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      プロローグ


 誰か助けてくれと、願わずにはいられなかった。


 妹が生まれた時、母さんに言われた言葉を良く覚えてる。俺が三歳の時のことだ。

 お兄ちゃんになるんだから妹を守ってあげてね。

 そんなありきたりが、十四年経った今も心に焼き付いている。今も。

 使い古された言葉は使い古されるだけの魅力でもって、ありきたりのあの字も知らなかった当時の俺に鮮烈な印象を与えたのだろう。

 母さんの眠るベッドに頭をぶつける勢いでぶんぶん頷いて、家族の微笑みを貰ったことも記憶に新しい。

 そんな風に決意した俺だったが、妹は生まれたときから体が弱かったから、彼女を守るのは病院の役目。正直な話、妹の存在を忘れていた日も少なからずある。

 それでも、妹が家で暮らせることになった日、誰よりも喜んでいたのは間違いなく俺で、妹が喋れるようになった日、誰よりはしゃいでいたのも間違いなく俺で、妹がペットの猫ぱんちを喰らって号泣していたとき、誰より爆笑していたのも、間違いなく俺である。俺のケツは母びんたを喰らった。

 走馬灯のように、妹の成長のひとコマが次々脳裏をよぎっていく。

 幼稚園に上がり、小学校へ進み、中学校に進んだ妹と、高校生の俺が並んで写る写真の記憶が蘇る。一年前の記憶だ。

 あの時は……いや、つい30秒前の俺ですら、こんな事になるなんて思っていなかった。

 映画のフィルムみたいな走馬灯が激流の如く過ぎ去って、視覚が現実を認識する。

 死に掛けていた。それこそ走馬灯を見てしまうほどに。

 ただ、何より受け入れ難く、そして何より悔しいのは、死に瀕しているのは俺――此吏このり遥人はるとじゃない事。妹のあやめ、彼女が死にかけているのだ。

 妹に迫る死は金属の色をしていて、肉を裂くナイフの形をしていて、既に一人の少年を手に掛け、どすぐろい血で鈍色の肢体を染めている。

 凶器の持ち手は歪んだ笑みを浮かべ、人を――妹を、血の詰まった袋としか見ていない。

 焦る。俺の精神は焦りの極地にある。焦り募るほどに俺の脳は怜悧さを増していって、今生の別れを遠ざけるべく、時間間隔を極限まで引き伸ばしていく。

 妹の感情の変化が手に取るように分かる。一瞬ごとに変わる妹の表情が、怯えの色だけを俺の目に映す。俺の焦りも増す。思考速度にも拍車が掛かる。

 加速する時間の中、考える時間はたくさんあった。なのに、

 どうして。

 どうして俺の足は動かないのだろう。

 妹を守ってねと言った母との約束を忘れ、保身に走ってしまったのだろうか。

 足が震えて動かない。どす黒い刃の色が恐ろしい。

 恐ろしいから、足が震える。足が震えるから動けない。

 ひとつ考えるたび、切っ先が妹に近づいているというのに。


 ――誰か。


 視界の端、凶刃の犠牲者となった少年が血を噴く。朱の噴水が落陽に映えて美しかった。

 通行人たちの悲鳴が耳を劈く。

 悲鳴を受けて、ナイフの切っ先が僅かにぶれた。殺意を誇示するように切っ先が跳ねた。

 跳ねたナイフの金属面が、俺の顔を映し出す。

 なんて情けない顔をしているのだろう。俺は怯えきった表情をしていて、怯えきった表情の中に、ほのかな安堵が透けて見えている。ナイフがこちらを向いていないことが、そんなに嬉しいか。妹が死に掛けて、なにを安心しているのか。

 自己愛に満ちた醜悪な表情だった。

 焦りは加速し、時間は反比例して鈍化する。

 足の震えが伝播して、腰が砕けた。


 ――頼む、助けてくれ。


 まだ。まだ間に合う。

 簡単なことだ。地面を蹴って、妹と通り魔の間に飛び込んで、二の腕に刃を受ける。痛みを我慢して、通り魔の腹を蹴り飛ばしてナイフを奪ったら、妹の手を引いてとにかく逃げる。道を走り抜けたところにある交番に駆け込んだら、駐在しているはずの父に助けを求める。

