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第4話「敵が長話を始めたので、戦場ごとおかしいと気づいた」

 目を閉じていない。


 閉じたつもりだった。でも瞼の裏に、焼け跡がそのまま焼きついている。黒焦げの写真立て。震える背中。月明かりに白く照らされた瓦礫。だから結局、俺は焼け跡の前で夜を明かした。


 朝日がエルデン村を照らすと、夜とは違う残酷さがあった。


 光が当たるぶん、焦げた柱の輪郭がくっきりする。潰れた畑の土が乾いて白っぽくなっている。倉庫があった場所は、もう更地に近い。煤と灰の匂いが朝露に混じって、鼻の奥にこびりつく。


 俺はハリセンを膝の上に置いたまま、地べたに座っていた。


 足が痛い。右足の踵の豆が潰れて、ローファーの内側がぬるい。膝も腕も鈍く軋んでいる。煙を吸った肺が、深く息を吸うたびにざらつく。


 制服のシャツは煤で灰色だ。泥の跡が乾いて、ところどころ白い粉をふいている。


 ——帰るぞ。


 レオの声が、丘の向こうから聞こえた。明るい声だ。よく通る。


 まるで遠足の帰りみたいな声だった。



 *



 馬車に乗り込むと、俺の席はやはり末席だった。


 荷台寄りの板張りの上に尻を置く。揺れるたびに背骨に木の硬さが響く。隣に荷物が積んであるから、実質的に荷物の一部として扱われている。


 パーティの構成は変わらない。レオが中央。前衛二人が左右。斥候が窓際。リネットが隅席。俺が末席。


 違うのは空気だ。


 エルデン村に向かうときの空気は「余り物を黙って連れていく面倒くささ」だった。帰路のそれは、もう一段冷たい。


「後方で待機しろって言っただろ」


 出発前に、前衛の一人がそれだけ言った。詰問ではなく、ただの事実確認だった。答えを期待していない声色。返事をしても聞くつもりがない目。


 俺は何も言わなかった。


 言えることがなかったからじゃない。言っても届かないことを、もう知っていたからだ。


 レオは振り向きもしない。


 俺が命令に背いて村に突入したことは、彼にとっては問題ですらないのだろう。雑用係が勝手に動いた。それだけ。被害はなかった——いや、レオの認識では「被害はなかった」のだ。家が五軒以上燃えた。倉庫が全焼した。冬支度の備蓄が灰になった。でもレオにとっては、魔物を三体斬って村人が拍手した時点で「任務完了」だ。


 死者はゼロだった。


 その事実だけが、俺の中でずっとねじれている。命を救った。それは本当だ。でも救えなかったものが多すぎる。


 馬車が揺れる。車輪が石を踏んだ。


 窓の外を、雑木林の影が流れていく。午前の光が葉の隙間からちらちらと差し込んで、車内に不規則な明暗を作る。


「——あの村、支援物資は王都から手配させるから安心しろ」


 レオが前衛に向かって言った。声の調子が軽い。この男は村の窮状を理解した上で手配するのではなく、「良い勇者」を演じるパーツとして発言している——と断定するのは俺の偏見か。


 分からない。分からないが、あの丘の上で完璧なタイミングで到着したときの笑顔を、俺は忘れられない。


 リネットは隅席で端末を操作していた。指先が画面の上を滑るかすかな音だけが聞こえる。何を記録しているのかは分からない。訓練場のときも、村のときも、彼女はずっと何かを記録していた。


 視線が一瞬だけこちらを向いた気がした。


 気のせいかもしれない。翡翠色の瞳が眼鏡の奥で光ったように見えたが、目が合う前に彼女は画面に視線を戻していた。


 馬車の振動が腰骨に響く。右足の踵がじくじくと痛む。



 *



 半日。


 たった半日の馬車移動でも、思考を煮詰めるには十分だった。十分すぎて、頭の中が焦げつきそうだった。


 あのラベル。


 空中に浮かぶ、透明な文字列。俺にだけ見える。召喚の間で見た【勇者補正】【好感度誘導】【感動演出】。宴の席で見た、レオの背後に脈動する巨大な【主人公補正】。訓練場で見た【注目誘導】。そしてエルデン村の上空に浮いていた——【被害拡大】【勇者の劇的到着】【涙の感謝イベント】。


 全部、レオに都合のいい方向へ現実を歪めていた。


 偶然じゃない。


 あれが動くたびに、風が変わり、炎が広がり、人の感情が一人の人間へ収束していった。


 そして俺は、それを見ていることしかできなかった。


 ハリセンを膝の上で転がす。泥と煤で汚れた、張りぼてのハリセン。文化祭の小道具。振れば乾いた音が出る。それだけのもの。


 ——いや。


 本当にそうか?


