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背中をくすぐるむず痒さに、俺は目を覚ました。
相も変わらず森の中のようで、俺の視界の半分は緑の海。もう半分は青い空。
吹き飛ばされて空を飛んだ最後の記憶よりも、日は少しだけ傾いて見える。
どうやら俺は、地面に座り込んでいるようだ。胸まである草の匂いが濃い。
生きていることが信じられず、光が怖くなり目を閉じる。
もう二度と目を覚まさないものだと思っていた。暗闇が全部になって、考えることすらできなくなって、妹にも、両親にも、友達にも二度と会えなくなって。
熊と相打ちになって、それでも本望だと感じていた自分が物凄く馬鹿らしい。自己犠牲的な英雄願望は、終わってしまえば愚かな蛮勇だ。目を開く。
光があった。太陽光と、もう一つ。俺の背中から漏れ出ている柔らかな燐光。
俺はその正体を確かめようと、背後を振り向こうとする。
「動かないで」
と言う少女の声。俺の首は中途半端な位置で止まった。
「何をしてるんだ?」
裂けていたはずの背の痛みがゆっくりゆっくり和らいでいく。
「酷い怪我だったから」
言葉が端的なのは集中のためだろうか。酷い怪我だったから、治療をしている? 魔法か何か。いやそれよりも、彼女は逃げたんじゃなかったのか。
「何でここにいる?」
さっきとそう変わらない質問になった。
「やっぱり、誰かを見捨てて一人で逃げられるわけないじゃない」
「さっきもそんなこと言ってたな。君が居ても、何もできないだろ」たぶん。
と俺が言うと、彼女の指先が背中の傷口をなぞった。激痛が走り、俺はカエルのように飛び上がる。土を舐めて悶え苦しむ。
「見くびらないで。見捨てて逃げるくらいなら、一緒に死んだほうがマシよ。……まあ、何度か逃げ出しちゃったけど……」
少女が何か言っているが、俺はそれどころじゃない。脂汗が出てきた。
「ほら、もう一回背中出して。ちゃんと直してあげるから」
俺は痛みで掠れた声で返事する。
「……また引っかいたりしないだろうな」
「引っかいたんじゃなくて擦ったの」
どっちでも痛いんだよ! 「マジで勘弁してくれ……」
「痛いくらいで軟弱。逃げろとか痛いとか、男らしくないことばっかり言うのね」
あんたは逃げるくらいなら闘って死ぬとか、男らしいことばっかり言うんだな。
「ほら、擦ったことは謝るから、早く起きて」
地面に頬を擦り付けている俺の肩を掴む、彼女の繊手。俺はその手に引き起こされた。
再び背中に暖かな光を感じる。
森の中をそよ風が吹き抜けた。血の匂いが攫われて、木々の隙間へと逃げていく。
俺はぼんやりと揺れる木の葉を見つめ、故郷の世界とは違う空気を味わった。肌の下で血に混じって僅かに残った力が身体を巡る。ゆったりとした時間が流れる。
魔力、もしくは神力。もう魔力でいいか。これ、回復するよな? してくれないと俺が死ぬ。
気づけば、背後からの光は収まっていた。代わりに、指で優しく撫でられているような、くすぐったい感覚だけが残光みたいに留まっている。
「何をしてるんだ?」
図らずも、目覚めたときと同じ問いになった。
うろたえた気配が彼女の指先に宿る。取り繕うように、
「背中、痛くない?」
そういえば、背中の痛みが完全に消えている。身体の疲労もない。
元の世界にはないこの力。凄まじいことは分かりきっていたが、体感するとより如実に感じる。
「すごいな……」
俺は驚きの言葉をを口にし、振り返る。
濃ゆい時間を越えてようやく、彼女の顔を正面から見る機会を得た。
肩の高さで切り揃えられた栗色の髪。草木の緑よりも薄い色合いの翠眼。眉の形は緩やかで、口調に宿っているような気の強さはどこにも見当たらない。
どこを見ても細い体には華奢な可愛さよりも清貧さを強く感じる。これは――栄養事情による未成熟さだろうか。
近い距離でこちらをじっと見る翠の瞳に気恥ずかしさを感じ、俺は自分の体に視線を移しながら言った。
「どこも痛くない」
すると、少女の気配が劇的に変化する。自慢げな顔をして、
「私の魔法もちょっとしたものでしょ」と言った。
そよ風が止んだ。血の匂いが滞る。
彼女の言った魔法について、色々と問い返したいところだったが、いつまでも同じ場所に留まっているのは危険な気がする。5メートルと離れていない位置に熊の死骸が落ちてるし。血の匂いは獣を引きつける。
そう口にすると、彼女はこくりと頷いた。
「確かにそうね。それじゃあ、道案内してくれる?」
「え……」
道案内を頼む? 俺に? なんで。
こちとら道を知らないどころか、草の名前も熊の名前も、大陸の形も身の置き場も分からないのだ。そんなことを言われても困る。
そもそも、この世界に住んでいるはずの彼女が道を知らないのはどういうことだろう。獣から逃げるうちに迷いでもしたのか。そのまま口に出す。
「迷子なのか?」
「はあ? 十五歳にもなって迷子になんか、なるわけないでしょ。道が分からない土地に来ちゃっただけよ」
それを迷子というんじゃないのか。
「けど……参ったな。俺も道なんて分からないし……気がついたらこの森に居たんだよ」
周囲を見回すが、案内図付きの掲示板が立ってるはずもない。
あるいは――この状況も含めて不可避の危機とやらの一部なのだろうか。確かに、あの熊のような獣がうろつく大地に居ては、命がいくつあっても足りない。
「道が分からないって……それじゃあどうやってここまで来たのよ」
神様の手でぽいっと。
変人扱い待った無しだ。この少女は神様に祈ろうとしないあたり、神を信じていない節があるし――というか、実在を確信している人間なんてそうはいないか。どうも直に声を交わしてしまったせいか、多少なり物の見方が変わってしまってる気がする。
言葉に詰まる俺を疑るような視線で見てくる彼女。
とにかく、何か言い訳を考えよう。そうだな、例えば――魔法。
「空間転移の魔法か何かでここに送られたみたいなんだ。目が覚めたら森だった。だから道なんて分からないし、今どこに居るかも分からない」
「そう、あなたもそうなんだ……」
少女はそう呟いてため息をつく。
あなたも?
