第五話 錆びたトラックと、空白の五年間の重力
非常ベルのけたたましいサイレンが、ブラックウェル高校の敷地全体をパニックの渦に巻き込んでいた。
校舎から吐き出されるように逃げてくる生徒たちの波を逆行し、私たち二人は駐車場へと駆け込んだ。秋の冷たい風が、火照った頬を容赦なく打ち据える。
「こっちだ、早く!」
数メートル前を走るクロエが、振り返りざまに叫んだ。
彼女の鮮やかなブルーの髪が風に煽られ、炎のように揺らめいている。私は息を切らしながら、ぬかるんだ砂利を蹴って彼女の後を追った。
駐車場の一角に、ひときわ異彩を放つ車が停まっていた。
色褪せた水色のボディ、あちこちに刻まれたへこみと擦り傷、錆びついたバンパー。まるで、何度もスクラップ工場行きを免れてきた野良犬のような、古いピックアップトラック。
クロエはポケットから乱暴にキーを取り出し、運転席のドアをガチャリと開けた。
「早く乗って!」
私は彼女に促されるままに助手席へ転がり込み、重たいドアを力任せに閉めた。
ドンッ、というくぐもった金属音と共に、外の喧騒が一気に遠ざかる。
車内には、古いレザーシートの匂いと、染み付いた安物の煙草のヤニ、それに微かなマリファナの甘ったるい香りが充満していた。芳香剤代わりの松の木の形をした厚紙が、バックミラーの下で虚しく揺れている。
クロエがキーを回すと、トラックはまるで肺病を患った老人のような咳込みを何度か繰り返し、やがて野太いエンジン音と共に目を覚ました。
「しっかりと捕まってな」
彼女はギアを乱暴に叩き込むと、アクセルを踏み込んだ。
後輪が砂利を激しく巻き上げ、車体が大きく揺れる。私たちは駐車場を飛び出し、アルカディア・ベイの海岸沿いへ続く一本道へと滑り出した。
流れる景色。遠ざかる学校。
車内には、エンジンの低い唸り声と、タイヤがアスファルトを噛む音だけが響いていた。
私はシートベルトをきつく握りしめ、横目で運転席のクロエを盗み見た。
ハンドルを握る手には、いくつものタトゥーが刻まれている。色を失ったグレーのタンクトップから覗く肩は、記憶の中の彼女よりもずっと細く、そして刺々しかった。
五年。
たった五年で、人間はここまで変わってしまうものなのだろうか。私と一緒に屋根裏部屋で海賊ごっこをして、毛布の砦を作って笑い合っていたあの純粋な少女は、一体どこへ消えてしまったの?
「……で?」
唐突に、クロエが沈黙を破った。
前方を睨みつけたまま、彼女の声は信じられないほど冷たかった。
「いつからこの町に戻ってきてたわけ? マックス」
心臓が冷たい手で鷲掴みにされたような気がした。
責められている。当然だ。
「えっと……い、一ヶ月、くらい前かな」
私の声は、自分でも嫌になるほど小さく、震えていた。
「一ヶ月」
クロエは鼻で笑った。それは明確な嘲笑だった。
「一ヶ月もアルカディア・ベイにいて、ブラックウェルに通ってて。ので私には連絡の一つも寄越さなかったってわけだ。シアトルに引っ越してからの五年間、たったの一度もテキストメッセージすら送ってこなかったみたいにね」
彼女の言葉は、研ぎ澄まされたナイフのように私の急所を正確に抉ってきた。
痛い。でも、痛いと言える資格すら私にはない。
「ごめん、クロエ……。私、ずっと連絡しようと思ってたの。何度も携帯を手にとって、文章を打って、でも……なんて言えばいいか分からなくて」
「なんて言えばいいか?」
クロエは信号待ちで乱暴にブレーキを踏み、初めて私の方を向いた。
アイメイクで縁取られた彼女の瞳には、怒りと同じくらいの、深い悲哀が沈んでいた。
「『久しぶり、元気?』でいいじゃねえか。それともなんだ? 『お父さんが死んで可哀想なクロエ、まだ立ち直れてない?』って聞くのが怖かったわけ?」
「違う! そういうんじゃないの!」
私はたまらず叫んだ。
「ウィリアムの……おじさんの葬式の後、私がシアトルに引っ越した時、私自身もどうしていいか分からなかった。自分がすごく無力で、あなたにかける言葉が一つも見つからなくて。逃げたの。自分が傷つくのが怖くて、あなたから逃げたんだよ」
白状してしまえば、少しだけ楽になれると思っていた。
でも、言葉にすればするほど、自分の狡さと惨めさが浮き彫りになるだけだった。
クロエはじっと私の顔を見つめていた。その青い瞳の奥で、どんな感情の嵐が吹き荒れているのか、私には読み取れない。
やがて信号が青に変わり、彼女は無言で視線を前へ戻し、再びアクセルを踏んだ。
「……相変わらず、言い訳だけは一丁前だな、マックス・コールフィールド」
突き放すような口調。けれど、先ほどまでの氷のような冷たさは、ほんの少しだけ溶けている気がした。
クロエはダッシュボードから煙草の箱を取り出し、片手で器用に一本咥えると、使い古されたジッポライターで火をつけた。
シュボッ、という音と共に、青白い煙が車内に広がる。
彼女は窓を少しだけ開け、紫煙を外へ吐き出した。
「まあ、いいや」
煙草を指に挟んだまま、クロエが言った。
