貴方は誰を見ているの
「〇〇さんの動画に出たから凄い人だ」とか。
「〇〇さんと一緒に音楽をやってたから凄い人だ」とか。
そんなふうに誰かの価値を、別の誰かを通して測ろうとする言葉が。
そういう言葉が嫌いだ。
それはまるで、その人自身をまったく見ようとしていないみたいだ。
自分の目や耳で確かめることを放棄して、安易な印を押すみたいに、他人の名前を借りて評価を決めつける。
そうやって褒められることは、むしろ残酷だとすら思う。
本当は、その人自身の声がある。
仕草がある。
笑い方がある。
演奏する時に必ず首を少し傾ける癖がある。
知らない曲を聞いた時に黙り込み、少し目を細めて、それから「いいね」と呟く瞬間がある。
全部、そこに立っているその人のものだ。
なのに人は、その人の輪郭を自分で掴もうとはしない。
「〇〇さんと一緒にやってたからすごい」
それはただ、すごいと思うための根拠を借りているだけだ。
そこに本当の理解や敬意なんて存在していない。
そう言葉を浴びせられるたびに、胸の奥がひどく冷えていった。
自分がもし褒められたとしても、誰かの影を通してしか評価されないのだと思うと、そこに自分はいない気がする。
姿を持ちながら、透明にされていく感覚。
「あなたが良い」と言われたいのに、いつまでも「あなたは〇〇と繋がっているから良い」としか言われない。
それは褒め言葉じゃなく、ただの鎖のように思えた。
だから私は、少しずつ言葉に耳を閉ざすようになった。
褒められるたびに、笑って頷くふりをしながら、その場をやり過ごす。
「ありがとう」と返しながら、心の中ではその言葉を突き放していた。
本当に見てくれている人は、きっと他にいるはずだと信じながら。
そしてある日、静かな夜に友人が小さく言った。
「君の声、最初の一音で全部空気が変わるね」
その言葉に、ようやく私は救われた。
そこには誰の名前もなかった。
誰かの影も、借り物の価値もなかった。
ただ、私を見てくれた言葉があった。
それだけでよかった。
その一言があれば、他の無数の「〇〇と一緒だから」という声は、全部どうでもよくなった。
だって私は、やっと、私として存在できたからだ。
人は簡単に、他人の名を通して褒めたがる。
でも私は、それを拒む。
私を褒めるなら、どうか私を見てほしい。
私の目を、声を、指先を、今ここにある私の姿を。
それができない言葉は、どんなに美辞麗句を重ねても、ただの空虚な音にすぎないのだ。