第6話:スノードームの逆再生と、ベッドシーツの上の海賊たち
プライス家の前に停まった時、エンジンの振動と共に私の胸の奥で何かが軋んだ。
二階建ての、ありふれた郊外の住宅。ポーチの屋根、少し塗装が剥げかけた白い壁、そして手入れの行き届いていない芝生。
五年前と何も変わっていない。
あの日、ウィリアムの葬儀の後に私が逃げるように飛び出したあの日のまま、クロエと私の時間は常に進み続けていたけれどこの家は時間が止まっているかのようだった。
「ほら、さっさと入るぞ」
クロエがトラックのドアを乱暴に閉め、私を急かした。
「ママはダイナーで夜までシフト入ってるし、あのクソ義父は多分学校で生徒をいじめるのに忙しいから、誰もいないと思う」
彼女の背中を追いかけて玄関をくぐると、懐かしい匂いが鼻を突いた。古い木材と、ジョイス(クロエの母親)がよく焼いていたシナモンの香りが、埃っぽい空気の底に微かにこびりついている。
しかし、リビングルームは異質な空気に支配されていた。壁には見慣れない防犯カメラのモニターが設置され、棚には軍隊の教本が無造作に積まれている。元軍人だったデイビッド・マドセン。家の中にあるそれらは彼がこの家の新しい「家長」として君臨している生々しい痕跡だった。
「私の部屋は二階。勝手知ったる他人の家でしょ?」
クロエは皮肉っぽく笑い、きしむ階段をドスドスと音を立てて登っていく。
彼女の部屋のドアを開けた瞬間、私は言葉を失った。
視覚の暴力。そう表現するしかなかった。
かつて水色だった壁紙は、黒い油性ペンで書かれた無数の落書きや、インディー・バンドのポスター、そして「HOLE TO ANOTHER UNIVERSE(別の宇宙への穴)」という殴り書きで完全に埋め尽くされている。床には脱ぎ捨てられた服、空のビール瓶、怪しげなパイプ、ギターのシールドケーブルがとぐろを巻いていた。
むせ返るような、古い煙草とマリファナの匂い。
ここには、あの頃の無邪気なクロエの居場所はどこにもない。ここは傷ついた野良猫が、外界のすべてを拒絶して作った要塞だった。
「散らかってて悪かったな。メイドが休暇中なもんで」
彼女はベッドの上に放り出されていたレコードのジャケットを足でどかし、コンポの電源を入れた。
私は居心地の悪さを誤魔化すように、部屋の隅へと視線を泳がせた。
その時、ドアの枠に刻まれた無数の傷跡が目に入った。
油性ペンで引かれた線。
『マックス、12歳』『クロエ、12歳』。
一番上には、太く力強い文字で『ウィリアム・パパ』と書かれている。
息が詰まった。彼女の部屋の時間は進んでいたが、この部分だけは止まったように思えた。こんなものを見せられたら、心のダムが決壊してしまいそうだった。彼女はこの五年間のあらゆる日々を、この残酷な「過去の証拠」と共に過ごしてきたのだ。
「……何見てんだよ」
クロエが不機嫌そうに振り返った。
「あ、ううん。なんでもない。ちょっと、懐かしいなって」
私は慌てて視線を逸らし、近くにあった木製の棚へと歩み寄った。そこには、部屋の混沌とした有様とは不釣り合いなほど綺麗に磨かれた、ガラスのスノードームが置かれていた。
中には、アルカディア・ベイの白い灯台のミニチュアが入っている。
無意識のうちに、私はそれに手を伸ばしていた。
重たく、冷たいガラスの感触。少し傾けると、中の液体がゆっくりと舞い上がり、灯台を白い雪が包み込んだ。綺麗だ。
「マックス、それ……」
クロエが鋭い声を上げた。
「えっ!?」
その声に驚いた瞬間、女子トイレでの極度の緊張のせいか、私の指先からふっと力が抜けた。
――あっ。
スローモーションのように、スノードームが私の手から滑り落ちていく。
掴もうと伸ばした指は空を切り、重力という絶対的な法則に従って、それは床のフローリングへと落下した。
ガシャンッ!!
硬質な破砕音が部屋に響き渡った。
飛び散る無数のガラスの破片。床に広がる透明な液体。それらが混ざり合って日の光を反射してきらきらと輝いている。そして、無惨に首から折れて転がる灯台のミニチュア。
ああ、まずい。やってしまった。
血の気が引いていくのを感じた。
「嘘でしょ……あんた、何してんのよ!」
クロエの顔からスッと表情が消え、純粋な怒りと悲しみが爆発した。
「それ、パパが最後に私に買ってくれたやつなのに……! なんで触ったの!? なんであんたはいつも、私の大事なものを壊すの!!」
彼女の絶叫が、私の胸をナイフのように何度も突き刺す。
違う、わざとじゃない。でも、そんな言い訳が通用するはずもない。
パニックで呼吸が浅くなる。どうすればいい。謝る? 破片を拾う?
