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背の高い雑草を避け、土色が剥き出しになった獣道を走る。
俺の世界は夕暮れ時だったが、こちらの日は中天。まだ真昼であるはずなのに、人の手が入っていない森は鬱蒼と茂った葉の影で薄暗く、のたくる木の根が俺の足を引っ掛けようと触手を伸ばしている。
「くそっ」
走りづらい、と一呼吸毒づく。叫びが聞こえてからどれだけ時間が経っただろう。現代人にとって劣悪な環境に俺の足は思うように進まない。
あるいは、もう、俺が救うべき彼女は……沸きあがった思考を首を振って振り払った。
何度か木の幹を迂回した。太い根っこを飛び越えた。自分がまっすぐ進んでいるかどうかすらわからない。俺の脚が一時止まる。
「何か、手がかりが欲しい。人の痕跡のようなものを――」
声に出して確認する。首を巡らせ、視線で地面を手探り、それを見つけた。
ぬかるんだ土におぼろげに残った足跡。指の形が判別できないのは靴を履いているからだろう。つまり、足跡の先に誰か、人が居る。
俺は再び走り出した。歩幅から察するに、足跡の主も走っているようだ。
ところどころ足跡が踏み荒らされている事が、俺の焦りを助長する。踏み荒らしているのはおそらく、四足歩行の動物。ただ、サイズがとんでもなく大きい。人間である俺の足に匹敵するほどに大きい四足の生物――熊ほどの大きさがあるように思える。
「うぉっ!」
足元ばかり見ていたのが却っていけなかったのか、俺は何かに躓きバランスを崩した。
「なんだ……?」
言いながら背後、躓いた原因を省みて――ゾッとする。
そこには人間の胴体ほどもあろうかという、巨大な足跡があった。
俺は足跡が作り出した段差に足を取られたのだ。
大地を押しつぶし段差を作るほどの質量を持った生物……。
足を叩く。震えだしそうな足を遮二無二動かして、小さな足跡を追いかけていく。
根っこを三つ跨ぎ越し、道を塞ぐ枯れ木の幹を飛び越えたそこで、ついに人と獣の足跡が途切れた。同時、視界の端にちらつく栗色の髪を見て取る。
良かった。まだ生きている。
「こっちだ! こっちに逃げて来い!」
獣への牽制も兼ねて、俺は叫んだ。
栗色の髪がびくりと反応し、後ろ足にジリジリと後退を始めた。対峙している何かから目を逸らさないようにしているのか。
俺は藪の中に飛び込み、その人影に近づいていく。
華奢な後姿だった。服にはところどころ裂傷が走り、引き裂かれているが、遠目に肌は傷ついていないように見える。
ちらりとこちらを伺ってきた横目と目が合う。翠の瞳。強く異国を意識する。
痩せ過ぎのきらいがあるが、綺麗な横顔だ。頬に線を引く涙の後が痛々しい。
そして、目が合った瞬間、少女は足を何かに引っ掛け、腰から藪の中に倒れこんだ。
だが、それを意識する暇は無い。俺の目は、敵たる『獣』の姿を捉えていた。少女を背に庇うようにして、二者の間に入り込む。
鋭い牙を剥き出し唸りを上げる獣は、一見して狼に見えた。
だがこの世界の空気と同じように、その姿には違和が付きまとう。
溢れんばかりの力を秘めた強靭な四肢。不揃いに生えた牙が禍々しく、逆立った毛が針のように尖っている。そして、その体躯は小型車両以上に大きく、凄まじいであろう突進の威力が容易に想像できてしまう。
体躯を構成するパーツの全てがが巨大で、凶暴すぎたのだ。
正直を言えば、恐ろしくて堪らなかった。
感じたことの無い威圧感に、足が無意識に引けてしまいそうになる。
通り魔なんかよりもずっと無慈悲で強靭な生き物と、俺は向き合っているのだ。
それでも対峙し続けていられたのは、偏に二度と後悔したくなかったから――と言ってしまえればカッコいいのだけど、本当は足が棒のようになって動かなかっただけ。
鋼の如き爪を持つ狼に対して、俺は丸腰、武器が無い。脆弱な人の身ひとつ。
どう考えても勝ち目は無い。ならばせめて気勢で負けてはダメだと俺は拳を握り、突き出し、構えた。記憶の中の映像から、見よう見まねのファイティングポーズ。
――きっとこれは、神様の与えた試練なのだと思う。
狼は大声を上げながら現われた俺を警戒しているのか、身を低くした体勢のまま、ぴくりとも動く様子を見せない。
そのまま、永遠にも感じられる時間が過ぎ――。
がさり、と音が鳴る。
狼が背負った藪の中から、更に一匹の狼が姿を見せた。
もうダメかもしれないと思う。せめて少女だけでも逃がそうと、声を出そうとしたその瞬間。
前触れ無く、二匹の狼が踵を返した。雑草の海を掻き分けて、緑臭い波の音を立てながら猛烈な速度で走り去っていく。
「なんだ……?」
