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第6話「《星環計》が、勇者の見栄で焼き潰された」

 大型任務の前夜は、慌ただしかった。


 王宮付属の作戦準備室は、長テーブルに地図を広げた騎士たちと、武具棚の前で刃を磨く前衛たちで埋まっている。蝋燭と魔導灯が半々に灯り、夕陽の残照が窓の高い位置から差している。


 ツカサはその隅で、手持ち無沙汰に立っていた。


 テーブルの上座にはレオが座っている。聖剣を鞘ごと卓上に横たえ、肘をついて騎士の説明を聞いている——ように見えるが、目線は窓の外だ。左腕の包帯が袖口からちらりと覗いている。


「——というわけで、目標は北東の峡谷に出現した大型魔獣群です。周辺村落への被害は限定的ですが、規模の拡大が確認されており——」


 騎士団長ガルドの声が淡々と準備室を満たす。ツカサの名前は一度も呼ばれない。


 当然だ。


 パーティ内での俺の役割は、初日から一度も定義されていない。雑用。荷物持ち。あるいは、「一応召喚されたから連れてきた何か」。訓練では指示すら飛ばされず、エルデン村では命令違反扱いで、市場の一件はそもそも誰にも見えていない。


 前衛の二人がレオの剣技について雑談を始め、斥候が矢筒の中身を確認し、ツカサはその全てから弾かれたまま壁際に立っている。


 右足の踵がまだ鈍く痛む。一日休んでマシにはなったが、靴の中で潰れた豆が地面を踏むたびに主張してくる。


「——リネット殿は個室で術式調整中とのことですが」


 ガルドの補佐官がそう報告したのを、ツカサの耳が拾った。


「ああ、あの人はいつもそうだろ。本番で帳尻合わせてくれりゃいいんだよ」


 レオが片手を振って答える。周囲が軽く笑う。


 ——帳尻合わせ。


 訓練場の安全を一人で支え、エルデンでは結界展開を維持していた人間に対する評価が、それだ。


 ツカサは壁から背中を離し、誰にも何も言わずに準備室を出た。


 誰も、止めなかった。


  *


 廊下は薄暗い。


 等間隔に並んだ魔導灯が廊下の中央に光の線を引いているが、壁際は影だ。石造りの床を革靴が踏むたび、硬い音が反響する。


 リネットの個室がどこにあるかは知っている。任務に同行してから、彼女がパーティの共有空間ではなく自分の研究用個室に籠もることを何度か見ていた。準備室から二つ角を曲がった先、突き当たりの手前。


 特に会いに行くつもりがあったわけじゃない。


 準備室にいても壁にしかなれないし、自室に戻っても明日の任務の情報は何も持っていない。廊下をぶらつくくらいしかやることがなくて——。


 足が、止まった。


 個室のドアが、わずかに開いている。


 隙間から、青白い光が漏れていた。


 月光とも蝋燭とも違う。もっと鋭くて、もっと精密な——設計図に色をつけたような光。


 ツカサは足音を殺さずに近づいた。盗み見るつもりはない。ただ、あの光が何なのか気になった。


 ドアの隙間から覗いた室内で、リネットが作業台に向かっていた。


 彼女の両手の間に、見たことのないものが浮かんでいる。


 水晶と金属。


 七つの輪が同心円状に重なり、それぞれが異なる速度で回転している。最も外側の輪は腕を広げたほどの直径があり、最も内側は指先で摘めそうなほど小さい。各層の輪が回るたびに、交差点で青白い光の粒が弾け、空中に数式のような紋様を描いては消える。


 リネットの指先が外から二番目の輪に触れた。回転速度が微かに変わり、紋様の一角が書き換わる。空中に展開された魔法陣——いや、魔法陣の設計図のようなものが、一段階精密になる。


 息を呑みそうになった。


 精密機械だ。宝石細工のような美しさと、時計の内部機構のような正確さが同居している。これを動かしているリネットの指先には、演奏家が楽器に触れるような繊細さがあった。