いいや、私には「別の方法」がある。
女子トイレで、彼女の命を救ったあの方法が。
私は強く目を閉じ、右手を前に突き出した。
頭蓋の奥で、カチリと歯車が逆回転する音が響く。
直後、強烈な鉄の味が口の中に広がり、視界に無数のノイズが走った。
空間が歪む。
ギギギギ、という不快な巻き戻し音が鼓膜を叩く。
床に広がっていた水が、まるで生き物のように中心へと集まり、飛散したガラスの破片が空中に浮かび上がる。時間が逆流していく。重力が反転し、砕け散ったスノードームが、まるでパズルが組み上がるように私の手のひらへと収束していく。
そして、世界がピタッと静止した。
目を開ける。
私の両手の中には、傷一つない完璧な状態のスノードームが収まっていた。
床には水滴一つ落ちていない。
「……マックス?」
少し離れた場所で、クロエが怪訝そうに私を見ていた。彼女の顔に、先ほどの激しい怒りはない。
「急にぼーっとして、どうしたんだ?それ結構重いから落とすなよ」
「えっ……あ、うん」
私は震える手で、スノードームを慎重に棚の上へと戻した。
直った。
いいや、違う。「壊れなかった」のだ。
彼女の記憶の中から、私がそれを落として粉々にした事実そのものが消去されている。
私は自分の右の手のひらを見つめた。鳥肌が立っている。
私は本当に時間を巻き戻せる。そして、やり直せる。それは途方もない万能感と、それに比例するほどの恐ろしい罪悪感を同時に私に植え付けた。
私は、親友の記憶すらも都合よく改ざんしてしまったのだから。
「はぁ……なんだか、今日は疲れすぎた」
クロエはため息をつき、コンポの再生ボタンを押した。
アコースティックギターの、少し憂いを帯びたアルペジオが部屋に流れ出す。
シド・マターズ(Syd Matters)の『Obstacles』。
優しく、すべてを赦すような男性のボーカルが、煙草の匂いと苛立ちに満ちた部屋の空気を、少しずつ柔らかくしていく。
クロエはそのまま、乱れたベッドの上に背中から倒れ込んだ。
スプリングが軋む音。
彼女はブーツを履いたまま、天井の染みをぼんやりと見上げている。
「……座れば」
彼女がぽつりと言った。
私は小さく頷き、彼女の隣に腰を下ろし、そして同じようにベッドに背中を預けた。
二人の間には、三十センチほどの空間が空いている。
その距離が見た目よりもはるかに長い、五年間という果てしない時間の長さを物語っていた。
天井を見上げる。
暗い宇宙空間を模した、蓄光塗料の星がいくつか貼られていた。昔、二人で椅子に乗って貼り付けた安物の星だ。もう光を失って、ただの黄色いプラスチックの塊になり果てている。
私たちは昔、このベッドを海賊船に見立てて、アルカディア・ベイという小さな海を支配する夢を見ていた。二人なら無敵だと信じていた。
でも今は、嵐の中で難破した船の残骸に、それぞれがしがみついているだけだ。
「……なあ、マックス」
音楽の隙間に、クロエの掠れた声が落ちた。
「今日は、サンキュー」
「え?」
「トイレの非常ベル。あんたが鳴らしてくれなきゃ、私、マジで死んでたかもしれないから」
彼女は私の方を見なかった。天井を見つめたまま、強がるような、でも微かに震える声でそう言った。
胸の奥が熱くなり、視界が滲んだ。
私は、自分が魔法の力で彼女の命を救ったことなんて、絶対に言えない。言ってはいけない。
私が直せるのは、壊れたスノードームや、些細な選択のミスだけだ。彼女の心に空いた巨大な穴や、死んでしまった彼女の父親を生き返らせることはできない。
「……どういたしまして」
私は涙声になるのを必死に堪えながら、短く答えた。
スピーカーからは、ただ静かに、美しいメロディが流れ続けている。
私は目を閉じ、三十センチ横にある彼女の体温と、微かな煙草の匂いを感じ取っていた。
この時間が、ずっと続けばいいのに。この瞬間がずっと永遠に。
このベッドという小さな島の上で、世界から忘れ去られたまま、二人きりで音楽を聴き続けていられたなら。
しかし、私の能力がどれほど時間を巻き戻そうとも、残酷な未来は確実に私たちへと足音を忍ばせながら近づいていた。
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幕間:セピア色の海賊たちと、永遠の夏
シド・マターズの優しいアルペジオが、まどろみへと誘う揺りかごのように意識を包み込んでいく。
三十センチ横から聞こえるクロエの規則正しい呼吸音。微かな煙草の匂い。
私はゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏で、音楽のノイズがいつしか、古い映写機のフィルムが回るカラカラという音へとすり替わっていく。
そして、暗闇の中にポツリと、黄金色の光が灯った。
私は夢の中にいた。13歳の夏。
アルカディア・ベイの空は、今よりもずっと高く、どこまでも抜けるような美しい青色をしていた。