 スキル判定のとき、鑑定官ヨルグが読み上げた。『物理ツッコミ』。ふざけた名前だ。でも、この世界のスキルはふざけてない。レオの聖剣適性も光属性も、判定された通りに機能している。


 なら、『物理ツッコミ』にも、何かの機能があるはずだ。


 ——あのラベルを殴れたら?


 昨夜から何度も頭を回った仮定が、また浮かぶ。


 殴れなかった。頭の片隅では「殴ったら何か起きるか?」と思ったが、あのときの俺は老人や子供を逃がすので精一杯で、空に浮かぶラベルなんて叩きに行く余裕がなかった。


 でも。


 次があったら。


 次に、あのふざけた文字列が現実を歪めようとしたら。


 ——俺は、殴る。


 殴って、どうなるか確かめる。


 それしかない。仮定のままにしておく余裕は、もうない。



 *



 昼を過ぎた頃だった。


 馬車は王都へ続く街道の森林地帯に入っていた。


 広葉樹と針葉樹が混じった林で、街道の両脇から枝が覆いかぶさるように伸びている。木漏れ日が地面に斑点を散らし、鳥の声が高い。空気が涼しい。エルデン村の煙と灰の匂いとは対照的な、湿った土と葉の匂い。


 静かだった。


 静かすぎる、と思ったのは俺だけだったのかもしれない。鳥の声がさっきまで聞こえていたのに、いつの間にか途切れている。風が木々を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえる。


 馬車が止まった。


 御者が手綱を引いた——のではなく、馬が自分から足を止めた。耳を前方に向けて、鼻を鳴らしている。


「何か来る」


 斥候が窓から身を乗り出した。


 前方。街道の北側。木立の間に、影が動いた。


 一つ。二つ。三つ——六つ。


 人影に似ているが、人間ではない。体格は人に近いが、動きの質が違う。重心が低く、一歩ごとに地面を確かめるような足取り。木陰から出た瞬間、午後の光が浅黒い肌と銀白の短髪を照らした。


 額の両脇に、短い角。


 魔族だ。


「——おっ」


 レオが馬車から飛び降りた。表情が一瞬で変わる。面倒くさそうな帰路の退屈が吹き飛んで、目が輝いている。


「いい感じに来たな。中ボスっぽい」


 訓練用の剣の柄に手をかけながら、レオはそう言った。嬉しそうだった。本当に嬉しそうだった。


 前衛二人が剣を抜いて左右に展開する。斥候が短剣を構えて木陰に滑り込む。リネットは馬車の後方に下がり、端末と片手に魔力を纏い始めた。


 俺は——馬車を降りただけだ。


 武器はハリセン一本。戦闘力はない。立ち位置は街道の南端、馬車の脇。


 魔族の部隊は六名。五名が後方に控え、先頭の一名が一歩前に出た。


 指揮官格だった。


 他の五名より頭半分ほど背が高い。革鎧は軽装だが、身のこなしが違う。腰に短剣を二振り。鋭い切れ長の目。周囲を一瞬で見渡した後、動きが——止まった。


 不自然に。


 止まった。


 指揮官の口が開く。


「我が名は——」


 低い声だった。抑揚がある。芝居がかった響き。


「——魔族辺境斥候第三中隊を率いる者。貴様らが異世界より召喚されし勇者と、その一行であることは承知している。我らの領域を侵した罪は重い——」


 長い。


 明らかに、長い。


 六対六——いや、戦力比で言えば魔族が有利だ。こちらの戦闘要員は実質四人。レオ、前衛二人、斥候。リネットは後方支援。俺は数に入らない。向こうは六人全員が戦闘員だ。


 有利な側が、なぜ名乗りから入る?