「——すごいな、それ」


 口に出ていた。


 リネットの肩がわずかに跳ねた。振り向いた翡翠の瞳が、眼鏡越しにツカサを捉える。


「……覗き?」


「ドアが開いてた」


「……閉め忘れただけ」


 素っ気なく言うが、追い出す気配はない。リネットは視線を手元に戻し、七層の輪に再び指を添えた。


「これ、何なんだ?」


 ツカサはドアの枠に肩を預けた。部屋の中には入らない。踏み込んでいい距離かどうか、まだ分からなかったから。


「《星環計》」


 リネットの声が、少しだけ柔らかくなった。


「魔導演算器よ。術式の構築、魔法陣の設計、魔力変動の解析——この子一台で、普通の魔術師十人分の演算ができる」


「魔術の計算機ってこと?」


「雑な言い方をすれば」


 唇の端が微かに上がる。リネットにしては珍しい表情だった。


「恩師の……遺品よ」


 七層の輪を見つめたまま、リネットはそう言った。


「私の研究の全部が、ここから始まった」


 声のトーンが変わっていた。冷静でも毒舌でもない。大事なものの名前を呼ぶときの、静かな重さ。


 ツカサは黙った。


 あの訓練場で、全部の制御を一人でやっていた人間。エルデン村で、結界を維持し続けていた人間。昨日の市場で、因果波形の異常を追跡していた人間。


 その全部の土台が、この七つの輪の中にある。


「すごいな」と、もう一度言った。他に言葉が見つからなかった。


 リネットは答えなかった。ただ指先が、七層目の——最も小さな輪に、そっと触れた。その動作が、ツカサには何かを撫でているように見えた。


  *


 足音が近づいてきたのは、その直後だった。


 重くて速い足音。迷いのない歩幅。この音は知っている。


「おーい、リネットー? いる?」


 声が聞こえた瞬間、ツカサはドアの枠から肩を離した。反射的だった。この足音の主に見られて得をすることは何もない。


 一歩退いた直後、ドアが勢いよく開いた。さっきまで肩を預けていた枠を、木の板が風を切って通過する。避けていなければ、まともに背中を叩かれていた。


 レオが、開け放ったドアの向こうから室内に踏み込んでくる。


 白銀の鎧はつけていないが、腰に聖剣を佩いている。鍔元の装飾が廊下の魔導灯を反射して、安っぽく光った。


「なんだ、ツカサもいたのか。まあいいや」


 レオの視線が、ツカサを一瞬で通り過ぎ——《星環計》に止まった。


 七層の輪が青白い光を纏って回転している。空中に展開された魔法陣の設計図が、複雑な幾何学模様を描いている。


 レオの目が、きらりと光った。


 ツカサの背中を、嫌な予感が這い上がった。


「うわ、すげえ。なにこれ、めちゃくちゃ光ってんじゃん」


 レオが作業台に近づく。リネットが椅子から立ち上がり、《星環計》と彼の間に半歩だけ体を入れた。


「任務の術式調整中よ。何か用?」


「いや、それそれ。その光」


 レオは聖剣の柄に手をかけた。鞘から数センチだけ刃を覗かせる。刃に沿って淡い光が走る——聖剣固有の発光だ。


「明日の討伐さ、聖剣の斬撃に合わせてこの光の軌跡を増やせねえかなって。こう、ばーっと光が広がる感じにしたら絶対カッコいいだろ?」


「は?」


 リネットの声が、低くなった。


「これは精密演算器であって装飾品じゃない。聖剣に直結したら——」


「いいじゃん、ちょっとだけ」


 レオが笑った。善意の笑みだった。本気でいい提案をしていると思っている顔。


「俺の技の演出がもっと派手になったら、お前の道具の株も上がるだろ? Win-Winだって」


「聞いてないわね。接続したら出力の規格が——」


 レオの手が伸びた。


 速かった。


 聖剣の刃を《星環計》の最外層の輪に、無造作に押し当てた。


 音が変わった。


 七層の輪の回転が一瞬だけ加速し——軋んだ。水晶と金属が擦れ合う、歯の奥に響くような高周波音。


「やめて——!」


 リネットが叫んだ。


 遅い。


 聖剣の光が《星環計》に流れ込んだ。七層の輪が、設計を無視した出力を叩きつけられて悲鳴を上げる。最外層の輪が白熱し——焼き切れた。


 ぱちん。


 小さな音だった。指を鳴らしたくらいの。なのに、ツカサの耳にはそれが骨の折れる音に聞こえた。


 腕を広げたほどあった最外層の輪が、内側から燃え尽きていく。水晶と金属が青白い粒子に変わり、蛍のように空中に散って消えた。後に残ったのは、親指ほどの欠片が一つだけ。


