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第5話「ラッキースケベ補正、普通に事故として終了」

 王都ヴェルディアの城下町は、ツカサが想像していたよりもずっと普通の街だった。


 石畳の通りに果物屋と布地屋が並んで、値切りの声が飛び交って、荷車の車輪が轍に嵌まって御者が怒鳴っている。馬糞の匂いと焼きたてのパンの匂いが喧嘩していて、どっちが勝ってるかは風向き次第。


 異世界だろうが何だろうが、人が集まって物を売り買いする場所は結局こうなるらしい。


 召喚七日目。帰還翌日の休息日。


 昨日一日寝たおかげで、体は多少マシになった。肺の奥にこびりついていた煙のざらつきも、咳き込むほどではなくなっている。ただ右足の踵だけはまだ駄目で、豆が潰れた跡が靴の中でじくじくと自己主張を続けていた。歩くたびに、小さな針が刺さるような痛みが走る。


 制服のシャツは洗ったが、煤の染みは落ちきらなかった。灰色がかった白。異世界の洗剤にも限界はあるらしい。旅装は相変わらず支給されていない。採寸すらされていない。そもそも「お前にはまだ早い」と騎士団の補給担当に言われた時点で、食い下がる気力が残っていなかった。


 ハリセンは腰の右側に、ベルトと布の端切れで無理やり括りつけてある。ちゃんとしたホルダーを作る暇もなかった。泥は拭いたが、煤の跡だけは紙の繊維に染みこんで取れない。


 ——で。


 なんでこんな格好で城下町を歩いているかというと。


 確かめたいことがあった。


 森で魔族の「舐めプ補正」を殴り壊したとき、あのラベルは戦場に貼りついていた。敵の行動を縛る、戦闘用の——「お約束」だった。


 じゃあ、戦場の外にもあるのか。


 日常にも、あの浮いた文字は存在しているのか。


 召喚初日から見えていたのは、王宮の中のものだけだった。「勇者補正」「好感度誘導」「感動演出」——あれは全部、召喚の場に貼りついていたラベルだ。エルデン村では「被害拡大」「勇者の劇的到着」「涙の感謝イベント」。森では「舐めプ補正」。


 どれも、事件や戦闘の現場に出現していた。


 だとしたら、平和な街中には何もないのか。それとも——


 考えながら歩いていたら、右足の踵が石畳の段差を踏んで、痛みがぴりっと跳ねた。


 反射的に足を止める。


 顔をしかめて踵を浮かせた瞬間——視界の端に、見覚えのある光が灯った。


 市場通りの東側。人垣の向こう。


 金色の髪が、昼の陽光を反射している。


 神城レオ。


 休日の勇者様は、王宮支給と思しき白い上着を羽織って、城下町のメインストリートを悠々と歩いていた。左腕の浅い傷は包帯で隠されているが、本人はそれすら勲章のように見せている節がある。


 周囲には女性が五、六人。年齢はバラバラだが、全員がレオの顔を見上げて頬を染めている。レオは何か気の利いたことを言っては笑い、通りすがりの商人に手を振っては愛想を振りまいている。


 ——勇者様の休日。ファンサービス中。


 見なければよかった、と思いながらも、目を逸らせなかった理由がある。


 レオの三歩ほど前方、空中に——


 半透明の文字が、ぼんやりと光り始めていた。


 ——あった。


 ラベルだ。


 戦場じゃない。事件もない。ただの晴れた休日の城下町に、あの浮遊する文字が灯っている。


 目を細める。


 距離があるせいで、最初はぼやけて読めなかった。ツカサは人の流れに逆らいながら数歩近づき、通りの北側——花屋と果物屋の間の日陰に身を寄せて、もう一度ラベルを注視した。


 文字が、焦点を結ぶ。


 ——【ラッキースケベ補正】。


 …………。


 は?