 妹を守ると約束した兄ならば、簡単なことだ。

 さあやれ、いますぐやれ。足が震えるからなんだ。腰が砕けたからなんだ。重力のままに倒れこむだけでいい。妹を抱えて倒れこめ。あの時行動していれば、なんて後悔するのはもう嫌だろう。団子虫みたいに丸くなって身を守っていれば、きっと誰かが助けてくれる。見ろ。視界の端にレスラーのような大男が居る。正義感の強そうな青年が居る。妹を守ったら助けてくれと大声で叫ぶんだ。それで大切な家族を守れるのだからやれ。

 できない。

 俺の体は時が止まってしまったかのように動かない。


 ――神様! 


 瞬間。

 俺の視界は暗黒に閉ざされた。

 体はぴくりとも動かない。夕の日差しも秋の冷気も、血溜りの臭気も届かない。妹の姿もどこにも見当たらない。俺が現実と感じる全ての感覚が消え失せていた。ただ思考だけがここにある。

 希望的観測が浮きあがる。

 もしかすると、俺は最後の最後で妹を守ることができたのだろうか。

 今俺が感じている無明の暗黒は死後の世界で、俺は妹を庇った瞬間に即死して、魂は天国に運ばれて、生まれ変わって大地を踏む……。

 そうであればいい、と俺は思う。

 けれど、その思いを否定する言葉が、天上より降りてきた。

「お前の妹は、今も不可避の危機の只中にある」

 低い声。言葉の意味を咀嚼するよりも先に、俺は圧倒された。言葉の切れ端一つにも厳かな圧が含まれている。魂が震えるような感覚がある。光が降ってきたかのように錯覚する。神聖な何かが俺の意識を飲み込もうとする。

 矮小な人の身に宿るはずもない神聖。言うなれば、それは神の声だ。

 それでも、たとえ神でも、言葉の意味を聞き逃すなんてできる筈がない。

 どういうことだ! と叫ぼうとして、俺は体が動かないことに再び気づく。

「私はお前の願いを叶えようと決めた。ゆえにお前の世界の時間を凍結させたが、状況は何一つ変わっていない」

 それは聞きたい言葉じゃない。言葉を遮るように、俺は強く思考する。

 なら、頼む! 俺の妹を助けてくれ! 

 神、神。夢と思ってしまうほどの荒唐無稽。けど、悪魔でもなんでもいい。

「無論そのつもりだ。人の心よりの願いに、神の理をもって応えよう」

 そのとき、俺は心の底から安堵していた。神の実在の不確かさだとか、全ては精神崩壊を起こした俺の幻視幻聴だとか、考えるべきはいくつもあったように思うけれど、そんなことよりも、妹が助かると保障されたことが嬉しくてたまらなかった。

「だが、私はお前たちの願いを叶えるにあたって、条件を出そうと決めている」

 え? 

「人が人の法によって縛られているように、神も神の法によって縛られているということだ。お前は考えたことがないか?」

 その時の神様の声には、やるせなさのような感情が混ざっていたように思う。

「私たちの立場だけで考えるなら、人が苦境に陥るたび手を差し伸べてやればよい。しかし、差し伸べられる人間に立場になれば、それは堪らない苦痛だろう」

 体が動いたとしたら、俺は間抜けな顔を晒したはずだ。言葉の意味が分からない。

「最後には神の差し伸べる手が万民を救い上げる。そんな世界では、全ての努力も、意志も、選択にも意味はなく、ただ、神の奴隷と成り果てた人間たちだけが存在するのみ。それでは、人の精神は失われてしまう。人は、神を一顧だにしない獣のように生きるべきなのだ。ゆえに、私たちは法を立てた。不可避の危機に陥って、心より助けを求めた人間に限り手を貸すことを許す、と」