 なぜ来歴を語る? なぜ因縁を創作している? 初対面だろう。今まで会ったこともない。なのに「我らの怨嗟は百年の——」とか言い始めてる。百年って何だ。お前と俺は一週間前にこの世界に来たばかりだ。


「おお——」


 レオが感心したように息を吐いた。


「いいね。ちゃんとした敵って感じだ。名乗りから入ってくれるの、嬉しいわ」


 嬉しいのか。


 嬉しいのだ。この男にとって、敵が名乗るのは「ちゃんとした演出」であり、長話は「盛り上がりの前振り」であり、戦場は「自分の見せ場を提供する舞台」なのだ。


 ——そこで、見えた。


 指揮官の背後。木漏れ日に透けるように、文字列が浮かんでいた。


 【舐めプ補正】


 光のない文字。空気に貼りついたラベル。エルデン村で見たものと同じ質感。同じように、俺にだけ見える。


 そして——指揮官の顔に、俺は別のものを見た。


 口は動いている。台詞は流暢に出ている。声の調子も堂々としている。だが、目だ。目の奥に、ごく微かな——ズレがある。


 自分の口が言っていることに、自分の目が追いついていない。


 口元が大仰な口上を紡いでいるのに、瞳の奥にあるのは困惑だ。まるで——自分がなぜこんなことを喋っているのか、自分でも分かっていないような。


 他の誰もそれに気づいていない。レオは「いい敵キャラだ」と思っている。前衛は警戒しながらも名乗りが終わるのを待っている。斥候は間合いを測っている。リネットは——分からない。端末を操作する手が一瞬止まった気がしたが、彼女の視線は魔族に向いている。


 指揮官の口上が続いている。


「——故に我らは、勇者よ、貴様に問う。この森の主を名乗るは——」


 村の老婆の震える背中が、脳裏に閃いた。


 焼け跡の写真立て。


「命があるだけありがたい」と呟いた声。


 空に浮かんだ【被害拡大】。あれを殴れなかった。殴ろうとすら思いつかなかった。


 ——次にラベルが見えたら殴る。


 俺はそう決めたはずだ。


 昨日の夜。今朝の馬車の中。ずっと考えていた。ずっと握っていた。


 目の前に浮かんでいる。


 【舐めプ補正】


 見えている。


 今、ここに。


 思考が止まった。


 体が動いた。


 ローファーが地面を蹴った。右足の踵に痛みが走ったが、関係なかった。三歩。四歩。馬車の脇から街道の中央へ飛び出す。指揮官の声がまだ続いている。「——されど我が誇りに賭けて——」


 ハリセンを振りかぶった。


 泥と煤で汚れた、文化祭の張りぼて。


 狙ったのは、魔族の体じゃない。


 その背後に浮かぶ、四文字。


 振り下ろす。



 **——バァンッ!!**



 乾いた音が、森を割った。


 張り手に似た破裂音。木々の間を反響して、鳥が一斉に飛び立つ。馬が嘶いた。


 ハリセンの先端が空中を薙いだ——物理的には何にも触れていない。魔族の体にも、木にも、地面にも当たっていない。


 なのに。


 【舐めプ補正】が——砕けた。


 見えた。透明な文字列が、ガラスのように亀裂を走らせ、破片になって散る。光のない欠片が空中に飛散し、一瞬だけきらめいて消えた。


 静寂。


 指揮官の口が止まった。


 開きかけた唇が宙に浮いたまま、次の音を失っている。「——されど我が誇りに賭けて」の続きは、来なかった。


 その代わり——目が、変わった。


 困惑が消えていた。あの微かなズレ、自分の口と自分の意思の乖離が、一瞬で消失していた。


 瞳に焦点が戻る。


 切れ長の目が——鋭くなる。本当の意味で鋭くなる。さっきまでの見栄えだけの威圧ではない。眼前の状況を、瞬時に読み取る獣の目だ。


 指揮官が右手を上げた。


 短い。一音。魔族の言葉だ。俺には意味が分からない。


 だが結果は分かった。


 後方の五名が——動いた。


 名乗りの間、棒立ちだった五名が、一斉に散開する。二名が街道の右手の木立に飛び込み、二名が左手の藪に滑り込む。残り一名が街道を塞ぐように前進する。


 挟撃だ。


 三方向から同時に仕掛けてくる。さっきまでの「名乗って待つ」とは全く違う。地形を見ている。こちらの配置を読んでいる。馬車が退路を塞いでいること、前衛の左右展開が木立で分断されること、後方支援のリネットが最も守りが薄いこと——全部、一目で計算された動きだ。