 二度見した。


 三度見した。


 間違いない。空中に浮かぶ半透明のラベルに、はっきりとそう刻まれている。


 【ラッキースケベ補正】。


 ラッキー。スケベ。補正。


 一文字ずつ読んでも意味は変わらない。


 ——いや待て。待ってくれ。戦場の「舐めプ」はまだ分かる。敵を弱くする補正。理不尽だが、戦闘に関わるものだった。


 でもこれは何だ。ラッキースケベって何だ。日常に、こんなラベルが貼りつくのか。


 ツカサは花屋の軒先の影に背中を預けたまま、視線をラベルからゆっくりと下ろした。


 ラベルの直下——レオの進行方向、通りの北側に、花屋の陳列台がある。色とりどりの切り花が並んだ木製のワゴン。その前に立っていたのは、花柄のスカーフを巻いた少女だった。十四か十五くらい。赤い花の束を手に取って、値札を覗き込んでいる。


 普通の光景。


 普通の——はずだった。


 少女の足元に、違和感があった。


 彼女はさっきまで両足でしっかり立っていた。それが今、右足の踵がわずかに浮いている。まるで、誰かに背中を押されたように、重心が前のめりになり始めていた。


 少女自身はまだ気づいていない。花の値段を見比べている。


 だが——身体の軸が、ほんの少しずつ、レオのいる方向へ傾いでいく。


 自然な動作じゃない。石畳は平らだ。段差も、水溜まりもない。なのに少女の重心は、見えない磁力に引かれるようにレオの進行方向へ——


 ラベルが、明度を上げた。


 半透明だった文字が、くっきりと輪郭を帯びていく。起動しかけている。この場所で、この瞬間に、「ラッキースケベ」が実行されようとしている。


 ——あの子が転んで、レオの胸に飛び込む。


 それが、この場に「書かれた」展開だ。


 少女の身体が、もう一段傾いだ。右足が石畳から完全に離れかけている。花束を持った手がバランスを取ろうとして空を掻く。あと二秒もすれば、彼女は自分の意思とは無関係に——レオの腕の中へ「転倒」させられる。


 ツカサの右手が、勝手に動いていた。


 腰のベルトからハリセンを引き抜く。煤の跡が残る張りぼて。刃でも杖でもない、紙と竹の塊。


 森で殴ったときの感覚が、手のひらに残っている。


 ラベルを見る。距離は——十歩弱。花屋の軒先の影から、通りを斜めに横切る角度。人混みの隙間から、ラベルの光が見えている。


 殴れるか。


 分からない。森では、目の前に浮いていたラベルを叩いた。今回は距離がある。しかも人混みの中だ。


 でも——あの子は、自分の意思で転んでいない。


 見えない力に押されて、知らない男の胸に突っ込まされようとしている。


 それは、「ラッキー」でも「スケベ」でもない。


 ただの事故だ。


 ツカサはハリセンを振った。


 正確には——振り下ろしたのではなく、横薙ぎに払った。森のときとは違う、もっと軽い動作。だが手首を返す瞬間に、紙と竹の先端がラベルの方向を向いて、空気がわずかに震えた。


 ぱぁん、と音が鳴った。


 ハリセン特有の、間の抜けた破裂音。


 市場通りの雑踏の中では、荷車がぶつかった程度の音でしかない。振り向いた人間は二、三人。それも、すぐに興味を失って前を向く。


 だが——ツカサの目には見えていた。


 ラベルに、亀裂が走る。


 森で見たのと同じだ。半透明の文字にひび割れが広がり、ガラスが砕けるように——光のない破片が、空中に飛散して消えた。


 【ラッキースケベ補正】が、粉々になった。


 同時に。


 花屋の前で傾いでいた少女の身体から、不自然な加速が消えた。


 見えない力で押されていた重心が——ただの物理法則に戻る。


 少女はそのまま、花屋のワゴンの前で、普通にバランスを崩した。手に持っていた花束が宙を舞い、膝が折れて——ぺたん、と。


 尻もちをついた。


 石畳の上に、ぺたん、と。


 レオの胸には飛び込まない。甘い衝突も、見つめ合う至近距離も、頬を染める急接近もない。少女はレオから三歩以上離れた場所で、自分の足がもつれただけの、ただの転倒をしている。


「いたた……」


 少女は膝の砂を払いながら、きょとんとした顔で周囲を見回した。何が起きたか分かっていない。分かりようがない。「あの浮いた文字」が見えるのは、この世界でツカサだけだ。