 ぱちん。二層目が歪んで、砕けた。同じように大半が光の塵になり、焼け焦げた芯だけが作業台に落ちる。


 ぱちん。三層目。亀裂が走った瞬間にはもう、輪の形を保っていなかった。過負荷の熱が水晶を蒸発させ、残骸の大部分を光に変えて空気に溶かしていく。


 ぱちん。ぱちん。ぱちん。四層目、五層目、六層目が立て続けに焼き切れ、そのたびに輪を構成していた素材が粒子になって散り、小さな芯だけを残して消滅する。


 展開されていた魔法陣の設計図が、崩れるように消えていく。数式が散り、紋様が解け、青白い光が色を失い——。


 最後の一つ。最も小さな、指先で摘めるほどの七層目の輪が、ひときわ明るく光って——。


 ぱちん。


 七つ目の音が、一番小さかった。


 作業台の上に、七つの欠片が散らばっていた。どれも指先で摘めるほどの大きさ——各層の輪の、過負荷に耐えた芯の部分だけが残ったのだ。水晶の破片と、焼け焦げた金属の断片。


 さっきまで精密に回転していた七層の輪は、もうどこにもない。大半は光の粒子になって天井へ昇り、消えた。


 部屋の中が、暗くなった。


 《星環計》の光が消えたからだ。残っているのは廊下から差し込む魔導灯の光だけで、リネットの顔は半分が影に沈んでいる。


 その影の中で、彼女の唇が動いた。


 音にならなかった。


 ツカサは、リネットの顔から血の気が引いていくのを見た。白いとか蒼いとかではない。色そのものが抜けていくような——生きている人間の表情ではなかった。


「おお、すげー光ったな」


 レオが、聖剣を鞘に戻しながら言った。


 笑っている。


 本当に、笑っている。


「ちょっと壊れちゃった? まあでも、あの光の量すごかったし、俺の剣技と合わせたら絶対映えるって。明日の本番で再現できるよう——」


「——壊れた」


 リネットの声が、掠れていた。


「壊れたのよ。《星環計》が」


「え? いやでも、光はすごかったじゃん。ちょっと直せば——」


「直らない」


 短い。硬い。割れたガラスの断面のような声だった。


「一点物よ。世界に一つしかない。恩師が生涯をかけて作って、私に託した——」


「あー、まあ、そっかー。でもさ」


 レオは困ったように頭を掻いた。本当に困っている顔だった。相手の痛みが分からないから困っているのではない。なぜ相手が怒っているのかの意味が、根本的に理解できていない顔だ。


「俺の勝利演出の一部になれたなら名誉じゃん」


 空気が、凍った。


「君の恩師も、勇者の勝利に貢献できたなら喜ぶんじゃない?」


 ツカサの視界の端で、レオの背後に浮かぶ巨大なラベルが脈動した。


 【主人公補正】。


 蒼白い光の文字が、心臓のように収縮と膨張を繰り返している。この男の背中に張りついた、途方もなく巨大な文字列。


 今のツカサには、その文字の意味も仕組みも分からない。


 だが一つだけ、確信できることがある。


 この男は——本気でそう思っている。


 他人の恩師の遺品を壊して、「名誉だろ」と言い切れる。他人の研究人生の土台を灰にして、「喜ぶんじゃない」と笑える。


 善意だ。これがこの男の善意だ。


 自分が世界の中心で、周囲の全てが自分を彩る素材だと——本気で、一片の悪意もなく、信じている。


「お前——」


 ツカサの声が出た。低くて、硬くて、自分でも聞いたことのない声だった。


「今、自分が何したか分かってるのか」


「え? いや、だから演出を——」


「演出じゃねえ」


 掴みかかっていた。


 気がついたときには、レオの襟を右手で掴んでいた。身長差があるから腕が伸び切る。レオの顔が近い。碧い目が、驚いたように丸くなっている。怒りではない。不意を突かれた子供のような顔。


「お前が壊したのは道具じゃない。あの人の——」


「おい、何をしている!」


 廊下から駆け込んできた兵士がツカサの腕を掴んだ。もう一人が肩を引く。二人がかりで引き剥がされ、ツカサの手からレオの襟が滑り抜けた。


「勇者様に何をする!」


「離せ」


「身の程をわきまえろ、召喚されただけの——」


「離せって言ってんだ」


 声を荒らげた。兵士たちの手に力が入る。振り解けない。


 レオは襟元を整えながら、不思議そうな顔でツカサを見ていた。


「なんでそんなに怒ってんの? 別に君の物じゃないだろ」


 ——違う。


 俺の物じゃないから怒ってるんだ。


 だが言葉にならなかった。兵士に両腕を抑えられたまま、ツカサはリネットを見た。


 リネットは動いていなかった。


 作業台の前に立ったまま、《星環計》があった場所——今は七つの欠片が散らばっているだけの空間を、見下ろしていた。


 何も言わなかった。


 何も。


  *


 レオは去った。兵士たちに軽く笑いかけ、「悪い悪い、ちょっとテンション上がっちゃってさ」と言い残して。兵士たちはツカサを睨みつけ、「以後は勇者様に無礼のないように」と釘を刺して廊下に戻った。