「は——!?」


 前衛の一人が叫んだ。


「なんで急に本気出してきたんだよ!!」


 返事はない。魔族は口を利かない。名乗りも口上もない。ただ最短距離で、最適な陣形を組み、こちらの弱点に殺到してくる。


 さっきまでと——別物だ。


 レオが剣を抜いた。光属性が刃に宿り、薄暗い森に白い光が走る。訓練場で見せた派手な剣閃。切り込みは速い。


 だが指揮官がそれを読んでいた。


 レオの踏み込みに合わせて半歩だけ左にずれ、剣筋の外に出る。同時に短剣を抜いて、レオの空振りの隙を突く——レオは反射で剣を戻して防ぐが、その間に左右の木立から二名が前衛に仕掛け、さらに反対側の二名が馬車の裏を回ってリネットの位置を狙う。


 連携だ。指揮官が前線を引きつけ、分隊が側面を叩く。教科書通りの、しかし教科書通りだからこそ崩しにくい基本戦術。


「くそっ——数が!」


 前衛が二人がかりで対応するが、森の中では長剣の取り回しが悪い。木の幹が振りの軌道を邪魔する。魔族は短剣と体術で、木々の間を縫うように動く。


 リネットが動いた。


 端末を懐に収め、両手で術式を展開する。淡い青の光膜が、リネットの周囲に三層の壁を作る。馬車の裏から回り込んだ二名が最初の膜に接触した瞬間、弾かれる——だが一名はすぐに立て直し、別の角度から再突入する。


「——っ」


 リネットの呼気が短く漏れた。防御を維持しながら、前衛の足元に魔力の膜を這わせる。前衛の一人が木の根に足を取られかけたのを、膜が靴底を地面に固定して転倒を防ぐ。


 同時に、指揮官の短剣がレオの左腕をかすめた。


 浅い。傷は浅い。だが——当たった。


「——えっ?」


 レオの声が上擦った。


 訓練場では無敵だった男が、初めて敵の刃に触れられた動揺が、声に出ていた。


 当然だろう。


 さっきまでは【舐めプ補正】が乗っていたのだ。敵が本気を出さない。名乗りに時間を使う。有利な陣形を取らない。つまり——レオは、**弱くされた敵としか戦っていなかった**。


 補正がなくなった今、戦場は正しい。正しく、厳しい。


 斥候が木陰から短剣を投げた。魔族の一名に命中——するはずだったが、当の魔族は投擲のタイミングを読んで身を沈めた。名乗りの間は棒立ちだった兵士が、今は斥候の呼吸すら読んでいる。


 俺は街道の真ん中に立ったまま、その全部を見ていた。


 見ている「だけ」だった。


 ハリセンはある。振った。ラベルは砕けた。でもそれ以上のことは何もできない。魔族が襲ってきたら、俺には剣も盾もない。ローファーの右足は痛い。肺はまだざらつく。走り回る体力すら怪しい。


