第3話 モルフォ蝶の羽ばたきと、砕け散る時間
モルフォ蝶は、薄暗い女子トイレの空間で、そこだけが異界の窓口であるかのように青く発光していた。
私は息を殺し、ポラロイドカメラを構える。
ファインダー越しに見るその羽の模様は、まるで精密なガラス細工のようだった。近づきすぎれば飛び立ってしまう。遠すぎれば、この退屈な蛍光灯の光に負けてしまう。
私は慎重に距離を測り、ピントリングを回した。
完璧な構図。完璧な静寂。
――カシャッ。
フラッシュの白い光がタイル張りの壁に反射し、一瞬だけ視界を白く染め上げた。
驚いた蝶は、ひらひらと優雅な軌跡を描きながら、換気扇の隙間へと吸い込まれるように消えていった。
手元には、ジージーと音を立てて吐き出された一枚の黒いフィルム。私はそれを大切にポケットへしまい込み、一番奥の個室のドアを押し開けた。
冷たい便座の蓋を下ろし、その上に腰を下ろす。
ふう、と肺の底に溜まっていた澱のような空気を吐き出した。
静かだ。
タイルを打つ水滴の音だけが、等間隔に響いている。ここはブラックウェル高校における私の唯一の聖域だった。誰も私を評価せず、誰も私を嘲笑わない、完璧な密室。
――バンッ!!
突如として、その静寂は暴力的に打ち破られた。
入り口の重いドアが、壁に激突するほどの勢いで蹴り開けられたのだ。
私はビクッと肩を震わせ、無意識に息を止めた。
「くそっ、ふざけんな! なめやがって……!」
荒々しい男の声。そして、革靴がタイルを乱暴に叩く足音。
ここは女子トイレのはずだ。なのに、迷い込んできた足音には一切の躊躇がない。
私は便座の上で身を縮こまらせ、ドアの隙間からそっと外を窺った。
鏡の前に立っていたのは、ネイサン・プレスコットだった。
アルカディア・ベイの半分を所有していると言われるプレスコット家の御曹司。学校への莫大な寄付金を盾に、教師すら彼には逆らえない。特権階級の頂点に君臨する男。
だが、今の彼からその傲慢な余裕は消え失せていた。
高級な赤いジャケットを身に纏っているものの、その下にある肩は小刻みに震えている。彼は鏡の中の自分を睨みつけながら、呪詛のように言葉を吐き捨てていた。
「俺はプレスコットだぞ……誰も俺をコケにすることなんかできないんだ。クソッ、クソが!」
ネイサンは蛇口をひねり、乱暴に水をすくって顔を洗った。
異常だ。彼の様子は明らかに普通ではなかった。焦点の合わない瞳、過呼吸気味の浅い息、絶えず貧乏揺すりをしている足。薬物をキメているのか、それとも極限のストレス状態にあるのか。
私は恐怖で喉がカラカラになるのを感じた。
もし、ここで見つかったら。
個室に引きこもる陰気な女が、自分の惨めな姿を盗み見ていたと知ったら、彼が何をするか分からない。私は自分の存在を消し去るように、冷たい壁に背中を押し付けた。
その時、再び入り口のドアが開いた。
今度は蹴り開けるような音ではなかったが、足取りはひ酷く挑戦的で、怒りに満ちていた。
「見つけたぞ、クソ野郎」
ドスの効いた、それでいてどこか聞き覚えのあるような、掠れた女の声。
隙間から覗き込むと、そこには鮮やかなブルーのショートヘアをした少女が立っていた。
色褪せたグレーのタンクトップに、タトゥーの刻まれた腕、パンクロックのバンドマンのような革のブーツ。彼女はこのブラックウェルの生徒ではない。少なくとも、私が見たことのあるタイプではなかった。
「……何の用だ。ここは女子トイレだぞ」
ネイサンは鏡越しに彼女を睨みつけた。
「アンタが言うセリフじゃなな、ネイサン。私の金はどうした。クスリの代金、まだ
払ってもらってないんだけど?」
「うるさい! 俺を脅す気か!?」
二人の声が、狭いトイレの中で反響し、鼓膜を突き刺す。
青い髪の少女は怯むことなく、ネイサンとの距離を詰めた。
「脅してなんかねえよ。ビジネスの話をしてるんだアタシは。アンタ、あたしがただで引き下がると思ってんの?」
「黙れ! お前みたいな底辺のゴミが、俺に....この俺に指図するな!」