 声の神聖が、俺の魂に理解を刻んでいく。

「それでも、私は窮地にあっても神に祈らない人間をも救い上げたいと願う。ゆえに条件だ。此吏遥人、お前の妹を救う条件として、彼女の救済を頼みたい。私がお前の右手を救い上げる対価として、お前の左手で、彼女の運命を救って欲しい。できるか」

 その問いに、俺は間を置かず肯こうとした。だが時間すら凍結した闇の中ではそんな動作すらもできず。それでも大きなものが首肯する気配。そして同時に、胸の奥でなにか暖かな感触。

「お前とお前の世界とを鎖で結びつけた。鎖の作用によって、お前の体が元の世界から消えた瞬間に回帰させることを約束しよう」

 え? と再び疑問符。

 世界から消えるとは何のことだろう。

「文字通りの意味だ。お前の体は一時異世界の土を踏み、その地で生活する少女の運命を救うこととなる」

 そんなこと聞いていない。

 そう思考すると、神様は鷹揚に笑い、

「すまないな、言い忘れていた」

 まさか、わざとか。

 建前を口にしたり、法の抜け道を使ってより多くの人間に手を差し伸べようとしたり、随分人間らしい考え方をする神様だと、失礼な思考が沸きあがる。

「失礼などではない。私にとって、それは褒め言葉だよ」

 その物言いもまた、人間らしい。あるいは――。

 考えを言葉にしようとしたその瞬間、全く前触れもなく、神様の気配に乱れが走った。

 どうかしたのですか、と俺は思考する。

「……説明の途中ですまないが、時間がなくなってしまった」

 時間。神様に時間は関係ないのではないかと一瞬思う。

 神様は俺の思考に反論するでもなく、本当に焦ったように言葉を続けた。

「今この瞬間にも危機に陥っている人間が居る。お前には今すぐ彼の世界へ向かってもらいたい」

 それから、数瞬の間があった。

 待っているのか、俺の頷きを。神様が焦るほどの相当な事態に陥っているはずなのに……。人の意志と選択を尊重しているのだろうか。

 俺は首肯する。

 ずるい話だ。選択の余地を与えているように見せて、その実一つしか選択肢がない。

「――感謝する」

 途端、視界が光に包まれる。凍結の闇は残らず討滅され、自分の体すらも光の粒子に変じているような感覚があった。

 意識が消えるその刹那、俺は神様の声を聞いたように思う。

「私の――――」

 言葉を聞き届ける前に、俺の意識と肉が世界を越える。



 緑の匂いを感じた。鋭い日の光を感じた。湿った土の匂いを鼻先に感じた。

 足元がおぼつかない。眼下を見れば、俺は宙に浮かんでいた。

「うおあっ!」

 今更驚くようなことではないのかもしれないが、俺は叫び声を上げてしまった。

 その大声に驚いたように、俺を包み込んでいた光の粒子が一斉に霧散する。

 浮力が失せる。体が落下する――とはいっても、背の低い雑草程度の高さだが。

 しりもちをつくこともなく、俺は大地を踏みしめた。柔らかな腐葉土に靴が沈み込む。その感触は故郷の世界でも散々味わった、馴染みある感触でしかない。

「ここが……、異世界?」

 森の薄暗さも、木の幹の色も、草木の高さも特筆するものはないように見える。

 しかし俺は確かに異世界の大地を踏みしめているのだ。

 その証拠に、空気が違う。

 空気の中に、不思議な力が渦を巻いているような雰囲気がある。熱で空気が歪んで見えるような、冷気で凍えているような、陽気にも思える、陰気にも思える。形容し難い感覚だ。俺はそんな感覚を、五感以外のどこかで感じ取っていた。

「魔力……?」

 その単語が適切であるような気がする。

 異世界ならばそういうモノが存在していてもおかしくはない。

 故郷を離れて一人。一抹の寂しさを感じないでもないが、

 とにかく、今俺がやるべきは――。

「キャアアアアアアアアアアアア――」

 甲高い悲鳴。森の梢に反響して正確な位置は掴めなかったが、この声の主こそが、神様の言う不可避の危機に陥った彼女、なのだろう。

 ひとつ深呼吸して、俺は森の中をがむしゃらに駆け出した。


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