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第7話:黄金色の黄昏、灰色の咆哮、そして十月の雪

シド・マターズの音楽が止まった時、部屋はすでに夕暮れの薄闇に支配されていた。

 私は、どれくらいの間、過去の記憶に沈み込んでいたのだろう。

 三十センチ横のクロエは、まだ静かに寝息を立てていた。閉じた瞼の下で、彼女は一体どんな夢を見ているのだろう。ウィリアムの笑顔? それとも、ネイサンの銃口?


私はそっとベッドから抜け出し、きしむ床を忍び足で歩いて、窓辺へと近づいた。

 カーテンの隙間から、アルカディア・ベイの町が見下ろせた。

10月の夕日が、海面を黄金色に染め上げている。その光はあまりにも美しく、今日一日起こったすべての悲劇――女子トイレでの銃撃、そして時間が巻き戻った瞬間――が、すべて悪い夢だったかのように思わせるほどだった。


「……起きたのか」


掠れた声が背後から聞こえた。

 振り返ると、クロエがベッドの上に身体を起こし、青い髪を乱暴にかき上げている。その顔には、先ほどまで寝ていたクロエの穏やかな寝顔はなく、いつものトゲトゲした「パンク・ガール」の表情が戻っていた。


「あ、うん。よく眠れたよ。……クロエは?よく眠れた?」

「う~ん、悪夢は見なかったかな。マックスのおかげでね」

 彼女は皮肉っぽく笑うと、ベッドから立ち上がり、床に落ちていた黒いブーツを履いた。

「ほら、マックス行くぞ。ここに鬼軍曹のデイビッドが戻ってきたら、アンタのこと『不法侵入者』として逮捕しかねないからな」


彼女はものが散らかった机から煙草の箱をひったくると、部屋を飛び出した。

「ちょ、ちょっとクロエ、、、行くって……どこへ?」

「決まってだろマックス。アルカディア・ベイで一番眺めのいい場所だよ」

 クロエは階段を駆け下りながら、振り返りざまにウィンクした。

「昔、二人でよく秘密基地を作った場所だよ!」


彼女のおんぼろトラックは、海岸沿いの山道を荒々しく登っていった。

 車窓から入り込む潮風は、昼間よりもずっと冷たく、冬の訪れを予感させるような風だった。

 クロエは無言で前を向きながらハンドルを握っていた。カセットテープからは先ほどとは違う、激しいパンク・ロックが流れ続けている。

 私は、自分が抱えている秘密――「時間を巻き戻せる」という途方もない力について、彼女に話すべきかどうか、この間ただひたすらずっと迷っていた。


「……なあ、マックス」

 不意に、クロエが音楽のボリュームを下げた。

「さっきから気になってたんだ。アンタ、さっきの非常ベルの時、どうしてあんなにタイミング良く飛び出してこられたんだ?」


来る。私は身構えた。私が言うべき言葉は頭の中では理解していた。でも私は行動に移せなかった。

「え、あ……えっとそれは……」

「最初から女子トイレに隠れてたんだろ?。あいつ……あのネイサンが、私に銃を突きつけて、そんで揉み合って……。そのあとにあいつが私に銃を撃ったと思った。でもその瞬間に」


彼女は赤信号でトラックを停め、じっと私の方を見た。その瞳には、私の言葉を一言も聞き逃すまいという、彼女らしくない真剣な光が宿っていた。

「私、あの瞬間、本当に死ぬんだと思った。その考えが頭の中を一気に駆け巡ったんだ。……本当に。でも、気づいたらベルが鳴り響いて、あいつが逃げていった。マックス、一体何をしたんだ?偶然そこにいたとは考えられない。」


謝る? 誤魔化す?それとも…

 いや、もう無理だ。クロエは私の親友だった。空白の五年間の溝を埋めるためには、何よりも私たちの間には「真実」が必要だ。

 私は深く息を吸い込み、彼女の青い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


「あのねクロエ……信じられないかもしれないけど、聞いて」

 私の声は、授業でのプレゼンテーションの時とは比べ物にならないほど震えていた。

「私、時間を巻き戻せるみたい」

「……は?どういうことだ?」

 クロエはアドロいたような、それでも心底呆れたように声を出しながら眉をひそめた。

「マックス、冗談なら笑えないぞ。何? 私と離れ離れだったシアトルでの五年間でSF映画の観すぎたか?」


「冗談じゃないの! 本当なの!」

 私は必死に訴えた。彼女の目を見つめながら。

「さっきのトイレで、銃声が聞こえてクロエがネイサンに撃たれた瞬間、私は強く願ったの。時間を戻して、彼女を助けたいって。そうしたら、世界が……砕け散るみたいに巻き戻って、気づいたら私はジェファソン先生の教室に戻ってた。トイレに行く目に戻ってたの。クロエがこんな話を信じられないのはわかる。私だっていまだに信じられないよ。」

