ、良かった。ご無事なようで」

「えっと、はい。私を迎えに来てくれたんですか?」

「もちろん、その通りですよ。いやあ、会えて本当に良かった」

 言いながらディラントはこちらへ近づこうとするが、そうするとリコットは俺の背に身を隠してしまう。

「おや、どうしたのですか?」

「えっと、ですね……」

「彼女、服がぼろぼろになってしまったので。あんまり見られたくないんでしょう」

 言いよどんだリコットの言葉を引き継ぐ。

「そうなのですか? ああ、大変な目に合われたのですね」

 あくまで穏やかな喋り方。なぜだかムカついて仕方が無い。

「大変な目? 他人事な物言いをするんだな。あんたのせいでこうなったんじゃないのか」

「ええ、今回の件、責任の八割は我々にあります。そこを誤魔化すつもりはありません」

「八割?」十の間違いじゃないのか。

「ええ。彼女は今回の実験の被験者になるにあたって、誓約書にサインをしています。危険を承知の上でサインをしたのですから、これで一割」

 誓約書の拘束力。理屈は正しい。むしろ一割というのが少なすぎるほどだ。リコットは給金目当てで自ら危険に足を踏み入れたのだから、そこを非難される謂れは無い。それでも――指折り責任の所在を数えるその態度。どうしても苛立つ。

「ハルト、ちょっと、痛い……」

 リコットの訴えにはっとして手を離した。

「ごめん……」

「そして、第二に――彼女の特殊な魔力です」

「え……?」

 これに疑問符を投げたのはリコットだ。俺は魔法についてなんら知識を持っていないのだから、疑問を覚えるはずもない。

「やはり、自覚が無かったのですね。あなたの魔力は私たちのそれと成り立ちを異にしているようです。これは、転移陣の残留魔力を走査した結果分かったことですけどね」

 ディラントは二つ目、および三つ目の指を折る。

「おそらく、それが円式を誤動作させた原因でしょう。もっとも、これについては我々にも非があります。事前の走査を徹底していれば防げた事態ですから」

 そう言って、三番目に折った指を元に戻した。これで、折られた指は二本。

「だからなんだ。結局、あんたらに責任の比重が傾いてることに違いは無いだろ」

「ええ。その通りです。責任の所在がどうあれ、私はリコットさんを迎えるために行動していたでしょうね。ですが、本当の事を知っていてもらいたかったのですよ」

 言って、ディラントは穏やかに笑んだ。諭されているような感覚がある。俺は大人気なくもそっぽを向いてしまった。夕の緋が目にまぶしい。

「ところで、あなたはどなたでしょうか。この辺りの地域に人は住んでいなかったように記憶していますが」

「俺は……名前は、ハルト」

 視線を戻す。どこまでをどう話すべきか、言葉に迷った。

「えっと……彼は気がついたら森の中に居たらしくて、魔獣に襲われていた私を助けてくれたんです。他の国の転移魔法で飛ばされてきたんじゃないかと思います。でも、悪い人じゃありません」

 敬語であるせいか、なんとも純真に聞こえるリコットの代弁。

「いえ、この森周辺にまで転移できるような転移魔法はどこの国も実用化に至っていなかったはずです。内々で研究を進めているのなら、他国の領土にまで転移させる意味は、技術漏洩の危険度を考えればありえないはずですし……」

 空気中の魔力が思惟によって流動する。俺の周辺にまとわりつく。探られている? と気づくがどうしようもない。

 ディラントはここで何かに気づいたような表情。

「これは、根拠の無い推測ですが――」

「そういう教示は後だ。もうすぐ日が暮れる。夜になる前にアンタが居る意義を果たしてくれ」

 ディラントが日光に目を向け眺望する。俺のわき腹がリコットのひじにつつかれた。

「ね、ねえ、ハルト。ちょっと言葉遣いが荒くない? 私のことで怒ってくれるのはありがたいと思うけど、聞いてるほうは、あんまり気分良くないよ?」

「ごめん、気をつける」

 本当に何故だか分からないけど、苛立って仕方ない。

 そんな風に小声で言葉を交し合う俺たちに、ディラント、さんの声が掛かる。

「ハルトさん、あなたの言う通りです。どうにも私は周りが見えなくなる癖がありまして、申し訳ない。すぐに転移魔法の準備に入ります」

「転移? 転移魔法の事故で危険な目にあった相手を、転移魔法で送り返すつもり……ですか」

「はい。ですが安心してください。リコットさんより以前の被験者方から受け取ったフィードバックを元に改良を施していますし、転移を実行する前に魔力の特異性が分かっていれば、変数誤差の修正も容易です。それに――今回は陣を作って私も同道します。万が一イレギュラーが発生しても安全に街へ辿りつけるよう、逐次対応していきますから」

 だが、もしも、と反発しか浮かばない内心を窘めて、リコットに向き直り、尋ねる。

「リコットはどうしたい。転移魔法も完全に安全とは言えない。けど、いつまでもここに留まっているのも危険だ。いつ魔獣が現われるかも知れない。どうするべきか、決めてくれ」

 即答だった。

「転移魔法を使うに決まってるじゃない。どんな場所に出たとしても、最初より悪いことにはならない、でしょう?」

「海の上に出たりしたら即、死の危機だと思うけどな」

「ちょっと、もう決めちゃったんだから怖いこと言わないでよ……あなたの好きな神様にでも祈ってて。願わくは、海に出ませんようにって」

 神をも恐れぬ不遜な物言いだ。まあ、神様は恐れて欲しいなんて思っちゃいないだろうけど。

「纏まったようですね。では、時間も無いことですから、すぐ実行に移りましょう」

「はい、お願いします」と緊張した顔で頷くリコット。

 ディラントさんが大きく息を吸う。懐からなにか、液体の入ったビンを取り出し、コルクのふたをねじって抜き取る。

 大気に溶け込む魔力の流れが変化する。

イスルアーリの乗式三七――流体刻印』

 詠唱の言葉と共に、ビンの中身を宙に撒く。液体は慣性のままに空に散り――その場にぴたりと留まった。雫の一粒一粒が宙に浮いている。

 雫のすべてが規律だって動き、空中に渦潮模様を描く。

 再配置。水滴が思い思いに動き始める。

 円を描く。円が二重円に数を増やす。二重の隙間、円と円の間に見たことも無い文字が表現される。内円の更に内側に、内接する三角形が描かれる。式の完成を示すように、宙に浮遊する魔法陣が光り輝く。

 俺はその光景を呆然と見ていた。

 俺が今現在扱える魔法――と言っていいのか分からないような代物だが――は目に見える変化が少ない。リコットの魔法はそもそも使っている場面を見せてもらえなかった。だから、俺が本当の意味で魔法を見たのはこれが始めて。

「では、この陣の内側に入ってください。浮かんでいる陣に触れたりしないようお願いしますね。魔法が失敗してしまいますから」

「ほらハルト、今更怖がってないで」

 リコットがいつまでも動こうとしない俺の背中を押した。押されるまま俺は二重円の内に入る。

 日が落ちた。円の光が眩しすぎて、空を見ているのに星の瞬きひとつ見えやしない。

 気配があった。光に惹かれ集まろうとする、魔獣たちの気配。

「まずい――」

 と、言うまでもなかった。

カルスイスルラエルの乗式七五八――蒼天転移』

 俺たちが、光になって掻き消える。

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