太陽の光が庭の芝生を焼き、スプリンクラーから放たれる水しぶきが、小さな虹を作っては消えていく。
「いけっ、マックス副船長! あの忌まわしいイギリス海軍を海の底へ沈めてやれ!」
高い、無邪気な笑い声。
私の前を走る少女の髪は、青く染められてなどいなかった。太陽の光をたっぷり吸い込んだ、輝くようなブロンドヘア。彼女は段ボールで作った立派な海賊帽を被り、木の枝の剣を天高く掲げていた。
クロエだ。
タトゥーも、ピアスも、世の中のすべてを憎むような鋭い目つきもない。そこにあるのは、世界は自分たちのために回っていると無邪気に心の奥底から信じている、どこにでもいる元気な13歳の女の子の姿だった。
「アイアイサー、クロエ船長!」
私はプラスチックの水鉄砲を構え、見えない敵に向かって乱射した。
二人は庭を駆け回り、古タイヤのブランコを飛び越え、息を切らして笑い転げた。私たちにとって、このプライス家の庭は広大な七つの海であり、リビングルームに作った毛布の砦は、難攻不落の海賊船だった。
「おやおや、恐ろしい海賊たちが我が家の庭を占拠しているようだぞ」
不意に、網戸が開く心地よい音が響き、デッキに一人の男性が現れた。
ウィリアム・プライス。クロエの父親だ。
彼はエプロン姿のまま、目尻に深い笑い皺を刻んで私たちを見下ろしていた。その手には、使い込まれたポラロイドカメラ――SX-70が握られている。
「パパ! 違うよ、私たちはアルカディア・ベイの平和を守る義賊なんだから!」
クロエが小走りで駆け寄り、ウィリアムの腰に抱きついた。
「そうだったな。よし、じゃあ勇敢な海賊たちの肖像画を残しておこう。マックス、こっちへおいで」
私は少し照れくさそうに歩み寄り、クロエの隣に並んだ。
クロエが私の肩に腕を回し、力強く引き寄せる。彼女の体温と、太陽に熱された服の匂い。
「さあ二人とも、世界で一番恐ろしい顔をして」
ウィリアムがカメラを構え、ファインダーを覗き込む。
私は精一杯の悪者の顔を作り、クロエは木の剣をカメラに突きつけて「ガオー!」と吠えた。
――カシャッ。
機械的な駆動音と共に、吐き出される白いフィルム。
ウィリアムはそれを指先で弾きながら、目を細めた。
「いい写真だ。きっと百年後には、歴史の教科書に載る大悪党の顔だな」
「やった! ねぇマックス、私たちずっとこのまま、最強のコンビでいようね!」
「うん、もちろん!」
私は深く頷いた。
あの頃の私は、彼女の隣にいれば無敵になれると本気で信じていた。引っ込み思案で自分に自信がない私にとって、クロエは太陽だった。
そして、ウィリアムが手品のように白い紙から景色を浮かび上がらせるあのカメラが、魔法の道具にしか見えなかった。私が写真に魅了されたのは、間違いなく彼の影響だった。
あの完璧な夏の日。
永遠に続くと思っていた、黄金色の輝かしい時間。
ウィリアムが焼いてくれた甘いパンケーキの匂い。クロエの屈託のない笑顔。
でも、写真は残酷だ。
時間が経てば経つほど、その「一瞬」が二度と戻ってこないことを、容赦なく突きつけてくるのだから。
やがて、私の目の前で、ウィリアムの姿が古い写真の縁が燃え上がるように、セピア色に焦げて崩れ落ちていく。
クロエの笑顔が、悲鳴に変わる。
黒い喪服。降りしきる雨。閉じられる棺。
私は耳を塞ぎ、後ずさった。
待って。行かないで、ウィリアム。
置いていかないで、クロエ。私を、一人にしないで。
「……クスッ」
自分の小さな寝息に驚いて、私はハッと目を開けた。
呼吸が荒くなっている。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛い。
天井には、光を失ったプラスチックの星。
スピーカーからは、まだシド・マターズの静かな音楽が流れ続けている。
私は、クロエの部屋のベッドの上にいた。
三十センチ横を見る。
そこには、青い髪をした18歳のクロエが、目を閉じて静かな寝息を立てていた。
彼女の目元には、泣きはらしたような微かなアイメイクの滲みがあり、腕には棘のある植物のタトゥーが刻まれている。
あの輝くようなブロンドヘアの海賊は、もうどこにもいない。
私を置いていったのはクロエではない。私の方だったのだ。
私はそっと手を伸ばし、彼女と私の間に広がるシーツの皺に触れた。
冷たい。
私は自分の右の手のひらを見つめた。
時間を巻き戻す力。
もし、この力が「あの夏の日」まで届くのなら。
ウィリアムが車に乗って交差点へ向かう、あの運命の朝まで時間を巻き戻すことができたなら。
私は強く拳を握りしめ、ゆっくりと深呼吸をした。
過去を嘆くのはもうやめよう。
失われた五年間は戻らない。けれど、私は今日、女子トイレで彼女の命を救った。今この瞬間、クロエが温かい体温を持って、私の隣で息をしている。その事実だけが、今の私を支える唯一の希望だった。
私は少しだけ身をよじり、クロエの背中に背を向ける形で丸くなった。
外では、アルカディア・ベイの夕暮れが、冷たい夜の闇に飲み込まれようとしていた。