ネイサンの声が裏返った。
彼は狂ったように頭を振り、次の瞬間、ジャケットの内ポケットから「それ」を取り出した。
鈍い銀色の光。
拳銃。
本物だ。映画の小道具でも、護身用のスタンガンでもない。圧倒的な「死」の匂いをまとった、重たい金属の塊。
「嘘でしょ……」
私の唇から、声にならない悲鳴が漏れた。
心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち鳴らされる。逃げなければ。誰かを呼ばなければ。でも、足がコンクリートで固められたように一歩も動かない。
「ハッ」
銃口を向けられた青い髪の少女は、一瞬だけ息を呑んだものの、すぐに嘲笑を浮かべた。
「パパのオモチャでも持ち出してきたのか? 撃てるもんなら撃ってみろよ、この臆病者」
「俺を……試すなっ!」
ネイサンの手がガタガタと震えている。彼は引き金に指をかけ、後ずさりする少女に向かって銃口を突きつけた。
「や、やめろって、ネイサン! 本気なのか!?」
少女の声に初めて恐怖の色が混じった。彼女は両手を前に出し、ネイサンをなだめようとした。あるいは、銃を奪おうとしたのかもしれない。
二人の身体が揉み合いになる。
やめて。
やめて!
私は無意識に個室のドアに手をかけ、飛び出そうとした。
――パーーンッ!!!
密室で炸裂した破裂音は、世界のすべてを停止させた。
耳鳴りがキーンと脳髄を貫く。
硝煙の嫌な匂いが鼻腔を焼いた。
「あ……」
青い髪の少女の口から、間の抜けたような声が漏れた。
彼女は自分の腹部を見下ろした。そこから、信じられないほどの量の赤い液体が噴き出し、白いタンクトップを黒黒と染め上げていく。
彼女の身体がゆっくりと傾き、冷たいタイルの床に崩れ落ちた。
ピチャリ、と血の海が広がる音。
「ちがう……俺は……俺はただ……」
ネイサンは呆然と銃を見つめ、後ずさった。彼の手は震えていた。
死んだ。
人が、目の前で撃たれた。
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。
「嫌ぁああああああっ!!!」
私は叫び声を上げ、ドアを突き破るように飛び出した。
止めなきゃ。時間を戻して。誰か。神様。お願いだから、この瞬間をなかったことにして!!!
私は右手を、血を流して倒れる少女に向けて思い切り突き出した。
その瞬間。
世界が「壊れた」。
視界が、叩き割られた鏡のように無数の亀裂を走らせる。
耳を劈くような高周波のノイズ。巨大なビデオテープを強引に巻き戻すような、ギギギギという鼓膜を破壊せんばかりの不快な機械音。
鼻血が出たかと思うほど、口の中に強烈な鉄の味が広がった。
重力が消失し、光の粒子が逆流する。
床に広がっていた血液が、フィルムの逆再生のように少女の傷口へと吸い込まれていく。倒れる軌跡をそっくりそのまま逆に戻り、彼女が立ち上がる。ネイサンの震える手から発射された銃弾が、銃口の中へと戻っていく。
あらゆる物理法則が反転し、私の意識は巨大な渦の中へと飲み込まれていった。
意識が千切れる。
暗転。
「……アルフレッド・スティーグリッツ。彼をご存じかな?」
ハッとして、私は息を吸い込んだ。
冷たい空気が肺を満たす。
まばたきをする。
視界が鮮明になる。
そこに広がっていたのは、見慣れたブラックウェル高校の写真学科の教室だった。
午後の気怠い陽光。埃っぽい空気。
教壇では、ジェファソン先生が黒板に向かって優雅な身振りで語りかけている。
机の上には、ポラロイドカメラ。
私は震える両手を見つめた。
血はついていない。硝煙の匂いもしない。
あの時と同じだ。嵐の夢から覚めた時と、全く同じ状況。
しかし、今回は夢ではない。夢であってはいけないのだ。
「……戻った?」
掠れた声が口からこぼれ落ちる。
時計を見る。午後1時。
時間が、巻き戻っている。
私は、あの悲劇が起こる直前の教室に帰ってきたのだ。