「今日はアンタに命を救われた。あのクソ野郎……ネイサンの銃口がこっちを向いた時、マジで終わったと思ったからな。まさか非常ベルが鳴るなんて、タイミング良すぎだろ」
彼女の言葉に、私は息を呑んだ。
非常ベル。
そうか、彼女の認識では、私はただ「タイミング良く非常ベルを鳴らしてくれた昔の友達」に過ぎないのだ。
私が時間を巻き戻して運命を変えてしまったことなど、知る由もない。自分の腹部を銃弾が貫き、冷たい床の上で命を散らした「もう一つの現実」があったことなんて。
「ねえクロエ……ネイサンとは、どういう関係なの?」
私は話題を変えるように、慎重に尋ねた。
「ただの金持ちのいじめっ子じゃない。目が普通じゃなかった。銃なんか持ち出して……これってすぐに警察に行った方がいいよ」
「はあ?警察?」
クロエは心底可笑しそうに笑い声を上げた。
「アルカディア・ベイの警察が、お偉いプレスコット家の御曹司を捕まえるわけなだろ。あいつの親父は、この町の半分を買い取ってるんだから」
彼女は煙草の灰を窓の外へ落とした。
「ちょっとしたビジネスのトラブルだよ。あいつ、私が金に困ってるのを知ってて、ヤバいクスリの取引を持ちかけてきた。で、私がその金を……まあ、ちょっと『前借り』させてもらったってわけ」
「クロエ、それって……」
「お説教なら他所でやってくれ」
彼女は苛立たしげに私の言葉を遮った。
「アンタがシアトルで優雅にラテを飲んでる間、こっちはクソみたいな現実と戦ってきたの。パパが死んで、ママはあのクソみたいな元軍人のデイビッドを家に連れ込んで再婚してさ。私の居場所なんて、あの家にはもうないんだから」
デイビッド。
ブラックウェル高校の警備主任をしている、あの神経質で威圧的な男。彼がクロエの義理の父親になっていたなんて、知らなかった。
私の知らない五年間が、クロエという少女を根本から作り変えてしまったのだ。
私は膝の上で両手を強く握りしめた。右手のひらが、先ほど時間を巻き戻した時の熱をまだ微かに帯びているような気がした。
もし、私のこの力が、もっと昔の過去まで戻れるとしたら。
もし、五年前のあの日、ウィリアムが車に乗るのを引き止めることができたなら。
そうすれば、クロエはこんな風に傷つくこともなく、不良になることもなく、私たちは今でも親友同士でいられたのだろうか?
「……どこへ行くの?」
私は重苦しい空気を振り払うように窓の外を見た。車は町を抜け、木々が鬱蒼と生い茂る住宅街へと向かっている。
「私の家」
クロエが短く答えた。
「ママは仕事だし、あのクソ義父も学校でパトロール中だ。アンタも、とりあえず落ち着きたいだろ」
彼女はカーステレオのスイッチを入れた。
ノイズ混じりのスピーカーから、ざらついたインディー・ロックのギターリフが流れ出す。
重低音がシートを通して私の背中を震わせた。
クロエは音楽に合わせて小さく頭を揺らしながら、煙草の煙を吐き出している。その横顔は、やはり私の知らない大人の女性のものだったけれど、ハンドルを握る指先が微かに震えているのを、私は見逃さなかった。
強がっているだけだ。
彼女もまた、一人でこの理不尽な世界に怯え、傷つき、必死に棘を立てて自分を守っているに過ぎない。
「……ごめんね、クロエ」
音楽の音量に負けないように、私はもう一度だけ言った。
「戻ってきたこと、黙ってて。本当にごめん」
クロエは何も答えなかった。
ただ、カーステレオのボリュームのつまみを、乱暴に少しだけ右に回した。
耳を劈くようなギターの歪みが、私たちの間にある「五年間という途方もない距離」を、ほんの少しだけ埋め尽くしてくれたような気がした。
幕間:マックスの日記(あるいは、ブラックウェル生態系についての観察)
10月7日(月)
今日は完全に狂ってる。
もし誰かがこの日記を読んだら、私は正真正銘のイカれ女だと思われて、精神科病棟の独房に入れられてしまうだろう。でも書かずにはいられない。頭蓋骨の中で思考がノイズみたいに反響して、吐き気がする。
巨大な竜巻がアルカディア・ベイを飲み込む悪夢。
女子トイレに舞い込んだ青いモルフォ蝶。
銃声。血の海。
そして……「時間が巻き戻った」という、絶対にあり得ない現実。
私は、壊れたカセットテープを巻き戻すみたいに、世界の時間を逆回転させた。
そして、一人の女の子の命を救った。
神様気取り? 違う。私はただの臆病なティーンエイジャーだ。でも、あの瞬間の鉄の味と、世界がひび割れるような感覚は、絶対に幻覚なんかじゃない。
頭を整理するために、今日私の周りにいた(そしてこれからも関わることになるだろう)人間たちについて書き留めておく。ポラロイド写真にキャプションを添えるみたいに。
クロエ・プライス(Chloe Price)
女子トイレで撃たれそうになっていた、青い髪のパンク・ガール。
そして、私の……かつての親友。
本当に信じられない。5年ぶりに再会した彼女は、まるで別人のようにトゲトゲしくて、怒りに満ちていた。色褪せたタンクトップ、タトゥー、乱暴な言葉遣い。私が知っている、一緒に海賊ごっこをして遊んだ13歳のクロエはどこへ行ってしまったの?