 花屋の店員が「大丈夫?」と声をかける。少女は「はい、すみません、足がもつれちゃって」と笑って、散らばった花を拾い集めている。


 何事もなく。


 本当に何事もなく。


 通りの空気は、一瞬たりとも甘くならなかった。


 ツカサは花屋の軒先の影で、ハリセンを握ったまま、それを見ていた。


 ——効いた。


 日常にも、効くのか。


 戦場の「舐めプ」だけじゃない。こういう——何と呼べばいいのか分からないが——「お約束」全般に、このハリセンは通用する。


 安堵と戸惑いが、同時に胸の中で渦を巻いた。


 視線を、レオの方へ戻す。


 金髪の勇者は、通りの真ん中で立ち止まっていた。


 右手が——中途半端に前へ伸びている。


 何かを受け止めようとした手。誰かが飛び込んでくることを、身体が「知っていた」かのような、あの構え。


 だが、飛び込んできたのは——誰もいない。


 少女は三歩先で尻もちをついて、花を拾っている。レオの伸ばした手は、何にも触れないまま虚空に浮いている。


「……え?」


 レオが、自分の手を見た。


 それから少女を見た。それからもう一度、自分の手を見た。


「今、何か——ここ、いい感じの流れじゃなかった?」


 独り言にしては声が大きい。周囲の女性たちが顔を見合わせた。


「え? 勇者様、どうかしました?」

「いや……なんか、今、こう——来るかなって思ったんだけど」

「来る? 何がですか?」

「いや、だから——」


 レオは言葉に詰まった。自分でも何を期待していたのか説明できないらしい。そりゃそうだ。「見知らぬ美少女が転んで胸に飛び込んでくるはずだった」なんて、口に出したら不審者の告白にしかならない。


 場に沈黙が落ちた。


 女性たちは困った顔をして、レオのフォローを探している。レオは伸ばした手をゆっくり下ろして、何事もなかったかのように髪をかき上げた。


 だが——表情が変わっていた。


 さっきまでの上機嫌が、嘘のように消えている。眉間に薄い皺が刻まれ、唇の端が不自然に引き結ばれている。機嫌が悪い。露骨に。


「……なんか最近、ノリが悪いんだよな」


 レオは誰にともなく呟いて、通りの先へ歩き始めた。女性たちが慌てて後を追う。


 市場通りの雑踏が、何事もなかったように流れを取り戻す。


 花屋の前では、少女が膝を叩いて立ち上がり、花束を買い直して、笑顔で去っていった。


 ——終わり。


 それだけ。


 ラブコメは発生せず、勇者にイベントは起こらず、少女は自分の足で立ち上がって自分の買い物に戻った。


 ツカサは軒先の影で、ハリセンを腰の布紐に戻しながら、息を吐いた。


 笑いたいような、震えたいような、妙な気分だった。


 「ラッキースケベ」。こんな馬鹿馬鹿しいものまで、この世界には貼りついている。戦場だけじゃない。日常にも。誰かが誰かの胸に転がり込む——その「お約束」まで、文字になって空中に浮いている。


 そして、それを俺は壊せる。


 ハリセン一発で。


 一発で——壊せてしまう。


 その事実の意味を、ツカサはゆっくりと噛み締めた。


 森の戦闘で壊した「舐めプ補正」は、敵を弱くする仕掛けだった。壊した結果、味方が苦戦した。でもあれは——少なくとも戦闘の話だった。


 今のは違う。


 「ラッキースケベ」は、勇者を気持ちよくするための——ご褒美だ。甘い偶然。都合のいい出会い。見知らぬ美少女がなぜか勇者の胸に飛び込んでくる「お約束」。


 それを壊した。


 つまり——俺は、勇者の「気持ちよさ」を直接壊せる。


 敵を強くするだけじゃない。勇者の幸運を、勇者の快適さを、勇者の「主役としての居心地」を——ハリセン一本で潰せる。


 レオが不機嫌になった理由は、分かっている。


 あいつ自身には、何が起きたか見えていない。ラベルも、それが砕けたことも。ただ——「何かいい感じの流れが来るはずだった」という漠然とした期待があって、それが空振りに終わった。快感の予感だけがあって、実体がなかった。当たり前のように受け取れるはずだった「いいこと」が、なぜか起きなかった。


