第6話 隠された傷
北波富士子には、疑問に思っていることがある。
それは、己の不倶戴天の敵である、西園寺恭子のことであった。
本来であれば、彼女のことなど視界にも入れたくないほど不快な相手であったが、今回の疑問は、恭子への復讐に使えるかもしれない。
恭子は、7月に入っても制服を長袖のままにしている。
白藤女学院のセーラー服は、全体が紺色の冬服と、襟や袖口以外は白の夏服に分かれている。夏服はさらに長袖と半袖に分かれるのだが、夏になれば大抵の生徒は暑さに耐えきれずに半袖にするのだ。
恭子はさらに、体育の授業でジャージに着替える際、長袖のインナーを中に着ていた。
富士子は訝しんだ。なぜ彼女はこんなクソ暑い中、頑なに長袖にしているのか。
そして、彼女のたどり着いた結論は、富士子自身をさらに窮地に追い詰めることになる。
「西園寺ってさ、なんで長袖にしてるか知ってる?」
富士子に呼び出され、いつものハンバーガーショップに集まったみのり、さおり、くるみの3人。
くるみは先日、毒入りカップケーキを渡す役をやらされ、それを知ったみのりとさおりも、いい加減この富士子というヤバい女から離れたくてたまらなかった。
「別に、長袖にしようと半袖にしようと、本人の勝手じゃない?」
さおりは冷静を装い、ドリンクをストローですする。
その内心は、小学校からの幼なじみであるくるみを利用されたことで、富士子に対する不快感を覚えていた。
「でもさ、あそこまで長袖にこだわってるの、なんか怪しいよね」
「あー……そう、だね?」
みのりはぎこちない返事をする。口の中が乾いて、ハンバーガーが上手く喉を通らない。ドリンクに手を伸ばし、ハンバーガーをコーラで無理やり飲み下した。
「……なんかさあ、アンタたち急にノリが悪くなったよね」
じとっとした目を向けた富士子の言葉に、3人はぎくりとする。そのヘビのように絡みつく視線にさらされると、くるみなんかは悲鳴を上げそうになっていた。
「こんな暑いのにテンション上げろって方が無理でしょ……」
さおりがなんとか答えるが、その脂汗は夏のせいというだけではなさそうだ。
富士子は「ん~、それもそっか」とあっさり引き下がったので、3人はホッとする。
「なら、アタシの家来る? エアコン完備で過ごしやすいよ」
「いや! いや……あの……北波ちゃんのお家に遊びに行くなんて、恐れ多くてぇ……」
「別にいいのに。アタシは全然構わないけど?」
みのりは必死に首をブンブン横に振り、とにかく富士子の家に行くのを拒否した。
下手に相手のフィールドに飛び込んで、今度は何をさせられるのかと思うと怖気がする。
「私たち、そろそろ行くね」
さおりがこの状況を抜け出そうと席を立つ。みのりとくるみもホッとしたように立ち上がった。
「今回はお金があるから、おごらなくて大丈夫だよ」
みのりが財布を取り出すと、先にまとめて払ってくれた富士子のテーブルに、注文分のお金を置く。他の2人もそれにならった。
席に1人取り残された富士子は、そんなことにはお構い無しで、恭子の長袖に思いを馳せている。彼女には孤独感など無縁のことなのかもしれない。自分が世界の中心にいると信じ込んでいる彼女にとっては、他の人間などいてもいなくても関係ない。
富士子の頭脳は退場したモブの3人よりも、恭子の弱みを握るためにフル回転していた。
翌日。
体育の授業でセーラー服からジャージに着替える女子たち。
その例に漏れず、セーラー服を脱いで長袖のインナーを着込んでいた恭子に、富士子が声を掛ける。
「西園寺さん、暑くないの?」
「うん、平気」
恭子は富士子にそっけなく答えた。クラスの雰囲気を壊さないように、そして、自分たちが富士子をいじめている加害者にならないようにという配慮である。もし富士子が「西園寺にいじめられている」と虚偽を言い、その証拠として「西園寺に無視されている」という状況証拠を出したらどうなるか。富士子の周囲を巻き込む力は侮れない。