「……マックス」

「それから、私はもう一度あのトイレに急いで駆け込んだの。あの中で私は何が起きるかを一度体験していた。だから、間に合ったの。あなたが死なずに済んだのは、私が時間を巻き戻したからなんだよ!」


私が言い終えた瞬間、車内に沈黙が訪れた。

 エンジンのアイドリング音だけが、虚しく社内で響いている。

 クロエはじっと私を見つめていたが、やがてフッと鼻で笑うと、再び前を向いてアクセルを踏んだ。


「正直言ってまだ信じられないけど。まあ、いいや。アンタが非常ベルを鳴らしてくれたのは私にとっては事実だし、それで助かったのも事実。……でもな、マックス」

 彼女の声は、先ほどまでの真剣さが嘘のように冷たかった。

「そういう子供騙しの嘘は、私には通用しないからな。昔みたいに、二人で魔法が使えるって信じてた子供ガキの頃じゃないんだから。」


私は深く傷ついた。

 信じてもらえない。当然だ。時間を巻き戻すなんて、物理法則を根底から覆すようなSF世界の力、誰もが信じるはずがない。

 私はそれ以上、何も言えなかった。

 トラックは、黄金色の夕暮れの中に佇む、錆びついた白い灯台のふもとへとたどり着いた。


灯台へと続く丘の斜面は、秋の枯れ草で覆われていた。

 私たちはトラックを降り、潮風に吹かれながら、きしむ木の階段を登っていった。

 足元の枯れ草が、カサカサと乾いた音を立てる。遠くからは、カモメの鳴き声と、波が崖に砕ける轟音が聞こえていた。


丘の頂上からは、アルカディア・ベイの全景が、まるでジオラマのように一望できた。

 夕日に照らされた町。海岸沿いに立ち並ぶダイナー、ガソリンスタンド、そしてブラックウェル高校の校舎。海にはいくつかの漁船が浮かび、穏やかな波が白い美しい線を描いている。


「綺麗だね……」

 私は無意識に呟いた。

 この寂れた町は、シアトルみたいに派手な娯楽なんて何もないけれど、この夕暮れの美しさだけは、世界中のどこにも負けないような気がした。


「……なあ、マックス」

 クロエが灯台の錆びた手すりに背を預け、町を見下ろしながら、ぽつりと言った。

「アンタ、五年前にここを去った時、なんで一度も連絡くれなかったんだ?」


また、その質問だ。

 でも、今回の彼女の声には、怒りよりも、深い悲哀と、どこか諦めに似た感情が滲んでいた。

「ごめん、クロエ。私、ずっと連絡しようと思ってた。本当なの。何度も携帯を手にとって、文章を打って、でも……なんて言えばいいか分からなくて。逃げたの。自分が傷つくのが怖くて。私あなたから逃げたんだよ」


私は白状した。昼間、車の中で言ったことと同じ。でも、今回の言葉には、時間を巻き戻したことで感じた罪悪感も、たっぷりと含まれていた。


「傷つくのが怖くて……」

 クロエは煙草を取り出し、火をつけた。

「アンタが逃げた間、私はこのクソみたいな町で、一人で傷つき続けてきた。パパが死んで、ママはあのクソみたいな元軍人のデイビッドを家に連れ込んで再婚してさ。私の居場所なんて、あの家にはもうない。……あいつが、あいつがいれば、こんなことにはならなかったのに」


あいつ。

 彼女の目元に、アイメイクで縁取られた涙が浮かび上がる。

「クロエ、私……」

「アンタがこの町に帰ってきた時、正直、すげえ嬉しかった。でも、それと同じくらい、すげえ怖かった。またアンタが私を置いて、どこか遠いところへ行ってしまうんじゃないかって。私はまたこの町で一人ぼっちになってしまうんじゃないかって……時間は、魔法なんかじゃ戻らないわよ、マックス。失われた五年間は、戻らないんだよ」