 原因不明の不満。説明できない苛立ち。


 その原因が——俺だ。


 ツカサは市場通りの北側を、人混みに紛れて東へ歩いた。レオたちの集団とは反対側の歩道。右足の踵が石畳を踏むたびに痛みが走るが、今はそれどころじゃない。


 頭の中で、パズルのピースが組み替わっていく。


 エルデン村では——ラベルを見ることはできたが、殴れなかった。あのときは「村の上空」に広がる巨大なラベルで、手が届かなかった。物理的な距離と規模の問題だった。


 森では——目の前の指揮官に貼りついた「舐めプ補正」を叩いた。至近距離。明確に「これを壊す」という意志があった。


 今回は——十歩弱の距離から、横薙ぎに。森よりも遠く、でも殴れた。


 距離は——関係あるのか、ないのか。意志が要るのか。それとも方向さえ合っていれば届くのか。


 分からない。データが少なすぎる。二回殴って、二回壊れた。それだけ。


 でも——一つだけ、確実に分かったことがある。


 俺のスキルは、戦闘専用じゃない。


 「お約束」が存在する場所なら、どこでも機能する。


 敵を弱くする仕掛けだろうが、勇者にご褒美を与える仕掛けだろうが、関係ない。この世界に貼りついた「都合のいい展開」を——俺のハリセンは壊す。


 その認識が胸に落ちた瞬間、ツカサは同時に理解した。


 ——これ、滅茶苦茶まずい立場じゃないか。


 レオにとって、俺は「戦闘中に飛び出す無能」でしかなかった。邪魔だが、害はない。放っておけば消える雑音程度の存在。


 でも、もし——


 もし、レオの周囲で「いいこと」が起きなくなる原因が俺だと気づかれたら。


 勇者の快適な世界を、裏からコツコツ壊している奴が隣にいると知れたら。


 あいつにとって、俺は敵よりも都合が悪い。


 敵は倒せば終わる。でも「主役の気持ちよさを壊す脇役」は、倒しても意味がない。排除するしかない。


 物語から——消すしかない。


 右足の踵が、ずきん、と痛んだ。立ち止まる。


 市場通りの東端に近い、石造りの建物の日陰。果物屋の木箱が積まれた路地の入口で、ツカサは壁に背を預けた。


 人混みが目の前を流れていく。値切りの声、笑い声、荷車の車輪の音。普通の昼下がり。


 でも——この「普通」がどこまで本物なのか、もう信じきれなくなっている。


 あの少女が転ぶ動きは、間違いなく不自然だった。見えない力に押されていた。ラベルが砕けた瞬間に、その力が消えた。彼女は自分の意思で転んだんじゃない。「転ばされようとしていた」んだ。


 それを——本人は知らない。周囲も知らない。レオすら知らない。


 知っているのは、俺だけだ。


 ラベルが見えるのは俺だけで、それを壊せるのも俺だけで——


 だから、これが「おかしい」と言えるのも、俺だけだ。


「——乾」


 声がかかった。


 低い。静かな。聞き覚えのある声。


 壁から背中を離して振り向くと、路地の反対側から、灰色のコートを羽織った人影が歩いてきていた。


 銀灰色のロングヘアを低い位置でまとめている。細縁の銀フレーム眼鏡。学院の濃紺ローブの上に、フィールドワーク用のコート。左手首には、あの——常に何かを記録している端末。


 リネット・アークライト。


 勇者パーティの魔術師。あの訓練場で、全員の安全を一人で支えていた女。エルデン村の帰路で、ツカサの斜め前に座って端末を操作し続けていた女。


 森の戦闘では、術式で前衛を支え、指揮官の足止めを作り、実質的に戦線を成立させていた。そのことを知っているのはツカサだけで——他の全員はレオの剣の一閃だけを覚えている。


 彼女は立ち止まった。ツカサから三歩の距離。


 表情は、訓練場で見たときと変わらない。冷静で、感情の読めない翡翠色の瞳。


 だが——その目が、一瞬だけ、ツカサの腰のハリセンに向いた。


「さっき」


 リネットは言った。


 声を落としている。周囲の雑踏に紛れるぎりぎりの音量。


「市場で、因果波形が一瞬だけ正常値に戻った」


 ツカサは黙って見返した。


 「因果波形」。聞いたことのない単語だ。だが——「正常値に戻った」という言い方は分かる。何かが歪んでいて、一瞬だけ正しくなった。それを、彼女は計測していた。


「何か知ってる?」


 リネットの声は平坦だった。詰問ではない。だが好奇心を抑えきれていない何かが、語尾のかすかな上がり方に滲んでいる。


 ツカサは口を開きかけた。


 何を言えばいい。「空中に浮いてるラベルが見えます」「それを殴ったら消えます」「今さっきラッキースケベ補正ってやつを壊しました」——どれも正気の人間の台詞じゃない。