……分かってる。全部私のせいだ。ウィリアム(彼女のお父さん)が事故で死んだ直後、私はシアトルへ引っ越して、彼女からの連絡を無視し続けた。私は逃げたんだ。彼女が一番私を必要としていた時に。
今日、私は時間を巻き戻して彼女の命を救った。でも、私たちが失った「5年間」という時間は、どんな魔法を使っても巻き戻せない気がする。
ネイサン・プレスコット(Nathan Prescott)
アルカディア・ベイの王様気取りの、最低のクソ野郎。
プレスコット家はこの町を牛耳っていて、ブラックウェル高校の最大のスポンサーでもある。だから校長でさえネイサンには逆らえない。
でも、今日のあいつは異常だった。トイレでクロエに銃を突きつけていた時の、あの焦点の合わない目、震える手、金切り声。ただの甘やかされた金持ちのドラ息子じゃない。あいつの闇は、もっと深くてもっと危険だ。
非常ベルを鳴らして追い払ったけど、あいつが私を見た時のあの狂犬みたいな目を思い出すと、今でも胃がねじ切れそうになる。
マーク・ジェファソン(Mark Jefferson)
90年代の伝説的フォトグラファーにして、私のアイドル。
彼がこの田舎町の高校で教鞭をとっていること自体が奇跡だし、私がブラックウェルに来た理由も彼の授業を受けるためだ。
でも、今日の彼は少し怖かった。「魂の不在」について語る彼の言葉は正論だけど、生徒を容赦なく切り捨てるような冷たさがあった。
結局、私は時間を巻き戻すという「ズル」をして、彼の質問に完璧に答えてみせた。ジェファソン先生は私を褒めてくれたけど……なんだか、自分自身がすごく偽物に思えて嫌になる。私は彼に認められたいのか、それともただ怯えているだけなのか。
ビクトリア・チェイス(Victoria Chase)
カシミアのセーターを着た、スクールカーストの頂点に君臨する女王蜂。
親の金で最新のデジタル機材を揃え、取り巻きを引き連れて廊下を闊歩している。彼女にとって、時代遅れのポラロイドをぶら下げている地味な私は、風景の一部か、せいぜいからかうためのオモチャでしかない。
彼女の自信に満ちた態度は、私のコンプレックスを容赦なくえぐってくる。いつか、彼女のあの完璧な鼻をへし折ってやりたいと思う自分と、彼女みたいに堂々と生きてみたいと羨む自分がいて、余計にイライラする。
ウォーレン・グラハム(Warren Graham)
科学オタクで、B級映画マニアで、このブラックウェルというジャングルにおける、私の数少ない安全地帯。
彼は本当にいい奴だ。いつも私を気にかけてくれるし、話していて気が楽になる。でも……彼から向けられる「好意の矢印」が時々すごく重たく感じる。ドライブイン・シアターへの誘いも、つい誤魔化して逃げてしまった。
私は今、誰かの特別な存在になる余裕なんてない。自分の輪郭すら掴めていないのに。ウォーレンには悪いけど、もう少しだけ距離を置かせてほしい。
これからクロエのトラックに乗って、学校を抜け出す。
彼女は私の顔を見て、どんな言葉を投げつけるだろう。怒る? 呆れる? それとも……。
右手のひらが、まだジンジンと熱を持っている。
時間を操る力。これが私に与えられたギフトなのか、それとも呪いなのかは分からない。でも、私がこのピンを抜いてしまった以上、もう引き返すことはできないんだ。
(日記の隅に、羽の破れた蝶のスケッチが乱雑に描かれている)