富士子はつかつかと恭子に歩み寄る。
そして、彼女の右腕をつかんだ。
「もしかしてだけど……リストカットでもしてるんじゃないの?」
富士子がニヤリと笑う。
それが彼女のたどり着いた推論であった。
もし、この場で恭子がリストカットしている痕跡が見つかれば、「西園寺恭子はヤバイ奴」というレッテルを貼ることができる。
少なくとも、恭子に近づきたいと思う人間はいないだろう。東条菊だって愛情が冷めきるに違いない。
「その傷、見せてよ!」
そう言って、思い切り長袖インナーをまくり上げた。恭子が富士子の手を振り払おうとしたが間に合わない。
恭子の晒された右腕を見て、クラスメイトたちが小さな悲鳴を上げる。
彼女の腕には、大きな傷があった。リストカットどころの騒ぎではない。腕を縦一直線に、稲妻のように走り抜ける傷跡。富士子も流石にここまでの傷だとは予想しておらず、「な、なにこれ!?」と少しパニックになった。「やばいものを見てしまった」という恐怖が、彼女の声の端々ににじむ。
「ああ……そういう反応されるから、普段は傷を隠してるんだけどね」
恭子は自らの腕に残った傷跡を、指先でそっと撫でる。
菊は「懐かしいね」と目を細めていた。
それは、幼稚園時代の記憶である。
菊は母親の迎えが来るまで、園庭にあるジャングルジムで遊んでいた。恭子はその近くの砂場でトンネルを掘っている。
「ねえ、恭子もジャングルジムにおいでよ」
「や。私、高いところあんまり好きじゃない」
恭子は顔を上げて、ジャングルジムの頂上にいる菊を見上げた。
その日は夕焼けがまばゆくて、菊の目が少しくらむ。
ゆらりとバランスを崩した菊が、ジャングルジムから転落する光景が、恭子にはスローモーションに見えた。
次の瞬間、恭子の足は砂を蹴り、地面に落ちていく菊を受け止めようと走る。
恭子は昔から運動神経がよかった。
結果から言えば、菊は無事だ。恭子が受け止めてくれた。
しかし、受け止めた拍子に恭子の右腕をジャングルジムの鋭利な金属部分がひっかき、一直線に大きく深い傷を残した。
幼稚園のスタッフは大騒ぎである。完全に事故だった。園庭にスタッフがいなかったのも災いしたのである。
当時の菊も大泣きして、恭子に「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝罪した。
ただ、恭子本人が全く気にしていなかった。
「別に腕は動くし、いいよ」
それ以来だろうか、菊が恭子に王子様のように、あるいは執事のように、常に近くに控えるようになったのは……。
菊と恭子の思い出話――あるいは馴れ初めとも言える――を聞いたクラスメイトは感激していた。
「西園寺さんって東条さんを助けたことあるんだ……」
「東条さんが西園寺さんに懐いてるのも納得だわ」
菊は恭子の右腕を取り、そっとまくられた袖をもとに戻す。
「あのとき、恭子は私を助けてくれた。だから私は、今でもずっと、彼女の傍にいるんだよ」
恭子と菊の美談に聞き惚れる生徒たち。
一方、富士子の暴挙には非難が集まった。
「北波さん、西園寺さんの傷を無理にさらそうとするのやめなよ」
「転校してきたときから思ってたけど、北波さんって人を傷つけること、平気でするよね」
富士子は冷や汗を流しながら「うるさい、うるさい!」とヒステリックに叫んだ。
「なによ、アンタたち! 日和ってるくせに、ここぞとばかりにアタシを悪者にしてさ! マジでキモいんですけど!」
そう言い捨てると、彼女はジャージに着替えたまま、教室を飛び出す。
廊下に駆け出した富士子の顔は、悔しさよりも、どこか怯えたような色を浮かべていた。
体育の授業になっても、富士子は現れない。
「私、なんか悪いことしたかな?」
「いや、恭子は何もしてないでしょ。また北波さんの自業自得っていうか……」
きょとんとしている恭子と、富士子に呆れている菊。
富士子の破滅も近いのかもしれない。
〈続く〉