 でも。


 この女は——あの訓練で、全員が見て見ぬふりをしたリネットの功績を、ツカサだけが口にしたとき——「気づく人がいるとは思わなかった」と呟いた。


 つまり。


 彼女も——何かに気づいている。何かがおかしいと、この世界を疑っている。俺とは別の手段で、別の角度から。


 ツカサが言葉を選ぼうとした、そのとき。


「勇者パーティの方ですか!」


 走ってくる足音。息を切らせた若い声。


 振り向くと、王宮の兵装を着た若い兵士が、通りの人混みを掻き分けて駆けてきていた。汗だくで、息が荒い。


「招集です! 大型任務の、招集が——パーティ全員、至急王宮へ!」


 伝令だった。


 リネットの表情が変わった。一瞬だけ——本当に一瞬だけ、何かを飲み込むような表情が走って、すぐに消えた。


「了解。今向かいます」


 リネットはそれだけ言って、伝令に一歩近づいた。


 それから——振り返った。


 ツカサを見た。


 翡翠色の瞳が、何かを言いかけて——止まった。


 伝令が「急いでください」と催促する。リネットは小さく頷いて、コートの裾を翻した。


 去り際に、彼女の唇がわずかに動いた。声にはなっていない。ただ口の形だけが——何かを形作って、すぐに溶けた。


 灰色のコートが人混みに紛れていく。銀灰色の髪が、昼の光に一瞬だけ光って、見えなくなった。


 路地には、ツカサだけが残された。


 伝令の走り去る足音が遠のいていく。市場通りの喧騒が、何事もなかったかのように戻ってくる。


 ツカサは壁に背中を預けたまま、しばらく動けなかった。


 ——因果波形が、正常値に戻った。


 彼女はそう言った。俺がハリセンを振ったタイミングで、何かの数値が「正しく」なったと。


 彼女は、この世界のおかしさを、数字で追いかけている。


 俺は、浮いた文字で見ている。


 同じものを、違う方向から見ているのかもしれない。


 だが——会話はそこで途切れた。伝令が来て、リネットは呼ばれて、大型任務の準備に追われる。


 今日中にもう一度話す機会は——たぶん、ない。


 ツカサは路地の入口で、一人で空を見上げた。


 王都ヴェルディアの空は、青くて広くて、何のラベルも浮いていなかった。


 今のところは。


 右足の踵が、またじくりと痛む。ツカサは壁から背中を離して、ゆっくりと歩き出した。


 城下町の人混みに紛れながら、腰のハリセンの重さを右手で確かめる。紙と竹。張りぼて。刃も魔力も宿っていない、ただの小道具。


 でも今日、それが「ラッキースケベ」を殴り殺した。


 戦場の補正も。日常の補正も。俺のハリセンは区別しない。


 あの少女は、自分の足で立ち上がった。自分の買い物に戻った。誰かの胸に「転ばされる」ことなく、普通に膝の砂を払って笑っていた。


 それでいい。


 たぶん——それが、俺のスキルの正しい使い方だ。


 誰かが勝手に書いた「お約束」を、破る。そうすれば人は——自分の足で立てる。


 ……大型任務、か。


 レオの周囲で、また何かが「書かれる」のだろう。次に見えるラベルが何なのかは分からない。殴れるかどうかも分からない。


 でも、殴れるなら——殴る。


 それだけは、決まった。


 市場通りの雑踏に紛れて、ツカサは王都の表通りを歩いていく。右足を少し引きずりながら。腰に張りぼてのハリセンをぶら下げて。


 ——大型任務の準備が始まる。


 リネットとの会話は、途切れたままだ。


 あの「因果波形」の話が、次にいつできるのかは分からない。


 だが。


 この世界で、あの浮いた文字を疑っているのが俺一人じゃないかもしれないという事実は——踵の痛みよりも、ずっと確かな感触として残った。



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