「君はどうしてここに?」
「私は――研究院の魔法の被験者をやっていたんだけど……転移魔法の実験だったんだけどね、それが失敗しちゃったみたいで、気がついたらここに居たのよ。あなたと同じね」
いえ、ぜんぜん違います。彼女、数奇な運命を背負っているようだ。
「なんでまたそんな危なそうな仕事に……」
「仕方ないじゃない。給金がよかったんだもの」
自分自身の身を切り売りするような仕事だったと自覚したのか、彼女は気まずそうにそっぽを向いて見せた。
しかし金目当てとは。聖職者に程近い、清貧そうな見た目によらずがめつい。
「そっか、それで君は……」
と質問を続けようとした俺を遮って、彼女が言う。
「リコットよ」
「え?」
「私の名前よ。リコット。いつまでも君なんて呼ばれてたら気持ち悪いでしょ」
「あ、ああ、そう……だな」
リコット。苗字は無いのだろうか。そもそも文化自体が違うだろうし、リコットが着ている服も俺の世界に比べれば洗練された印象は無い。まあ、そういうファッションと言ってしまえばそれまでといった風体ではあるのだが。
そもそも今更だけど、なんで言葉が通じてるんだろうか。まあ、魔法とかいう技術が確立されてるし、神様の実在も証明されてしまったし、気にするほどでもない。小さなことだろう。
……と、自分の世界に入ってしまった俺に痺れを切らした様子でリコットが言う。
「それで、あなたは?」
「え?」
「あなたの名前よ。聞き返さなくても、流れを見れば分かるでしょ」
流れを無視して思考に耽っていたので分からなかった。
「俺は――」
少し迷う。しかし、リスク回避はしておくべきだろう。
「遥人。俺の名前はハルトだ」
苗字を名乗らないだけなのに、なぜだか座りの悪くなる感覚があった。思わず姿勢を正してしまう。
「そう、かっこいい名前ね」とリコットが笑顔で言う。
そんな風に照れも無くかっこいいと言われたことは無かったから、思わず目を逸らしてしまう。吸い込まれそうな瞳の熊と目が合った。
俺も彼女の名前に対して何か言ったほうがいいのだろうか。初対面の相手にはとりあえず名前を褒める文化なのかもしれない。
リコットも可愛い名前だね、とか? 我ながら気持ち悪い。
未練がましくうんうん悩んでいると、俺より先にリコットが口を開いてしまった。
「それじゃあハルト」少しむず痒い。「これからどうしたらいいの?」
どうして俺に聞くのだろう。表情を窺う。何の含みも無い。
「あ、ああ、ちょっと待ってくれ」
どうしたらいいのと聞かれても、俺こそどうしたらいいのか尋ね返したいのだ。しかし待ってくれと返事してしまった。さっきからこんなんばっかだな。
えー、森で遭難したときは助けが来るまでその場で待機してるのが良いんだっけ? キャンプを作るとか? でもそれは救助が来る前提の話で、それなりの装備も整っている場合の話で、この場合待機は死を待つだけの悪い選択じゃないだろうか。話を聞いた限り、彼女は突発的な事故で遭難したようだし、助けが来ない可能性が高い気がする。凶暴な獣も跳梁跋扈しているし、ここはとにかく森を抜ける方法を探るのが得策か。
いや待て。木の根や幹やらで方向転換しているうちに同じ場所をぐるぐる回って、結果迷ってしまうのは良く聞く話だ。あと二、三時間で日が沈んでしまいそうな按配だし、どこか木の上にでも寝床を作って朝を待ったほうが……けれど、木々をもなぎ倒す熊を見てしまった後では、木の上も絶対安全とは言い切れない。さて、どうしたらいいだろう。
首を右に捻り、左に捻り、唸りを上げる俺に疑いを抱いたリコットが言う。
「あの、ハルトはあの熊を倒せるくらい強いのよね? 護衛士の人じゃないの?」
あ、やっぱりあれ熊なんだ。恐ろしいくらいデカイ熊だな。いや、それよりも――。
「そもそも護衛士ってのが分からないな。それはどんな人なんだ?」
語感から察するに、ボディーガード的な職業の人だろうか。確かに、あれほど凶暴な獣が蔓延る土地を歩くには戦闘能力を鍛え上げた人間が必要である気はする。
頭に疑問符を浮かべた俺を見て、リコットは胡乱な目を向けてくる。
「戦闘技術を修めた貴族のボンボンかなにかかな……いい素材の服だったし……。大方、跡目争いで弟に排除された暢気な兄ってところかしら」
なにやら物騒な事を呟きはじめた。聞こえてるんですが。というか、とんでもない勘違いだ。貴族なんてお国柄じゃない。
などと思っていたら、リコットはすっくと立ち上がり、スカートの尻に付いた泥を払って、それから言う。
「じゃあ、とにかく歩きましょ。ハルトが言った通り、このまま留まっていても獣の餌になるのがオチだわ」
血の匂いがするこの場を離れることには賛成だが、果たしてそれは正解だろうか。
危機的状況は小康状態にあるが、継続中だ。深く考える必要があるんじゃないか?