気が抜けて、突き出した腕がだらりと垂れ下がる。俺の身を包んでいた緊張感が霧散する。
まさか気勢で勝ったわけではないだろう。俺になにか、狼が嫌う要素があったのだろうか。
そう思い、自分の手のひらをじっと見て、気づく。
皮膚の下で、不可思議な力が血液のように俺の体を循環している。
力そのものに湛えられた威厳を感じる。高貴さを感じる。神聖さを感じる。
神様の声に宿っていた言霊の力に酷似する光を感じる。神力とでも呼ぶべきだろうか。
あるいは、この力に彼我の戦力差を結論付けて、狼は逃げたのかもしれない。野生の獣は危険に敏感だから。そう考えると、一連の流れに納得がいくように思える。
――そうだ、あの娘は。
思い出し、俺は振り返りながら声をかける。
「危なかったな。狼が逃げてくれて助かった…………」
いない。
茶色い髪で、翠の瞳で、細身の少女の姿がどこにもない。
少女が居たはずの場所には茎の折れた草が倒れている。幻覚を見たわけではない。つまり……。
「……逃げた?」
なるほど。良く分かった。
少女は危機回避能力を備えていたようだ。
どうやら野生の獣が特別危機に敏感なわけではなくて、現代社会に生きていた俺に、特別危機感が欠けていた。それだけの話だったようだ。
正直に言おう。俺は、あの少女に感謝されることを期待していた。
そうとでも思わなければ、凶暴に身を置く恐怖に負けていた。ようは、男の見栄だ。
なのに、なんだこの虚脱感。せっかくゲームをクリアしたのに、スタッフロールが終わって、ゲームクリアおめでとう! の画面で操作が利かなくて、あ、これクリアしたら電源切るやつだ、と気づいた時のような、虚脱感。ごめん。うまく説明できない。
「ぷはあ……」
大きいため息を吐く。今更になって冷や汗が流れてきた。
手近な木の幹に背を預けて、木の葉の隙間から蒼い空を眺める。小鳥の群れが視界を横切った。
とにかく、これで彼女は救われた――。
本当にそうだろうか。
出くわした思考は著しい楽観の上に成り立っているように思える。神様の言う不可避の危機とやらは、この程度のものなのだろうか。
狼は木登りができないはずだ。跳躍でも届かないような背の高い木の上に昇れば、それだけで回避できてしまえそうな危機を、不可避の危機と称するだろうか。他でもない、神様が。
確かめよう。
俺は視線を移し、少女が逃げた痕跡と思しき、折れた雑草の海に目を留めた。
がさがさと鬱陶しい草を押しのけながら歩く。
狼に追い回された少女の疲労は生半可なものではないはずだ。それほど遠くに逃げたとは思えないけど……。
地肌の露出した獣道に出て、足跡を探そうと腰を下ろしたそのときだった。
少女の掠れ声が聞こえた気がした。
幻聴である可能性は否めない。だから、確かめる。
俺は獣道に沿って走り、楕円状に切り開かれた草木の空隙へ辿りつき、見つけた。
間違いなく俺の顔は引きつったと思う。
通り魔が小さく感じられる位、強大に思えた狼。その狼すらも更に小さく思える。
今度こそ堪えきれずに俺の足は震えた。
熊だ。
若木の高さに相当するほどの体長と、千の時を経た大樹のように強靭で巨大な体躯を持った大熊だった。
その巨体を支える足はもはや、金属の柱も同然。開かれた口から消化液を撒き散らし、腐葉土を溶かし、呼吸を躊躇う程の悪臭を放っている。
空と獲物とを同時に睥睨する瞳の数は全部で四つ。前頭部の双眼が少女と俺の姿を捉え続け、後頭部の双眼が中天に座する太陽と、三連の月を数えている。
そして、耳の近くには鬼のような大角が一対。
仁王立ちするその姿は、まるで悪魔のようだった。
もしかすると、あの二匹の狼は俺の神力ではなく、この熊の気配に気づいて逃げ出したのかもしれない。見ただけで、その力の差は歴然としていた。
そんな敵の前で、茶髪の少女は状況を忘失しているのか、無防備に立ちすくんでいる。
「逃げろ!」
大声を上げた。体の緊張が僅かに抜ける。
大丈夫、足は動く。
俺は足を踏み出し、大熊の前に立ちはだかった。
全身の筋肉も思考も逃げたいと訴え続けているけれど、少女を庇う位置に立てた。
熊は前頭部の視線を俺に集め、口腔の奥から舌を滑り出し、舌なめずりをした。細身の少女よりも喰い甲斐があると思ったのだろうか。
怖気が走るが、目を逸らせない。逸らした瞬間奴の餌になることは明白だった。
緊張は爆発的に高まる。俺の思考が研ぎ澄まされ、時間間隔が急激に加速する。
背中に少女の震えを感じた。
けれど今回は、怯える顔を見ずに済む位置に立っている。その事実が俺に虚勢を与えてくれる。
大熊が一鳴き、悪魔の如き唸りを上げた。
殺されてやるわけにはいかない。俺は瞳に力を込めて、巨大な悪魔を睨みつけた。