キット カット。
一つ前の彼女は髪を切るのが本当に上手な子だった。
美容院で、なんと言うかなさけない髪形になった僕が彼女のことを思い出したのは当たり前のことだと思う。彼女が切っていればこんなことにはならなかった。彼女はまるで王様の王冠のようにぴったりの髪型を僕にプレゼントしてくれた。ただ単純に、その瞬間に彼女にまた会いたいと思ったし彼女のことを思い出した。
こんな事を言うのもどうかと思うけど、彼女自体はあまりパッとしない子だった。みなが振り返るほどの美人でもなければ不細工でもなかった。みなが振り返るほどお洒落でもなかったし不恰好でもなかった。良くも悪くも平均より少し上の子だった。
でも、なんていうのか彼女は一種変わったニュアンス、雰囲気みたいなものを持っていた。どんな?と聞かれてもうまくいえないが、無理に言うならば「私はここに存在してるんじゃない。ここじゃない何処かでも私がいてもいいんじゃないか?」みたいな雰囲気を持っていた。
僕はそんな彼女の雰囲気、ニュアンスに強く惹かれて付き合った。
彼女が髪を切るのが神秘的なまでに上手な事を知ったのは、付き合って三ヶ月たった夏の日だった。
その日は忘れちゃったけど何かの用事で家族は出かけていた。僕は昼間友達と遊び、あたりが暗くなり始めたときに彼女を携帯電話でよびだした。簡単に作った焼き飯を食べ、セックスを二回ほどして、裸のままベットでまどろんでいた。聞こえるか聞こえないかわからなくなるほど小さな音でケリーローランドのジレンマを流していた。とめどなく汗は流れるのだが、四畳半のベットとテレビとコンポしかない僕の部屋は季節から切り離されたような不思議な感じがしていた。
彼女は片目をつむり、ゆっくりと柔らかな胸を動かして深呼吸するように深く息をしていた。
「ねぇ、髪切ったげようか?」
僕は自分の髪を触った。確かに長くなっていた。後ろ髪は肩にかかるぐらい伸びていたし、前髪は目にかかっていた。
「いいよ、なんか悪いきがするし」
「でも、だいぶ鬱陶しいでしょそれ」
「まぁ確かにね」
「ならいいじゃない。どーんと私に任せなさい」
断っても無駄なことはわかっていた。彼女は自分で言い出したことにはとことん頑固なのだ。だからなのかはわからないが、彼女は自分から発言することを極力避けていたと思う。いつも回りの人が彼女に何かを与え、それを彼女はイエスかノーで答える。そういうスポイルされた部分を持っていた。まぁスポイルされることに対しては僕も人のことを言えた義理ではないのだけども。
だから、今回のように、ましてや自分の事ではなく僕のことで彼女が何かしようとする発言はとても珍しいものだった。態度には出してなかったけど少しだけ僕は驚いたんだ。
僕は下着だけを身に着け、居間から新聞紙と椅子を持ってきてベランダにセットした。月が明るかったから部屋の電気を消した。彼女は完璧に服を着て、普通の一般的な鋏と眉をセットするための鋏を持ってきた。魔女のように何かをたくらんでいるような笑顔で。
「はい座って」
僕は観念して椅子に座った。足の指に力が入り地面に敷かれた新聞紙がクシャっと鳴いた。
彼女は煙草に火をつけて、ゆっくりと子猫をなでるように僕の髪をさわり、切り出した。
彼女が吸う薄荷煙草のにおいと足元に増えていく切られた僕の髪。それに不揃いなリズムで奏でる鋏の音。不安もあったけどなんだか楽しかった。
はい。まぁいいでしょう。と彼女に言われて振り返り、僕は窓に映る自分を見た。
魔法にかかったようだ。と思った。あなたにはこの髪形しか似合わないのよ。と誰かが言ってるかのように自分では似合っていると思った。
部屋の中に入り、電気をつけ鏡に映った僕を見た。僕の想像していた長さよりはいささか短かったけれども、それはやっぱり似合ってた。
彼女はベランダで僕の髪を集めて、新聞紙を丸めていた。いつもの彼女の背中じゃなかった。私はここにいるよ。と僕にだけ語っていた。
僕と彼女は髪を切ってから親密になった。以前よりも明らかに。
髪を切るという行為が彼女の中の何かの儀式だったのかもしれない。それとも髪を切ることは関係なくて、ただ単純に三ヶ月という最も不安定な期間を乗り切れそうだと彼女が思っただけかもしれない。でも、間違いなくあの時から。僕と彼女は近づいた。
でも、とても残念なこともあった。彼女のもつ独特のあの雰囲気が無くなっていった。僕が強く惹かれる理由が無くなっていったのだ。
換わりに現れた「髪を切る」という才能が、あのときの僕にはどうも凡庸にみえてしまったのだ。
半年たって、僕は彼女に別れ話を切り出した。彼女は、まぁしょうがないか。と言った。
別に彼女の雰囲気がなくなったことが主な原因じゃない。大なり小なり50ぐらいの理由や原因があったと思う。今はもうその中の3っつぐらいしか思いだせないけど。
別れてから大体一年たった。状況もそれなりに変わった。
僕はなさけない髪を掻き毟って車のエンジンをかけた。慣れ親しんだエンジンの低い泣き声が僕を少しまともにさせる。
でも、やっぱり思考が暴走してる気がした。喉が渇いたし、なぜだかわからないけどひどく不安な気持ちだ。ハンドルを持つ手は変に力が入っていたし、汗も掻いている。
僕は車を止めて、近くのコンビニに行った。
トイレを借りて、手をきれいに洗い、スミノフアイスを持ってレジに並んだ。
ふとなぜか気になって雑誌が並ぶところに目をやった。食い入るように雑誌を見る彼女がいた。ほんとになんて偶然だと思った。
「久しぶり」
と僕が声をかけた。
「え、あ久しぶり」
と彼女は返した。
僕は、ちょうど今日君の事を思い出してたんだ。だからこんなとこで会えるなんてまるで誰かが僕の事を見てるみたいだね。と言おうと思っていたのだが、口は動いてくれなかった。まるで昔のアニメのように口のジッパーが閉まってしまった。
彼女は僕の顔を見て何かを考えるように目を伏せた。誰かの携帯が鳴った。
「それ、あんま君に似合ってないよ」
僕は言われた瞬間ドキリとした。
「このジャケット?」
「ううん。髪型」
「あー、うん。今日美容院行ったんだけどさ、やっぱり変だよね」
「変ってほどでもないけど、さ。……よかったらまた切ってあげようか?髪」
「いいの?」
「いいさ」
そうして僕はまた王冠を手にした。
彼女は髪を切ることで自分の才能に気がついて美容師になるらしい。
連絡は取ってない。
なぜなら、多分彼女は僕の髪型が変なときにだけ現れる。魔女だから。
ほら今日も夜の闇のどこからか鋏の音が聞こえる。
チョキチョキ。と、楽しそうに。
月にかぶさって箒に乗って。
たくらむようなあの笑顔で。
読んでいただいて有難うございました。ピース。