第4話 ダゲレオタイプの証明と、運命への介入
「……アルフレッド・スティーグリッツ。彼をご存じかな?」
そのバリトンボイスは、全く同じイントネーションで、全く同じ間で放たれた。
私は自分の呼吸が止まりそうになるのを感じた。
私の肺の奥にへばりついていたはずのあの硝煙の匂いがない。代わりに、現像液と古い紙の匂いが鼻腔を満たしている。視界を覆っていた真っ赤な血だまりは消え失せ、午後の気怠い陽光が埃を黄金色に照らし出している。
机の上にはポラロイドカメラ。机の下には教科書やカメラを入れているバッグ。そして、私の両手は血に染まってなどいなかった。
鼓膜の奥で、まだあの銃声が反響している。
青い髪の少女の、驚愕に見開かれた瞳。
崩れ落ちる身体。
あれは夢? 幻覚?
いや、違う。私の耳の奥底には劈くような銃声の轟音がへばりついている。そして私の口の中には、まだあの強烈な鉄の味――時間が砕け散った時の、あの金属的な血の味がはっきりと残っている。
「彼はかつてこう言った。『私は、そこに在るがままの瞬間に魅了される』とね」
ジェファソン先生が窓辺に立ち、逆光の中でシルエットを作る。
一言一句、すべてが同じだ。まるで、傷のついたレコードが全く同じフレーズを繰り返しているかのように。
私は震える手で、パーカーの袖を強く握りしめた。
時間が、巻き戻ったのだ。
狂っている。でも、もしこれが本当に「やり直された現実」なのだとしたら。
私の脳裏に、一つの強烈な衝動が突き上げた。試さなければ。自分が本当にこの世界の法則から逸脱してしまったのかを。
「さて、写真とは光と影の芸術だが……ここで皆に質問しよう」
ジェファソン先生が黒板に向き直った。
「写真というプロセスを事実上発明し、人類で初めて『肖像写真』という概念を定着させた人物。それは誰かな?」
教室が静まり返る。
前の「時間軸」では、ここで私は指名され、まともに答えることができずに恥をかいた。そして、最前列のビクトリア・チェイスが勝ち誇ったように正解を口にしたのだ。
ビクトリアが、自信満々にマニキュアを塗った指を挙げようと肩を揺らすのが見えた。
私は、自分でも信じられないほどの速さで、彼女より先に右手を真っ直ぐに突き上げた。
「……おや」
ジェファソン先生が、少し驚いたように眉を上げた。クラス中の視線が一斉に私に突き刺さる。ビクトリアが信じられないものを見るような目で振り返った。このクラスの誰一人として私が手を挙げるとは考えてもいなかったのだろう。ジェファソン先生ただ一人を除いては。
「珍しいな、マックス。君から発言を求めるとは。では、答えてもらおうか」
心臓が早鐘を打っている。喉がカラカラだ。でも、不思議と声は震えなかった。私は、すでに一度経験した「過去」をなぞっているだけなのだから。
「ルイ・ダゲールです」
静かな教室に、私の声がはっきりと響いた。
「1839年に彼が発明した『ダゲレオタイプ(銀板写真)』は、銀メッキをした銅板を感光材料として使うものでした。それによって、かつては画家しか描けなかった人間の肖像を、光の力で定着させることが可能になりました」
私が回答を言い終えた瞬間、教室の空気がガラッと変わったのが分かった。
数人の生徒が感嘆の息を漏らし、ビクトリアは忌々しそうに舌打ちをして前を向いた。
「……完璧な回答だ、マックス」
ジェファソン先生の顔に、明らかな賞賛の笑みが浮かんだ。先ほどの時間軸で見せた「失望」とは真逆の表情。
「まさにその通り。ルイ・ダゲールは、一瞬の光を永遠に変える魔法を人類にもたらした。君がそこまで深く理解していたとは、教師として喜ばしいよ」
先生の言葉は、これ以上ない「証明」だった。
出来た。
私は、未来を変えたのだ。
些細な教室での一コマに過ぎない。けれど、あの時かいた恥は帳消しになり、私はジェファソン先生から賞賛を得た。この手で、世界線の分岐のスイッチを切り替えたのだ。
歓喜よりも先に、底知れぬ恐怖が足元から這い上がってきた。
神の領域。それに触れてしまったという絶対的な事実。
ジリリリリリリリリ――!
授業の終わりを告げるベルが、けたたましく鳴り響いた。
ビクッと肩が跳ねる。
感傷に浸っている暇はない。時計の針は、着実に「あの悲劇」へと向かって進んでいる。
あと数分。数分後には、あの女子トイレでネイサン・プレスコットが引き金を引き、青い髪の少女が死ぬ。
私は弾かれたように立ち上がり、鞄をひったくって教室を飛び出した。
「マックス! やるじゃん、さっきの答え――」
廊下に出た瞬間、Tシャツ姿のウォーレンが声をかけてきた。
「ごめん、ウォーレン! 後で!」
「えっ、あ、おい!」
困惑する彼の声を背中で振り切り、私は人混みをかき分けて進んだ。
見慣れた廊下、ロッカーの開閉音、生徒たちの嬌声。すべてが先ほどと同じはずなのに、今の私にはそれが「これから起こる死」へのカウントダウンにしか聞こえなかった。
急げ。急げ。
息を切らしながら「女子トイレ」のドアに手をかけ、体重を乗せて押し開ける。
タイル張りの冷ややかな空間。
誰もいない。間に合った。
洗面台の隅を、あの鮮やかな青い蝶が舞っていた。モルフォ蝶。先ほどはこれに気を取られて写真を撮っていた。けれど今の私にとって、そんな悠長なことをしている猶予はない。
私はカメラを無視し、一番奥の個室へと飛び込んで、音を立てずに鍵をかけた。
数秒後。
バンッ!!