 けれど——見えたものがある。


 ラベルを殴った瞬間、世界が切り替わった。


 さっきまでの「名乗り→因縁語り→勇者が華麗に斬る」という流れが、丸ごと消えた。代わりに残ったのは、六対六の、ただの戦場だ。


 俺がやったのは、魔族を殴ったのではない。


 戦場に貼りついていた——**お約束を壊した**。


 その結果がこれだ。味方は苦戦している。さっきより明らかに危険だ。名乗りの最中に切りかかれば楽勝だったかもしれない戦いが、補正を失ったことで、本物の戦闘になった。


 これが——正しい現実なのか。


 味方の悲鳴が聞こえる。金属同士がぶつかる音。木が折れる音。リネットの術式が弾ける光の音。


 ——正しいかどうかは、今は分からない。


 でも、「お約束」で歪んだ戦場より——ずっとマシだと、腹の底で思った。



 *



 戦闘は、体感で永遠に思えた。


 実際は——たぶん、数分だ。


 決着をつけたのはリネットだった。


 前衛二人が左右の分隊を押し返した隙に、リネットは足元の術式膜を一気に前方へ展開した。指揮官の足元に薄い光の膜が広がり、一瞬だけ靴底が地面に張りつく。


 その一瞬で、レオの剣閃が指揮官の腕をかすめた。


 浅い傷。さっきレオがもらったのと同程度。だが——この「浅い傷」は、さっきまでの茶番とは意味が違う。


 指揮官は退いた。


 一歩。冷静な一歩。部下に撤退の合図を出す。短い一音。さっきと同じ魔族の言葉。今度は、後退の指示だと分かった。


 六名が森へ向かう。


 速い。だが——慌てていない。


 指揮官は部下を先に走らせ、自分が殿を務めていた。街道から十数歩、森の入口にあたる最初の木立に差しかかったところで——足を止めた。


 追おうとする前衛を、レオが止めた。


「——深追いするな。ここで終わりだ」


 息が荒い。左腕の浅い傷から血が滲んでいる。でもレオの声には、辛勝の苦さより、「戦闘を終わらせた」という満足感の方が強い。


 ……お前、今の戦いの半分以上、リネットに救われてたぞ。


 言わなかった。言っても無駄だからじゃない。言う体力が残っていなかった。


 前衛二人が肩で息をしている。斥候が木陰から出てきて、左肩を押さえている——かすり傷のようだが、顔が青い。


 そのとき、視界の端で動きがあった。


 森の入口で足を止めていた指揮官が——振り返った。


 十数歩の距離。木立が半身を隠している。午後の木漏れ日の中、銀白の短髪と浅黒い肩のシルエットが見える。顔の細部は木の幹と葉陰に遮られていて読めない。


 だが全身の姿勢は見えた。


 短剣は鞘に戻されていた。追撃の構えではない。逃走の緊張もない。追い立てられて振り返ったのではなく——自分の判断で、自分の足で、止まって振り返っている。その所作だけで分かった。あそこに立っている魔族から、こちらへの害意は消えていた。


 風が木々を鳴らす中に、かすかな声が混じった気がした。


 気がした——としか言えない。風と葉擦れに紛れて、言葉にならなかった。何かを呟いた。一言か二言。こちらに向けた言葉なのか、独り言なのかすら分からなかった。ただ声の調子だけが——さっきまでの芝居がかった口上とは全く違う、低く静かな響きだけが、風の隙間をすり抜けて耳に届いた。


 次の瞬間、指揮官は身を翻して木立の奥へ消えた。部下たちの後を追うように、音もなく。


 俺はその背中を、街道の真ん中から見ていた。


「——なんだったんだ、あれ」


 前衛の一人が、剣を鞘に戻しながら呟いた。


「最初は余裕綽々で名乗ってたのに、急に——」


「本気出してきたよな」


 もう一人が続ける。


「途中で戦い方が完全に変わった。最初の方は隙だらけだったのに、いきなり連携が——」


「……」


 俺は黙って聞いていた。


 彼らは「魔族が急に変わった」と思っている。魔族側の変化として認識している。


 違う。


 変わったんじゃない。**戻った**んだ。


 あの指揮官は最初から本気だった——いや、最初から本気を出せるだけの実力があった。それを【舐めプ補正】が抑え込んでいた。名乗りを強制し、口上を言わせ、有利な戦術を放棄させていた。


 俺がラベルを殴ったから、抑えが消えた。


 だから「急に強くなった」んじゃない。「ようやく、本来の強さで動けるようになった」のだ。


 パーティの誰もそのことを知らない。知るはずがない。ラベルは俺にしか見えない。俺がハリセンを振った瞬間に何が起きたかも、誰にも分からない。


「——乾」


 名前を呼ばれた。レオだ。


 振り向くと、レオが左腕の傷を前衛に手当てさせながら、こちらを見ていた。


「お前、あのとき何してた?」


 声に棘がある。


「戦いの最中に飛び出してきただろ。邪魔だったんだけど」


 邪魔。


 ——ああ、そう見えるのか。


 俺が街道の中央に飛び出したのは、ラベルを殴るためだ。でも他の全員から見れば、戦闘の最中にハリセンを振り回して飛び出してきた無能にしか見えない。


「……すまん」


 俺はそれだけ言った。


 レオは鼻を鳴らして視線を外した。それ以上は何も言わない。追及する価値もないと判断されたのだ。


 リネットが端末を操作する音が、静かに聞こえた。



 *



 馬車が再び動き出す。


 パーティの空気は、さっきより一段重い。予想外の苦戦を強いられた疲労と、説明のつかない違和感。「あの魔族、なんで急に変わったんだ?」という疑問が、誰の口からも明確には出ないまま、車内に沈殿していた。