 リネットの個室のドアは、閉じられていた。


 ツカサはその前に立ったまま、ノックできなかった。


 何を言えばいい。「大丈夫か」? 大丈夫なわけがない。「あいつが悪い」? そんなことは分かっている。「何かできることはあるか」? 壊れたものは戻らない。


 結局、何も言えないまま、ツカサは自室に戻った。


  *


 眠れなかった。


 暗い天井を見上げて、何度も寝返りを打った。右足の踵が痛い。腰のハリセンを外して枕元に置いたが、手が何度もそれに触れる。


 リネットの顔がちらつく。


 色を失った顔。声にならない唇の動き。作業台の上に散らばった七つの欠片。


 あの輪が回っていたときの光を思い出す。精密で、美しくて、人の手で作られたとは思えないほど正確だった。あれを動かすリネットの指先は、楽器を弾くように繊細で——。


 それを、あの男は「演出」に使った。


 一秒で。


 笑顔で。


 深夜の鐘が遠くで鳴った。二つ。


 ツカサは布団を剥いで起き上がり、ハリセンを腰に括りつけ、部屋を出た。


  *


 廊下に人気はなかった。


 魔導灯が最低出力で光っている。石の床が裸足の踵に冷たい。靴を履く気力がなかった。豆が痛むのは靴のせいだと、半分は本気で思っていた。


 リネットの個室の前に着いたのは、体が勝手に歩いたからだ。


 ドアが、わずかに開いていた。


 また閉め忘れたのか——と思って、中を覗いた。


 リネットが、床に膝をついていた。


 作業台の下。欠片が転がり落ちたのだろう。床の隅や棚の影に散らばった小さな破片を、一つずつ拾い集めている。


 膝の脇に、端末を拭くための布が広げてあった。そこに五つの欠片が並んでいる。三つは水晶片、二つは金属片。どれも指先で摘めるほどの大きさだが、丁寧に、触れ合わないよう間隔を空けて置かれていた。