彼女の悲しみがこもった震える声が私の心に深く突き刺さった。

 違う、時間は戻る。確かに戻せるんだ。

 でも、五年前のあの日まで戻れるかは、私には正直分からない。ウィリアムが車に乗るのを引き止められるかは、分からない。

 私はただ、彼女の肩を抱き寄せ、その細い身体を強く抱きしめることしかできなかった。

「ごめん、クロエ。本当にごめん。……私はもう、どこにも行かない。約束する」


クロエは私の胸に顔を埋め、静かに泣いているような気がした。鳴き声は聞こえなかったけど。 黄金色の夕暮れが、彼女の青い髪と、私の茶色の髪を、優しく包み込んでいく。

 この時間が、ずっと続けばいいのに。


その時。


――キィイイイイイイイイイン。


脳髄を直接貫くような、強烈な高周波の耳鳴りが襲った。

 視界が、叩き割られた鏡のように無数の亀裂を走らせる。

 重力が消失し、足元の枯れ草が、空中の埃が、そして灯台の手すりが、まるでビデオテープの逆再生のように歪み始める。

「あ、あああ……!」

 私はたまらずクロエから離れ、こめかみを両手で押さえて、その場に蹲った。

「おいマックス!? どうしたんだ!?」


外界の音が、遠ざかっていく。

 代わりに、私の意識は巨大な渦の中へと飲み込まれていった。

 暗転。


再び目を上げた瞬間、世界は完全に彩度を失っていた。

 灰色。黒。そして鉛色。空気はただひたすらに重かった。深い重厚感を帯びていた。

 叩きつけるような暴風雨。横殴りの雨粒が、まるでつぶてのように全身を打ち据える。

「なに、これ……!?」

 私はずぶ濡れのパーカーをかき合わせながら、泥濘ぬかるみに手をついて身体を起こした。視界の隅で、巨大な杉の木がマッチ棒のようにへし折れ、轟音と共に地面を削るのが見えた。

 ここは……灯台の丘。でも、さっきまでの黄金色の夕暮れはどこへ行った?


私は崖の上を目指した。本能が「高いところへ逃げろ」と叫んでいる。

 ぬかるんだ山道を這うように登りきった先、視界が開けた場所で、私は息を呑んだ。

 空が渦を巻いている。

鉛色の雲が、巨大な漏斗ろうとのように海面へと垂れ下がり、世界を飲み込もうとしていた。竜巻だ。それも、気象学の教科書ですら見たことがないほどの、カテゴリーを超越した巨大な怪物。

 波が荒れ狂い、私の知っている町――食堂も、ガソリンスタンドも、古いレンガ造りの建物も――そのすべてを、無慈悲な灰色の壁が押しつぶそうとしている。


「助けて……誰か……」


私の声は、暴風の咆哮にかき消された。

 その時だ。

 閃光が走り、巨大な灯台が悲鳴を上げた。基部から亀裂が走り、何トンもの鉄とコンクリートの塊が、重力の法則に従ってゆっくりと、しかし確実に私の方へと傾いてくる。

 逃げ場はない。巨大な影が私を覆い尽くす。

 死ぬ。

 私は反射的に右手を掲げた。レンズのないカメラで、最期の瞬間を切り取るかのように。


「――ックス! マックス!」


激しい目眩。世界が回転している。

 冷たい雨も、腐敗臭も、崩落する灯台もない。

 そこにあるのは、夕暮れのアルカディア・ベイ。錆びついた白い灯台。

 そして、私の顔を覗き込んでいる、心配そうなクロエの顔。

「はっ、はっ……」

 浅い呼吸を繰り返す。心臓の早鐘だけが、先ほど見た光景がただの夢ではなかったことを訴えている。

「……幻覚? さっきの竜巻は?」

「竜巻? 何言ってるんだ、マックス」

 クロエは怪訝そうに眉をひそめた。

「アンタ、急に蹲って、竜巻が来るなんて叫び出すから……。大丈夫か?」


私は震える手でこめかみを押さえた。

「……夢じゃない。あれは、絶対に夢じゃない。……クロエ、私がさっき見たのは、この町が巨大な竜巻に飲み込まれる未来なんだよ」

「未来……?何言ってるんだマックス。第一この町に竜巻どころか嵐なんてめったに……」

 クロエは私の顔をじっと見つめ返し、わずかに瞳を揺らした。

 時間を巻き戻せる力は信じなくても、この町を襲う危機の予兆は、何かを感じ取ったのかもしれない。


その時だ。


――……?


何かが、私の鼻先をかすめた。

 冷たく、湿った感覚。

 私は顔を上げた。

 10月の、まだ生暖かい潮風が吹くアルカディア・ベイの空から。

 白い、小さな光の粒子が、ひらひらと舞い落ちてきていた。


「……これって……まさか雪?」

 クロエが呟いた。

 その声には、驚きと、そして微かな恐怖が混じっていた。

「10月に、雪? ……そんなのありえない」


白い雪片は、次から次へと舞い落ち、黄金色に染まっていた夕暮れの空を、灰色へと塗り替えていく。

 錆びついた灯台の手すりに、クロエの青い髪に、そして私の伸ばした手のひらに、白い雪が積もっていく。

 冷たい。

 それは、世界が壊れ始めている兆候だった。

 時間が巻き戻った瞬間私は世界のどこかを崩してしまった。10月の雪。そして、巨大竜巻の映像。

 すべてが繋がっている。

 私は、自分が手に入れてしまった力の重さと、これからこの町を襲うであろう、想像を絶する危機の大きさに、全身が震え出すのを止めることができなかった。

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