 俺は末席の板の上で、膝にハリセンを載せていた。


 手が、まだ震えている。


 殴った。


 空中のラベルを。


 張りぼてのハリセンで。


 そしてラベルは砕けた。砕けた瞬間、戦場が変わった。敵の行動パターンが一変した。名乗りが止まり、連携が始まり、戦術が機能し始めた。


 つまり——あのラベルは、「演出」だった。


 戦場を、勇者の見せ場に最適化するための演出。敵が舐めてかかる。名乗りで時間を稼ぐ。こちらに準備の猶予を与える。そして最終的に、レオが華麗に斬って終わる——そういう「流れ」を作るための、世界に貼りついた台本。


 俺はその台本を、殴り飛ばした。


 エルデン村の【被害拡大】は殴れなかった。


 でも今日の【舐めプ補正】は殴れた。


 何が違った?


 分からない。あのとき、考えるより先に体が動いた。理屈じゃない。村の後悔が背中を押した。目の前にラベルがあって、殴れる気がして、殴った。


 結果として、殴れた。


 これが『物理ツッコミ』なのか?


 敵を倒すスキルじゃない。剣技でも魔法でもない。


 **戦場そのものに貼りついた「お約束」を壊すスキル。**


 握ったハリセンが、煤に汚れたまま、俺の膝の上でかすかに軋む。


 打撃じゃない。


 もっと——根本的な何かだ。


 まだ全容は分からない。村のラベルは殴れなくて、今回は殴れた。距離なのか、種類なのか、俺自身の意志なのか。分からないことだらけだ。


 でも、一つだけ確信したことがある。


 **ラベルは壊せる。**


 ハリセンで。俺の手で。


 あの不自然な文字列——レオに都合よく世界を歪めるあの台本を、俺は物理的に殴り壊すことができる。


 村で殴れなかった後悔が、少しだけ形を変えた。後悔のままではある。でも——次の後悔を防ぐための手段が、今日ようやく確認できた。


 窓の外を見る。


 森が流れていく。木漏れ日が車内にちらちらと影を落とす。


 ふと、一つだけ引っかかることがあった。


 あの魔族の指揮官。


 撤退のとき。森の入口で足を止めて、振り返った。


 短剣は鞘に戻されていた。追撃の構えでも、逃走の焦りでもなかった。自分の意思で止まって、自分の判断でこちらを向いた——あの所作は、戦場の動きではなかった。


 そして、風に紛れて聞こえたあのかすかな声。言葉は拾えなかった。何を言ったのかも、誰に向けたのかも分からない。


 だが——あの口上のときと、声の質が違った。


 あの芝居がかった、自分の口が勝手に動いているような不自然な響き。それが、最後の一瞬では消えていた。風に混じったわずかな声は、静かで、低くて、自分の言葉を自分で選んでいるような——そういう響きだった。


 あの魔族の口上が——あの長ったらしい自己紹介が——本人の意思ではなかったのだとしたら?


 あの口が勝手に動いていたのだとしたら?


 名乗りの最中に見えた、目の奥の困惑。口と意思のズレ。あれが演技ではなく本物の戸惑いだったのだとしたら——魔族にも「演じさせられていた役割」があったということにならないか。


 ラベルは、味方だけじゃなく、敵にも貼りつくのか。


 誰かの都合に合わせて、敵まで「いい感じの敵役」にさせられていたのか。


 そして——最後の振り返り。武器を下ろした姿勢。風に消えた声。


 補正を壊された側は、何を思う?


 ……考えすぎか。


 考えすぎだと思いたい。でも、考えずにいられない。


 ハリセンを握る手の震えが、ようやく止まった。


 代わりに、別の何かが胸の底に沈み始めていた。


 ——この世界は、どこまで「書かれている」んだ。

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