 残りの二つを探して、リネットは棚の下に手を伸ばしている。


 指先が震えていた。


 魔導灯の最低光量の中で、銀灰色の髪が垂れて顔を隠している。眼鏡が少しずれている。濃紺のローブの裾に、さっきの破壊で散った粉塵の白い跡がついていた。


 ツカサは、音を立てた。


 わざと、足の裏で石の床を踏んだ。


 リネットの肩が、微かに動いた。


 振り返らなかった。


 棚の脚と壁の隙間に指を差し入れ、六つ目の欠片を掻き出す。焼け焦げた水晶片。それを布の上の五つの隣に、そっと置いた。


「……入っていいか」


「……」


 拒否も許可もなかった。ツカサは半歩だけ部屋に入り、ドアの近くにしゃがんだ。


 沈黙が長かった。


 リネットの手が、棚の奥——一番暗い隅を探り、最後の欠片を引き出した。焼け焦げた金属片。水晶の断面が、魔導灯の光をぼんやり反射している。それも布の上に加えた。


 七つ。全部揃ったらしい。リネットは布の四隅をたぐり寄せるように、七つの欠片を両手で包み込んで——膝の上に置いた。


「……恩師は」


 声が、掠れていた。


 昼間の冷静さも、毒舌も、どこにもない。剥き出しの声だった。


「これを私に託して死んだの」


 ツカサは黙って聞いた。


「"世界の歪みを解き明かせ"って。それだけ言い残して」


 リネットの手が、膝の上の布を掴んだ。中の欠片ごと、握りしめている。布越しにも水晶の角が掌に食い込んでいるはずだが、力を緩める気配はない。


「この子がなければ、私の研究は何もできない。術式の構築も、魔法陣の設計も、あの因果波形の観測も」


 ——因果波形。


 昨日、市場で途切れた会話の続きが、こんな形で出てくるとは思わなかった。


「全部、ここから始まったのよ。恩師の理論。恩師の技術。恩師の——」


 声が途切れた。


 リネットの肩が、小さく揺れた。一回だけ。


 ツカサは何も言えなかった。


 慰めの言葉は出てこない。励ましも、同情も、ここでは全部嘘になる。


 だから——考えた。


 この怒りを、どう呼べばいいのか。


 エルデン村で見た景色を思い出す。焼け落ちた家。灰になった畑。写真立てを握って泣いていた老婆。あのとき感じた怒りと、今感じている怒りは、根が同じだ。


 あの村では、命は助かった。でも人生が壊された。


 今ここで、リネットの命は無事だ。でも——。


 研究が壊された。恩師との繋がりが壊された。世界の歪みを解き明かすための、たった一つの手段が壊された。


 そしてそれを壊した男は、「名誉だろ」と笑った。


 命だけじゃない。


 努力も。研究も。思い出も。


 全部——「主役の映え」の材料にされる。


 この世界は、そういう場所だ。


「……俺は」


 声が出た。自分でも予期しなかった。


「お前の恩師のことは知らない。その道具——《星環計》がどれだけ凄いかも、たぶん全然分かってない」


 リネットが顔を上げた。翡翠の瞳が、暗がりの中でツカサを見ている。眼鏡がずれたままだ。


「でも、一つだけ分かる」


 腹の底から、言葉を押し出した。


「あいつが壊したのは、お前の人生の一部だ」


 リネットの目が、わずかに見開かれた。


「道具を壊されただけだとか、また作ればいいとか——そういう話じゃない。お前が恩師から受け取って、研究を重ねて、毎日触って、指先で覚えてたもの全部が、あの七つの輪の中にあったんだろ」


 沈黙。


 リネットの唇が、微かに震えた。


「……それを、今まで誰にも言ってもらえなかった」


 小さな声だった。自分で言ったことに驚いたような、不安定な声。


「パーティの誰も——勇者の聖剣が光ったことしか覚えてないわ。私の《星環計》が壊れたことは、明日にはもう話題にもならない」


 リネットは膝の上の布を見下ろした。中には焼け焦げた水晶と金属の欠片。さっきまで回転していた七つの輪の、最後の残骸。


「勇者の勝利の前では、些細なことだから」


 ——違う。


 ツカサの中で、何かが固まった。


 怒りだ。


 エルデン村で芽生えて、市場で形を持ち始めた怒り。それが今、はっきりと方向を定めた。


 命だけじゃない。


 努力も。研究も。思い出も。誰かが積み上げてきた人生そのものを——あの男は、自分の「物語」の燃料にしている。


 そしてこの世界は、それを許している。


 勇者だから。主人公だから。英雄だから。


 レオの背後で脈動する巨大なラベルの残像が、瞼の裏にちらついた。


 まだ、あれが何なのかは分からない。あの文字を消す方法も分からない。


 でも。


 忘れない。


 今夜ここで見たものを——欠片を拾い集めるリネットの震える手を、忘れない。


「……明日、任務だな」


 ツカサは立ち上がった。


 リネットは答えなかった。布に包んだ欠片を両手で抱えたまま、床に膝をついている。


「起きたら、ちゃんとメシ食えよ。徹夜の顔で行ったら、また"便利な技術屋"扱いされる」


「……余計なお世話」


 声が、少しだけ——ほんの少しだけ、元に戻っていた。


 ツカサはドアの前で振り返った。


 リネットは布の端を丁寧に折り込み、欠片を一つずつ確かめるように包み直していた。壊れたものを捨てるのではなく、残ったものを守るように。


 あの七つの欠片が、今後どうなるのかは分からない。


 ただのガラクタになるのかもしれない。あるいは——。


 今は分からない。分からないが。


 あの欠片を拾い集めるリネットの手が震えていたこと。その手が、それでも一つも取りこぼさなかったこと。


 それだけは、覚えておく。


 ツカサは個室を出て、暗い廊下を歩き始めた。


 裸足の足が冷たい石の床を踏む。右足の踵が痛む。腰のハリセンが、歩くたびに太腿に当たる。


 紙と竹。張りぼて。刃も魔力も宿っていない。


 それで——何ができる。


 剣を持った勇者にも。あの巨大なラベルにも。この世界のルールそのものにも。


 答えは出ない。


 でも、今夜はっきりしたことがある。


 あの男が踏み潰しているのは、命だけじゃない。


 人の人生そのものだ。


 ——明日の任務で、何が見えるか分からない。何のラベルが浮かぶか分からない。殴れるかどうかも分からない。


 でも、一つだけ決めた。


 あの涙を——涙ですらなかった、涙にすらならなかったあの震えを——「仕方ない」で済ませる世界を、俺は認めない。


 深夜の廊下を、ツカサは歩いていく。


 裸足で。


 腰にハリセンをぶら下げて。


 明日は、大型任務だ。

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