第二話 廊下の水槽と、隔絶するインディー・フォーク
教室の扉を抜けた瞬間、暴力的なまでの日常が押し寄せてきた。
ロッカーが開閉する乾いた金属音、嬌声、野太い笑い声、床を擦るスニーカーの摩擦音。ブラックウェル高校のメインホールは、まるで巨大な水槽のようだった。様々な種類の魚たちが、それぞれの群れを作り、縄張りを主張し、あるいは捕食対象を探して回遊している。私、マックス・コールフィールドは、その水槽の底に張り付く地味な底生魚に過ぎない。
頭蓋の奥で、まだ鈍い痛みが脈打っていた。さっきの悪夢――あのリアルすぎる嵐の残滓が、神経の隅にこびりついている。私は逃避するように、鞄から愛用のイヤホンを取り出した。耳にねじ込み、iPodの再生ボタンを押す。柔らかなアコースティックギターの音色が流れ出す。シド・マターズの『To All of You』。憂いを帯びた歌声が、外界のノイズを遮断する透明な膜となって私を包み込む。これでいい。このBGMさえあれば、私はこの弱肉強食の生態系における「観察者」になれる。
廊下を歩き出す。壁には至る所に『日常のヒーロー(Everyday Heroes)』と書かれたポスターが貼られていた。ジェファソン先生が主催する写真コンテストの告知だ。優勝者はサンフランシスコへ招待され、写真界のスターダムへの道が開かれる。 ポスターの派手なフォントが、私を嘲笑っているように見えた。――応募する勇気もないくせに。自分の才能を信じきれない臆病さが、胃の腑に重くのしかかる。
「よう、マックス! 生きてるか?」
不意に、視界の端から伸びてきた腕が私の肩を叩いた。ヘッドホンのバリアを貫通してくる、屈託のない声。私は驚いて身をすくませ、片耳からイヤホンを外した。 「……ウォーレン」そこにいたのは、ウォーレン・グラハムだった。科学オタクで、映画マニアで、そしてこの学校で数少ない、私が心を許せる友人。彼は今日も「CAT」と書かれた周期表ジョークのプリントTシャツを着て、人懐っこい笑顔を浮かべている。その純粋な好意が、今の疲れ切った私には少しだけ眩しく、そして申し訳なくもあった。
「なんだか顔色が悪いぞ。ジェファソンの授業で絞られたか? それとも『エイリアン』の新作脚本でも思いついた?」 「ううん、ちょっと……考え事をしてただけ」
私は曖昧に微笑んだ。まさか「巨大竜巻に飲み込まれる幻覚を見ていた」なんて言えるはずがない。科学至上主義の彼なら、「前頭葉の血流不足だ」と断じて、怪しげなサプリメントを勧めてくるのが落ちだ。
「そうか。あ、そうだマックス。貸してたフラッシュメモリ、持ってきてくれた?」
「ええ、もちろん」 私は鞄のポケットを探り、小さなUSBメモリを取り出した。
「『カニバル・ホロコースト』に『イレイザーヘッド』……。よくこんなグロテスクな映画ばかり観て、夜眠れるわね」
「おいおい、それが芸術ってもんだろ? B級ホラーの神髄は、恐怖の中にあるシュールな笑いなんだよ」
ウォーレンは嬉しそうにメモリを受け取ると、少し躊躇うような素振りを見せた。視線を泳がせ、私の目を見たり、自分のスニーカーを見たりしている。 来る。私は直感した。
「あー、それでさ。その……ドライブイン・シアターで『猿の惑星』の特集やるんだよ。今週末」
彼は期待と不安が入り混じった瞳で、私を見上げた。 「もし暇なら、どうかなって。あくまで科学的な考証のためにさ」
典型的なデートの誘い。正直言ってウォーレンはいい人だ。優しくて、賢くて、私を気にかけてくれる。でも、彼を見ると時々息苦しくなる。私に向けられる「好き」という感情の矢印が、あまりにも一直線すぎて、受け止めきれないのだ。私はまだ、誰かの特別になる準備なんてできていない。それどころか、自分自身の輪郭さえあやふやなままだというのに。
「……ごめん、ウォーレン。今週末はまだ予定が分からなくて」
私は卑怯な逃げ口上を選んだ。
「課題も溜まってるし、コンテストのこともあるから」
「あ、ああ、そうだよな! ジェファソンの課題は地獄だしな。分かるよ、うん」
ウォーレンは露骨に落胆しつつも、すぐに明るく振る舞って見せた。その気遣いが、余計に胸を締め付ける。
「無理すんなよ、マックス。また学校で」
「うん、またね」
彼が雑踏の中へ消えていくのを見送ると、私は再びイヤホンを耳に押し込んだ。 罪悪感。私はいつもこうだ。誰とも深く関わろうとせず、カメラのファインダー越しのような安全な距離を保って、傷つくことも傷つけることも避けて生きている。
ふらつきながら廊下を進む。向こう側から、金髪の集団が歩いてくるのが見えた。 ビクトリア・チェイスと、その取り巻きたち。彼女たちはまるでモーセが海を割るように、廊下の中央を闊歩している。高価な香水の甘ったるい匂いが鼻をつく。 私は反射的に壁際へ寄り、存在を消そうとした。目を合わせたら最後、どんな難癖をつけられるか分からない。彼女たちは私など風景の一部――あるいは壁の染み――としか認識していない様子で、大声で笑いながら通り過ぎていった。
「……はぁ」
重たい溜息が漏れた。ここは学校という名の戦場だ。スクールカーストという見えない階級制度に支配された、きらびやかで残酷な戦場。息が詰まる。頭痛がまた強くなってきた。こめかみの奥で、何かがきしむ音がする。とりあえず今は水が必要だ。冷たい水で顔を洗って、私にまとわりつくような倦怠感を洗い流さなければ。
私は「女子トイレ」のプレートを見つけると、逃げ込むように重いドアを押し開けた。
タイル張りの冷ややかな空間。 外界の喧騒が遮断され、静寂が満ちている。 ここなら誰もいない。私は一番奥の洗面台に手をつき、鏡の中の自分と対峙した。 蒼白な顔。目の下の隈。本当に、パッとしない顔だ。「しっかりして、マックス・コールフィールド」
鏡の中の自分に向かって呟く。水道の蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく流れ出した。両手ですくい、顔に浴びせる。冷気で感覚が麻痺し、少しだけ意識が鮮明になった気がした。ペーパータオルで顔を拭い、ふと足元を見る。 洗面台の隅を、一匹の鮮やかな青い蝶が舞っていた。
――蝶? こんな屋内に? その蝶は、まるで発光しているかのような幻想的な「モルフォ蝶」の青色をしていた。薄汚れたトイレの空間には似つかわしくない、異界からの来訪者。その美しさに目を奪われ、私は無意識に肩から下げていたカメラを構えた。これは撮らなければならない。写真家としての本能がそう告げていた。
この一枚の写真が、運命の歯車を狂わせる最初の引き金になるとも知らずに。