入り口のドアが激しく蹴り開けられた。
「くそっ、ふざけんな! なめやがって……!」
ネイサンだ。
粗い息遣い。革靴の音。呪詛のような独り言。
すべてが「予定通り」に進行していく。私は冷や汗を流しながら、個室の中で周囲を見回した。
どうすればいい?
飛び出して「やめて!」と説教する? いや、狂乱状態の彼が素直に銃を下ろすわけがない。むしろ最悪の場合、私が撃たれて終わる。
何か、彼を止めるための物理的な手段が必要だ。
個室の隅に、清掃用のモップが立てかけられているのが見えた。そしてドアの隙間から外を窺うと、洗面台の鏡の横の壁に、赤い非常ベルのボックスが設置されている。
あれだ。
「おい!見つけたぞ、クソ野郎」
掠れた声と共に、青い髪の少女が入ってきた。
心臓が喉から飛び出しそうだった。二人の口論が始まる。
「私の金はどうした!」
「俺を脅す気か!」。
言葉の応酬がヒートアップしていく。
私はモップの柄を両手で強く握りしめた。木製の柄には無数のささくれがあり、手のひらに食い込んで痛い。でも、その痛みが今の私を現実に繋ぎ止めていた。
「パパのオモチャでも持ち出してきたのか? 撃てるもんなら撃ってみろよ」
「俺を……試すなっ!」
さっきのように青い髪の少女がネイサンを煽る。
そして煽られたネイサンが銃を抜いた。
黒光りする銃口が、少女に向けられる。揉み合いになる二人。
「今だ!」
マックスは個室のドアを蹴り開け、外に飛び出した。
二人が驚いてこちらを振り向くよりも早く、私はモップの柄を大きく振りかぶり、赤い非常ベルのボックス目掛けて思い切り叩きつけた。
ガシャンッ!!
保護ガラスが砕け散る音に続き、鼓膜を劈くようなけたたましいサイレンが、トイレの密室で爆発した。
ジリリリリリリリリリ!!
警告の赤色灯が猛烈な勢いで回転し、視界をチカチカと赤く染め上げる。
「なっ……!?」
突然の轟音と光に、ネイサンは完全にパニックに陥った。
銃を持った手が泳ぎ、足がもつれる。
「クソッ、クソが!! 誰だお前は!」
彼は狂犬のように私を一度だけ睨みつけたが、けたたましく鳴り続けるサイレンの圧力に耐えきれず、銃をジャケットに隠すと、脱兎のごとく廊下へと逃げ出していった。
残されたのは、私と、青い髪の少女。
サイレンの音で耳が痛い。私は肩で息をしながら、握りしめていたモップを床に取り落とした。
カラン、と乾いた音が鳴る。
「……あんた」
少女が、信じられないものを見るような目で私を見つめていた。
その顔。
目元を黒く縁取ったアイメイク。不機嫌そうに歪んだ唇。鮮やかなブルーの髪。
先ほどは背中越しにしか見えず、さらに血の海と恐怖でまともに顔を確認する余裕などなかった。
けれど今、正面から彼女の顔を見た瞬間、私の脳内のパズルピースがカチリと音を立ててはまった。
「クロエ……?」
無意識に、その名前が唇からこぼれた。
5年前にアルカディア・ベイを去る前、私の世界のすべてだった親友。
こんなパンクな姿に変わってしまっているけれど、間違いない。あの生意気で、寂しがり屋で、誰よりも純粋だったクロエ・プライスだ。
彼女は私の顔をじっと見つめ返し、わずかに瞳を揺らした。
しかし、今は再会を祝してハグをしている場合ではない。廊下からは、サイレンに驚いた生徒たちや教師たちの怒号が近づいてきている。
「……ここじゃマズい。行くぞ!」
クロエは私の腕を乱暴に掴むと、力強く引っ張った。
私たちは非常ベルが鳴り響くトイレを飛び出し、混乱の渦中にある廊下を抜け、外の駐車場へと全速力で駆け出した。
冷たい風が頬を打つ。
私は走る彼女の背中を見つめながら、確信していた。
もう、あの退屈で安全な「観察者」としての日常には戻れない。
私は自らの手で時間を巻き戻し、親友の死という運命の糸を、力ずくで引きちぎってしまったのだ。
そしてそのまたどこか、マックスの知らない場所で引きちぎられた運命の糸を補うかのように新たな細い一本の運命の糸が生まれた。どんな色なのか、どれくらいの長さなのか、どんな運命の糸なのか誰も知らなかった。しかし、確かにそこに新しい一本の運命の糸がひっそりと生まれたのだ。