「けどな、体力を消耗するとまずいんじゃないか?」
「だからって、悩んでいても仕方ないでしょ。ほら、うだうだ悩んでないで、さっさと立って」
リコットの細くも柔らかい手が俺の泥に塗れた手を掴む。
「あ、おい、俺の手、泥だらけで汚いぞ」
俺がそう言うと、リコットは馬鹿にしたように笑う。けれど不思議と嫌味を感じない笑みだ。おそらく、これだから貴族は、とか思っているんだろう。
「こんなの、チビたちの泥団子握った手を引くよりマシよ。いいから、早く歩く」
俺は手を引かれるままに立ち上がる。
「それじゃ、獣道に沿って歩くわ。いつかは川辺に突き当たるはずだし、川に辿りついたら岸に沿って歩いていけば、いつかは街か村に着くと思う」
なるほど、と俺はあっけなく感心してしまった。
水辺を行動の拠点にするのは人も獣も樹木も同じで、これだけの森林を育む土地ならそれなりの太さの川が当然ある。水源があれば人の集落も発生するはずだし、なにより水の確保は急務だろう。さもなくば蒸し暑い森であっという間に干からびてしまう。
歩きながらぐるぐると思考する。
「リコットは頭がいいんだな」
「あなたたちが知らないだけよ。私たちみたいな平民なら誰でも知ってるわ」
貴族がどうこう言う勘違いを否定しておくべきだろうか。しかし現代人である俺の振る舞いはこの世界の貴族そのものなんだろうし、否定しきれない部分がある。訂正の言葉を持てない。例えば、「貴族じゃないならなんなのよ」などと問われてしまったら、返す言葉に戸惑ってしまう。そもそも貴族やら平民やらと言った区分が俺の頭にはピンと来ないのだ。
気づく。ぼんやりと歩いてしまっていたから、リコットとの間に随分距離ができていた。彼女の声が飛んでくる。
「歩くの遅い!」
しかし次の瞬間には何かに気づいたような顔になって、心配そうな顔になるという変遷を辿り、こちらへ駆け足で近づいてくる。リコットの手が俺の周囲を彷徨い、
「もしかして、どこか痛いの? だいじょうぶ?」
まるで子供を気遣うような態度だ。
「大丈夫、ちょっとぼんやりしてただけ」
するとリコットは呆れたような表情。
「あっそ。じゃあ早く歩いてよね。日が暮れたら困るって言ったのはハルトでしょ?」
「ああ、ごめん」
俺の謝罪の言葉を聞くと、リコットは頷き、踵を返して獣道を歩き始める。
「あっ」
俺は口の中でそう呟く。気づいてしまった。
前を歩くリコットの服、その背中が破けて白い肌が覗けている。名状しがたい感情が渦を巻く。
そういえば熊と闘っている最中、服が破けたとかどうとか言ってたな……。
先に言い訳をしておくと、俺は全くの無意識だったのだ。無意識で、導かれるように、彼女の背中に手を伸ばしてしまっていた。その根底には先ほど痛い思いをさせられた事に対する意趣返しが多分に混じっていたことを否定できない。
つぅ、と彼女の背中をなぞっている俺がいた。
「うひあっ!」となんとも愛らしい反応。
遅ればせながら、俺はとんでもないことをしてしまった事に思い至る。
「あ、ごめ、つい……でもほら、俺さっき痛い思いしたし、これでおあいこって事に……」
しようぜ、と言い切る間もなく、なかなかの衝撃が俺の頬を襲った。
リコットは赤みの入った顔で、背中を庇いながら獣道の先を指差し、
「私より前を歩きなさい!」
諾々。